
猫が書きました(事実)
手を繋いで
ため息なのか深呼吸なのか、自分でももう分からなかった。レコーディングスタジオの空気は、いつもより冷たい気がする。
ヘッドホンから流れるイントロは完璧だ。緻密に計算された音の波が、心を少しずつ溶かしていく。それでも、マイクの前の自分の声だけは、その波に寄り添わずに弾かれているようだった。
「もう一度いこうか」
ガラス越しにディレクターが小さく頷く。その隣には彼が座っている。子どもの頃からの憧れ。音楽界のレジェンド。新人の私に、完璧な楽曲を提供してくれた人。人生最大のチャンスをくれた人。
なんとか認めてもらいたい。良い歌を録りたい。その気持ちばかりが空回りしているせいか、彼の視線はどこか遠い。
息を整え、歌い始める。けれど、何かが違う。確信できるのは、違和感だけだった。
「一息入れよう」
ディレクターの声に、私は深く息を吐いた。これで何度目だろう。もう数える余裕すらない。
ひとりになるためだけのトイレ休憩で、ため息をつく。気持ちを入れ直して戻ると、スタジオの入り口に彼が立っていた。
「ちょっと外の空気を吸いに行こう」
低くくぐもった声。彼の持ち味である美しいハイトーンボイスとはまるで別の響きだった。
「はい」
私は小さく返事をして、彼の後に続いた。
冷たい夜風が頬を刺す。心だけでなく体までもが縮むような気がした。
近くの小さな公園に着く。街灯がやけに眩しく見える。周りの雑踏の音だけが遠くから聞こえ、公園内は静まり返っていた。
彼はコートのポケットに手を入れたまま、無言でベンチに向かう。後を追う私は、何を話せばいいのか分からず、口を閉ざしていた。せっかく素晴らしい曲を書いてくれたのに……。申し訳なさが胸を押しつぶしそうになる。
「どうぞ」彼がベンチに手をやる。
「失礼します」私はおずおずと腰掛けた。
「違う、違う。そうじゃなくてさ」
彼は軽く笑みを浮かべると、スッとベンチに飛び乗った。そのまま仁王立ちする。
「ちょっと行儀悪いけど、あとでちゃんと拭くからさ。君も」
状況が飲み込めないまま、彼の差し出した手を握り、同じようにベンチの上に立つ。
「じゃあ、歌ってみよう」
「えっ?ここで、ですか?」
「うん。最初から。ハイ、ワン・ツー」
彼の勢いに引っ張られ、私は喉を開く。隣で彼が指でリズムを刻み、そのテンポに遅れまいと必死に声を出した。
鼻が冷たい。吐き出す息がスタジオ内とは違う広がり方をしている。こんな発声じゃダメだ──そう思うと泣きたくなりそうだった。
一曲を歌い終えた頃、彼が頷いた。
「うん、悪くない。音程もリズムもちゃんと取れてる」
「……ありがとうございます。でも本当は違いますよね。すみません」
「さあ、それはどうかな」
ふと気づくと、離れたところに人影がポツポツと増えていた。
「君の声が気になって、みんな公園に入ってきたみたいだね」
「……夜中にうるさくして迷惑ですよね」私は慌ててベンチから降りようとした。「まあまあ、慌てないで。今度は一緒に歌おう」
そう言って彼は手を差し出す。その目は穏やかで、なんの抵抗も抱かず、私は自然と手を取った。
ふたりで声を重ねる。彼のハイトーンが響き、私の歌声がそれに絡み合う。ぎこちなかったはずの音が、不思議と一体感を持ち始めた。
間奏部分でふと周囲を見る。まばらだった人影がいつの間にか近くに重なり合っていた。微笑みを浮かべながら次の声を待つ人、スマホを手に撮影する人。
もちろん、彼の力だ。無言でリズムを刻む姿でさえ、通りすがりの観客たちを魅了する。改めて彼の凄さを感じた。
最後のサビを終え、拍手が湧き起こる。彼と顔を見合わせ、笑い合った。
ベンチから降りると、サインや握手を求める声が上がった。もちろん彼に対してだ。
そんな中、私にも声がかかった。その瞬間、彼が、
「ごめんね、まだこれから収録あるから」といって私の手を取り、謝罪しながら観客の間を抜け出した。
「やっぱり凄い人気ですね。レジェンドですもんね」
「いやいや、君もね」
駆け足でスタジオに戻る。その間も手は繋がれたままだった。
あれ?
どうしたんだろ。少し走ったからかな。そう思った。彼の手が少し震えていたから。
私がそれに気づいたのを察して彼はパッと手を離した。そして照れくさそうに、「レジェンドなんて言われてもさ、新曲の時はいつもドキドキなんだよ。不安だらけ」といった。
「そうなんですか。すごく意外です」「誰かのカバー曲の時は全く緊張しないんだ。歌い方はもう模範解答があるからね。でもオリジナルはそうじゃないから。何もかも初めて。手探り。これでいいのかっていつも考える」
彼が真剣な眼差しで言う。
「だから君が迷ったり不安になることを俺は怒らないよ。そこから逃げたら怒るけど」
「……はい」
── 折れそうだったけど、励まされた。この上なく励まされた。スタジオに戻って収録を再開して、たぶんまたNGだらけだろうけど、でも絶対に最後までやろうって思うぐらい励まされた。
全身に力がみなぎる。駆け足のスピードをあげて彼を追い越した。
「そう言えば、ベンチ拭いてくるの忘れちゃいましたね」
「あっ」
ふたり、笑顔で思い出した。
「曲が大ヒットしたら、俺が新しいベンチと交換してやる。だから頑張ってくれ」
「はい」
夜風の冷気を払いのけ、私はスタジオに向かって行った。