狙っていない「かわいさ」ってやつを狙いにいきたい
「かわいい」にはたくさん種類がある。そして、人が何かを「かわいい」と思った瞬間に生まれる「ときめき」は、私たちに幸福をもたらしてくれる。
人が反射的にかわいいものを愛でたくなるのは本能レベルの習性なんだなあと、この2つの記事を読んで改めて思った。
「つい」クリックしてしまう、「つい」フォローしてしまうのは、この「ときめき」に突き動かされているからだ。上の1つ目の記事は画像生成AIがWeb広告に与える影響についての記事だが、画像に使われるロボットの「かわいさレベル」でここまで心の反応が違うのかと驚いた。
きゅるんとつぶらで愛くるしい瞳に、まるで幼な子がヘソを曲げてしまったかのような口元。思わずキュンとくる。
人の心を動かす可愛さに共通しているもの
数ある「かわいい」をカテゴリに分けてみると、次の4つが挙げられるように思う。
女性が女性に対して抱く憧れとしての「かわいい」
男性が女性に対して抱く性的な意味での「かわいい」
弱く小さいものに対して庇護欲をかき立てられる「かわいい」
健気で純真なものに対して抱く癒され応援したい意味での「かわいい」
上記の中で1や2は、価値観が多様化している中でより大多数に刺さる「かわいさ」の見極めが難しかったり、批判が上がりやすくなっているように思う。
「あざとくて何が悪いの」系も、この1に分類されるもので新しい価値観だ。女性がそれまで感じて耐えてきたフラストレーションを華々しく昇華させ、自己肯定感を重視する流れと相性が良く一気に浸透した。一昔前では「下品」「ぶりっ子」と非難されてきた考え方だから、人の中に眠るくすぶった欲求を正しく掬い上げられていなければここまで流行はしなかった。
しかし、3や4は時代で変化せず、言わば人間の良心や本来持っている本能に近いためバズりやすく平和なコンテンツになりやすい。
そんな、人間の本能的なツボをおさえているのが冒頭で紹介したナウル共和国のツイッターである。
かわいさあふれるナウル共和国のツイート
ツイートを遡ってみて、思わず「かわいいっ…!」と悶えた。
なんなんだこのかわいさは。ときめきが止まらない。
国の公式ツイッターとは思えない素朴な投稿の数々。なんか俳句読んでるし。しかも「なうる」ってひらがなで署名までしているし。
公用語はナウル語と英語らしいが、日本語で投稿してくれている。そして、「北海道はでっかいどう」なんて親父ギャグまでマスターしている。
狙っていないかわいさをどう狙いにいくか
このナウル共和国のツイートは、国の目玉が少なく投稿する内容をなんとか捻り出して四苦八苦した結果だと”中の人”は言っている。
結果としてフォロワーが38万人にまで達しているのは驚愕の一言だ。
ツイッターで多くのフォロワーを獲得したくても、狙ってこのナウル共和国のポジションを獲りに行くのは難しい。
なぜならば、彼らのかわいさの根源は「素朴さ」「健気さ」から生み出される「癒し」「愛くるしさ」「偶発的なユーモア」で、それらは人の「フォロワーたくさんほしい!」というギラついた下心とは真逆であるからだ。
動物や幼な子を使ったコンテンツは、運営主体である親や飼い主の「金が欲しい」という下心をぼかしてくれるからまだ狙いに行きやすい。動物にも幼な子にも下心はないと思われているためだ。
では、それ以外のコンテンツをテーマにしつつ自分の下心をぼかして「かわいさ」でバズりにいく方法はないものか。
巷にあふれるコンテンツを眺めつつ思ったこと。それは「自分以外を発信する」ことなのではないか。
視聴者に愛でられ比較的コメント欄が平和なコンテンツに共通しているのは、撮影者と映像に映っている人物が違っているということだ。
自分の祖母を撮る
自分の親を撮る
自分の友達を撮る(自分が映る場合は誰かに撮って投稿してもらう)
陽キャVtuber *明るい喋りと自虐ネタ(ガワと中身が異なっている)
etc..
自分で自分をプロデュースするとどうしても自意識や欲や下心の影響を受けたコンテンツが誕生してしまう。その点、誰かの手によってプロデュース&編集された方が客観的に魅力的なコンテンツにしてもらいやすいのかもしれない。
映っている人間の欲や意図と撮影主の意図が違っていると、そのコンテンツに宿っている本来の下心から映像の自分が切り離され、「なぜこんなやつの収益に貢献せねばならんのだ」と敬遠されにくい気がしている。
となると、孤独な人間というのはバズりにおいて不利なような気がしてきた。
ただしその場合は、「かわいそうな人」というポジションで人の不幸をよだれを垂らして待ち構える消費者にバズる可能性があるから、それはそれで問題ない…のだろうか。