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織田がつき羽柴がこねし天下餅座りしままに食うは徳川の絵師歌川芳虎
江戸時代にある歌が詠まれた
織田がつき羽柴がこねし天下餅
座りしままに食うは徳川
この歌は誰が詠み始めたのか不明である
しかしこの歌が詠まれたことで1つの絵が生まれた
それがこれ
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武士が餅つきをしているだけの絵である
しかしこの絵
餅つきをしている人物は織田信長、明智光秀餅をこねているのは羽柴(豊臣秀吉)、そして餅を食べている人物は徳川家康なのである
この絵を描いたのは
歌川芳虎
1849年、ペリー来航の数年前のことである
この歌川芳虎とはどういう人物なのだろうか
歌川国芳の門人であり本名は永島辰五郎
嘉永3年には南鞘町六左衛門店に住んでおり、後に長谷川町、中橋松川町2、明治期に神田鍛冶町6に住んでいる
11歳のときに国芳の門人となり、天保(1830 年- 1844年)の頃から作画を開始している
国芳が得意であった武者絵に秀で、役者絵にも錦昇堂版の役者大首絵などの力作がある
また美人画シリーズや相撲絵、横浜絵などにおいても活躍しており、幕末の時期において活動的な絵師であった
相撲絵は、国芳門人の中で最も多くの作品を残している人物である
なんでも幼い頃からかなり気性の激しい人間だったようで、同門の弟子同士でもしょっちゅう喧嘩をしていたとか
天保8年または嘉永2年(1849年)に描いた錦絵「道外武者御代の若餅」では、「織田がつき 羽柴がこねし 天下餅 座して喰らふは 徳の川」という歌に着想を得た
活動を始めて数年ほどで風刺画のような内容の絵を描いたのだ
当初は、この絵は普通に武士が餅つきをしている絵として扱われていた
だから問題にされるものではなかった
しかし、評判になってから絵の意図に気がつく者が多くなり、あっという間に没収となってしまった
さらに歌川芳虎は手鎖50日の処罰を受けることになってしまう
その後、安政5年(1858年)に師匠の国芳から破門されてしまう
これは芳虎が師匠を怒らせたとかではなく、芳虎の方から破門を申し出たようだ
しかし芳虎は芳虎の名前を捨てることなく、その後も、この名前で活動し続けている
よく分からない男である
そもそもどうしてこんな風刺画を描いたのか
徳川家康といえば、江戸時代には神様のような存在と扱われていた
徳川の天下である時代にこんな風刺画を出せば、どんな目に合わされるか
芳虎も判っていたはず
実はこの行動にはある出来事に対する抗議の意味があった
当時、老中・水野忠邦が打ち出した「天保の改革」によって、娯楽が制限される事態になっていた
歌舞伎を上演する芝居小屋は閉鎖
役者絵、美人画、春画、などは幕府が検閲して許可が出たものしか販売できなくなり、遊女絵は禁止、歴史の偉人の絵すらも対象とされた
代わりに、勧善懲悪、道徳的な正しい教訓といった堅苦しい内容のものが推奨された
浮世絵絵師達は風俗を乱すような絵は描かないと証文にサインをさせられたという
市民の娯楽は奪われてしまい、出版業界も縮小していくことになる
このような状態に芳虎の師匠である国芳は反発し歌川国芳一門はこれら規制に対して抵抗していく
抵抗といっても現代のようにデモ行進など表立って運動するなんてことはできない
そこで、パッと見ただけでは分からないように絵に対して暗号のようなメッセージを入れ込むことで抗議することにした
1844年(弘化元年)には歌川国芳が「源頼光土蜘蛛の画」という錦絵を発表
妖怪退治をする源頼光と四天王
四天王の一人に水野忠邦の家紋を付けた
このとき、絵を見た一般人からは幕府批判だと話題になり、処分を恐れた版元は版木の家紋部分を削り証拠隠滅を計り処分を免れた
芳虎も土蜘蛛退治の絵を描いたが、芳虎の方は処分されて、どのような絵だったのか不明である
さらにその数年後に「道外武者御代の若餅」(どうがいむしゃみよのわかもち)という錦絵を発表
それが「織田がつき羽柴がこねし天下餅
座りしままに食うは徳川」を意味する絵である
つまり織田や明智、そして豊臣秀吉が作ってきた天下という栄光を何もしてない徳川が棚からぼた餅的に手に入れただけ
という徳川幕府に対する強烈な嫌みである
先ほども描いた通り、芳虎は手鎖50日の処分を受けた
手に鎖を繋がれたまま自宅軟禁の刑である
そんな目に合いながらも、さらに風刺画を描いた
「子供遊び 凧あげくらべ」
空を埋め尽くす凧の様子が描かれた絵
しかしそれぞれの凧に米、味噌、紙類、乾物、下駄、船賃、漬物、塩、鰹節、菜種と書かれている
これは物価高騰を風刺した作品
幕府は低い身分から出世した豊臣秀吉の太閤記を出版禁止にしていた
それに抗議する絵も描いている
「堀川夜討」
源頼朝は弟である源義経の振る舞いに激怒し家臣・土佐坊昌俊に討伐の命を出す
土佐坊昌俊が源義経の館に夜襲を仕掛けるときの絵だ
このときの源義経の着物に織田信長の家紋が描かれているのだ
つまり「太閤記」に出てくる「本能寺の変」をなぞっている
このように世の中の表現規制によって娯楽が奪われて面白くない、つまらない世の中に対する抗議を続けた
師匠譲りなのか、それとも元々の性格なのか、かなりの反骨精神の持ち主だったようだ