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猫が書きました(事実)

16メートルのピッチング


 目に見えて上達している。おそらく、他のチームメイトもそう思っているだろう。


 入部当初、ピッチャー志望だと告げた僕たちは、ふたりとも球が遅いからと、内野手に強制コンバートされた。ポジションは二塁手。1年生にはよくある話だ。


「とりあえずだ。一年だから仕方ない。とりあえずな」

彼はそう言って、黙々と二塁手のノックを受け続けた。


  部活が休みの日、彼の家でテスト勉強をしようと、他のチームメイト3人で集まることになった。お菓子とジュースをいっぱい詰めたビニール袋をぶら下げ、和気あいあいとベルを鳴らす。


「こっちだ、入れよ」

「お邪魔しまーす!」

 みんな大きな声で騒ぎながら中へ入る。他の家族が外出中なのを知っているからこその悪ふざけだ。


「そこの廊下の左の部屋。コップ持ってくるから、先に入ってて」

彼はキッチンに向かった。


「大きな家だな、いいな、一軒家。うちなんて賃貸だから」

そんな他愛ない話をしながら縁側の廊下を歩いていると、ひとりの友人が突然立ち止まった。


「あれって……」

 彼が庭を指差す。そこには分厚く重ねられたボロボロの布団らしきものが塀の前に吊るされていて、その下にはホームベースがあった。


トレーにコップを載せた彼が戻ってきた。

「どうした?そこの部屋だぞ」


 誰が聞くべきか、目で相談し合った末、僕が口を開いた。

「あれってさ、もしかして投げてるのか?」

僕は外を指差した。


「ああ、あれか。一応な。そっちから」

 彼が指した先には、何度も踏み固められたような、草の生えていない綺麗な一帯があった。その周りには雑草が生えているが、そこだけは軸足で踏ん張った跡がくっきり残っている。


「いつ投げてるの?」

友人が聞いた。


「毎日。一応な」

「マジで? 部活やった後に?」

「一応な」


「スゲー!」

みんな口を揃えて感嘆する。

「でもな、本当は18メートルないんだ。たぶん16メートルぐらい。でも、投げないよりはいいだろ。3年になったらピッチャーやるつもりだから」

 彼は事も無げにそう言った。友人たちはまた声を上げる。


 その時、気のせいかもしれないが、彼が一瞬僕の方を見た気がした。友人たちと一緒に感嘆の声を上げなかったからかもしれない。


「すごいな」

僕はポツリと呟いた。


 

テストが無事終わり、部活再開の日。

部室に一番乗りだと思ったが、彼が既に来ていた。


「おっす」

「おっす」

 いつもの軽い挨拶を交わしながら着替えを始める。スパイクの紐を結ぶ彼に向かって、僕は意を決して言った。


「なあ、本気でピッチャー狙ってるのか?」

「ん? ああ、もちろんだ。一応な」

またあっさりと言う。

「でもお前もだろ? ピッチャー諦めてないのは」


思わぬ言葉に、僕は目を丸くした。

「……なんで?」


「昼休み、体育館の裏でタオルのシャドーやってるの見たから」

「つ、つけたのか?」

「つけた」


 体育館裏は暗くて湿っぽい、窮屈な場所。だからこそ、人目を避けてピッチングフォームの確認ができた。


「どうして」

「昼休み、お前を見たことが無かったから、たぶん何か練習してるんだろうと思った。それだけ」

「たぶんってなんだよ。それだけで人のことつけるのか?」

「……実はそれだけじゃない」

「?」

「お前、普段からボールを隠して持ち歩いて握ってるだろ? 野手はそんなことしない。ピッチャーだけだ」

「……気づいてたのか」

「一応な」

 彼は軽く笑いながら言った。その笑顔がなぜか重く感じられた。隠していた努力を見透かされた気恥ずかしさが込み上げたからだ。


「それで?ピッチャー狙ってるんだろ? だから俺は家で投げ始めた。お前より速い球を投げないと……。先発マウンドにはひとりしか立てないからな」


 キャッチボールで、日増しに彼の球が重く速くなっているのを感じる。受ける衝撃が、否応なく僕を急き立てていた。


 僕は彼の背中に追いつこうと必死で隠れトレーニングを続けるが、距離は縮まらなかった。でもそれは、彼も僕の背中を追って走っていたからだ。お互いが、互いの背中を必死で追いかけていた。



「俺、入学した時よりも速くなったよ。たぶん135キロは出てる。まだ安定しないけど」

「マジで?」

「ああ、一応な。お前は?」


 彼の「一応」という口癖。その短い言葉の中に、揺るぎない炎が燃えている。


…… でも、それは僕も同じだ。


「136かな」

「ホントかよ」

「ああ、測ってないけど。ちゃんと測れば出る。136」

「そうか。昨日測ったら137出てた。一応な」

「そうか。こっちは今朝138出てた」

「測ってないんだろ」

「測ってないけど、ちゃんと測れば絶対出てた」

「なんだよ、それは」彼は半分呆れ、半分笑いながら言った。


「先、行くぜ」

「ちょ、ちょっと待って」

僕は急いでスパイクの紐を結び、慌てて追いかける。


 取り残されるわけにはいかない。先に背中に手をかけるのは、僕の方だ。



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