ご近所ミステリー27 小窓のある家

あらすじ: 
 主婦添岡たね子は、夫はネガティブ思考の面白みのない男だと思っていたが、夫の死後、彼女が気づかなかった夫の別の一面を知ることになる。それが奇妙な出来事とリンクして行くことに・・・。
ご近所ミステリー第二十七弾です。読んで頂ければ幸いです。

添岡たね子は結婚以来この閑静な住宅地に長年住んでいるものの、未だに居心地の悪さを覚えている。理由はいろいろあるが、生来の疑い深い性格のためか、絶えず周りの住民との距離を感じるのだ。言い換えれば、誰も彼女に近づこうとはしないのだ。
市役所勤務だった夫和夫はそれなりの大学を卒業しており、結婚して一緒になった当初は役所でもかなり有望と期待されていたようだが、いつしか役所内で孤立し、やる気も失せていった。その後、退職するまで役所では変人で有名だったようだ。そんな和夫は家庭でも面白みのない男になり、口を開いては何事にもネガティブなことを言う癖が沁みついていた。そして彼は、いつしかたね子にとっては単なる給料運搬人になっていった。そんな夫との間には二人の息子もいるがともに自立しており、鬱陶しい父親を毛嫌いしてこの家にはあまり寄り付こうとはしない。
ただ、子供達が出て行ってからは、夫との二人だけの生活になり、耐えられなくなったたね子は、生活に困窮している訳ではなかったが、気晴らしにパートに出た。人に気を遣うのは近所だけで十分だったので、比較的パート仲間との関わりの少ないビル掃除などのパートを見つけ働いていた。だが、いつしか陰で近所の主婦達から「お掃除たねさん」とか「トイレ掃除のたね子さん」などと呼ばれていることを知り、さらに近所の住民とは距離を持つようになっていた。
やがて、夫和夫は市役所を定年退職し、何の趣味もない夫は毎日が日曜日の生活になった。家の中に二人きりというのは息苦しくもあったが、自分だけ外で働くのも馬鹿らしく思われ、数年していた掃除のパートもやめることにした。
ちょうどその年、たね子らの一角は輪番でこの地域の小学生の登下校の見回り当番が回ってきた。できることなら近所の主婦達と関わりたくはなかったが、当番なので仕方なかった。 
だが、自分を露骨に低く見ている彼らの視線を感じ休む日も増えてきて、やむなく夫に代わりに行ってもらうことにした。最初は夫も渋っていたが、そのうち健康のためだと呟きながらも参加していた。しかしようやくその一年の当番が終わりに近づいた三月初旬、突然心不全で他界したのだった。
もともと病弱でカネにはあまり執着心の無かった和夫は、退職金をたね子に任していたばかりでなく、個人的な預金などもたね子に教えていたので、彼女はカネに苦労することはなかった。ただ、和夫の死とともに自分を見下していた近所の住民、特に登下校のグループだった源田康代、外山春香それに中垣好美には反感に近いもの感じるようになっていた。
たね子は気分一新するために家を触りたかった。新しく立て直す費用は夫が残してくれてはいたが、いつ施設に入ることになるかもしれないので、新築ではなく改築することにした。ただ和夫が他界してすぐ始めるには近所や周りの目もあったので、一か月程して改築することにした。その際、いくつかの小窓がある瀟洒な家に改築することにした。
改築が完成した頃、「人の不幸は蜜の味」とはよく言ったものだとたね子は二階の小窓から周りを眺めながらつくづく思うのだった。そしてこれからはこれらの小窓を通して近所をいろいろと観察しようと思った。いや、観察するだけではなく、
・一見富裕層が多く住んでいそうなこの地域だが、新聞を取っている家は極めて少ない 
・春香の老父は毎日近くのスーパーに水をもらいに行くのが日課のようだ
・好美宅には毎日フードデリバリーがやってくる。好美は自分で調理をしていないのか
などと気づいたことをメモにするようにもなっていた。  

そんなある日、以前たね子が清掃の仕事で登録していた派遣会社から電話が入り、このゴールデンウィークの3が日だけ清掃の仕事をしてくれないかと頼まれた。長年世話になった会社なのでやむなく引き受けることにした。そこは郊外にあるいわゆるラブホテルだった。その時期、観光ホテルも客で一杯だが、ラブホテルも盛況で人手不足が深刻らしかった。
ゴールデンウィークの初日の事だった。たね子がホテルの3階の廊下を掃除していた時、何気に下を見るとどこかで見かけた黒の軽があった。ホンダのNボックスだった。よく売れている車なので別に珍しい事ではなかったが、かすかに見えるナンバーに見覚えがあった。たね子は近所の車のナンバーはすべて覚えているのだった。<あのナンバーは康代の車だ>と思った。10時までには出てくると思ったので、廊下の掃除をしながらチラチラ下を見ていると、案の状、康代だった。康代は何となく顔を隠しているようだったが、連れの男は別に顔を隠すわけでもなく堂々としているように見えた。しかもその男、どこかで見た覚えがあると思ったが、たね子の住む地域を担当する宅急便の若い男だった。
二日目も3階の廊下から注意して見ると、同じ位置に康代の車があった。連れの男は昨日とは異なりしきりと顔を隠すようなしぐさでNボックスに乗り込んでいた。この男もどこかで見たような気もしたがすぐには思い出せなかった。
連休最後の三日目もNボックスはあった。連れの男に見覚えはなかったが、宅急便の若い男のように堂々と康代の車に乗り込んだ。独身であろうとなかろうと、康代が誰と遊ぼうが康代の勝手だが、康代を見る限り愛欲に溺れた中年女という雰囲気はなく、どことなく淡々としているような気がした。
その後数か月が過ぎ、自治会の一番のイベントである夏祭りが近づいてきた。何となくわれ関せずという雰囲気のあるたね子の住む地域だが、この祭りだけは特別で、毎年少なくとも各家から男一人は出て櫓を立てるのだった。そして女性軍はその周りで盆踊りをして夏祭りを盛り上げる。
ただ、毎年盆踊り前日には六十前後の石山喜美江による踊りの練習も行われた。その練習にも殆どの主婦が参加するのだった。毎年のことだが<盆踊りは見かけほどは易しくはない>と思うたね子だった。その日も浴衣が汗でびっしょりになるほど練習するたね子だった。そんなたね子に喜美江は親しげに声をかけてくれた。その日の喜美江は踊りの師匠よろしく指導をしているが、普段は近所に住むごく普通の年配の主婦で、なんとなく周りから浮いているようにも思われた。
だが、不思議なことに盆踊り当日、喜美江の姿は無かった。そのことが何となく気になったたね子は翌日、喜美江がレジのパートで働いている郊外のホームセンターに行ったついでに、レジ担当を眺めたが、喜美江の姿は無かった。軽く買い物をして、レジの若い女性に喜美江のことをそれとなく聞いてみると
「そうなんですよ。石山さん、黙って休むもんですから私が急遽彼女の代わりに打ってるんですよ」
とその女性は露骨に嫌な顔をして言った。
 乗りかかった船だから、たね子は近所の喜美江の家に行くことにした。改めて眺めるとたね子の家と同様小窓の多い家だった。驚いたことに、喜美江の家の周りには十人近くの人がいて、救急車が赤い灯を点滅させながら止まっていた。誰に聞くでもなく背後から
 「どうなさったんですか?」
と言うと前にいた中年の主婦が
 「今日、親戚の人が気づいて通報があったらしく、玄関で倒れていたそうですよ。熱中症じゃないかしら?」
とたね子に振り返ることもなく言った。さらに
 「日赤病院に行くみたいですよ」
と独り言のように言った。
 この近所にあって、喜美江はたね子に声をかけてくれる数少ない一人なので、改めて明日病院に見舞いに行ってみようと思った。振り返り、小窓の多い喜美江の家を見ながら<彼女もここから近所を観察していたのかしら?>と思った。
 翌日、病院に行き病棟の詰所で病室を聞くと、6人部屋だったので重篤でないことは想像できた。大きなマスクを着けて顔を出すと喜美江は眉をひそめ、しきりに焦点を合わそうとした。それを察知したたね子はマスクをそっと外しながら
 「たまたまこの近くを通ったので寄ってみたんだけど、具合はどうですか?」
と言うと
 「なんだ、和さんの奥さんじゃないの。マスクしてたので分からなかったわ。失礼しました」
と言った後、嬉しそうな表情で今までの経緯をたね子に話した。要するに盆踊りに行こうと思ったが、今までの疲労と暑さそれに水分補給をおろそかにしていたせいで、ふらっと気を失ってしまい、心配した親戚が駆けつける翌日の昼頃まで倒れていたとのことだった。だが、そんなことより喜美江が不器用で不愛想な夫のことを「和さん」と言ったことで、頭が少し混乱してしまい、喜美江の話もよく頭に入ってこなかった。
 家に帰ると、夫が他界して以来、一切手を付けていなかった夫の遺品を少し整理してみようと思った。夫のいわゆる書斎の本棚を整理するといきなりどぎつい成人雑誌やアダルトDVDが多数出てきた。いわゆる「むっつりスケベ」の夫の事だから、このようなものが多数出てきてもたね子は驚きはしなかった。ただこれらをどう処分しようかと思案していた時、雑誌の隙間から一枚の写真が落ちてきた。普通の集合写真だった。その写真は小学生の登下校の世話をする和夫たちのグループの写真だった。もとはたね子もそのグループの一員だったが、康代、春香、好美達とうまく行かなかったので和夫と代わってもらったのだ。不器用な和夫だったが、それなりにうまくやっていたのだろう。この写真を見る限り楽しそうに映っていた。<夫は彼女達の中にあってどのような立ち位置だったのか?><この写真、誰が撮ったのだろう?和さんと言っていた喜美江だろうか?>などといろいろ考えてしまう。
 そう言えば思い出すことがあった。確かあれは和夫が他界する半年ほど前の事だった。食卓に無造作に置かれているものがあり、何かと思ったら、和夫の手帳だった。多少後ろめたい気持ちもあったが、少しのぞいてみた。たね子の目を引いた個所は、当月のページだった。そこには「Xとアリスで4時に」と記されてあった。アリスとは駅前にある純喫茶店に間違いなかった。一瞬、Xは女を意味するのかと思ったが、浮気する度胸も甲斐性もない和夫が女と逢引をする筈もないとさほど気にもかけなかった。たまたまその頃は国政選挙の時期だったので、どうせ特定の政党への投票でも頼まれているのだろうと思った。ただ、変な宗教の勧誘に乗せられて高価な壺や食器を買わされるのではと心配して、少し様子を見ていたが、そのような気配はなかったのでいつしか忘れていた。今、あのわずかな書き込みが気になるたね子だった。

 いけ好かない近所の主婦達を観察してやろうとして始めたメモも最近ではご無沙汰状態だった。今までのメモをパラパラめくって、
・春香の老父は相変わらずスーパーの水をもらいに行っている
・康代宅はこの頃真夜中でも明かりが灯っていることがある
・康代宅には最近よく荷物が届いているように思う。何を買ってるんだろう
・好美宅には11時頃フードデリバリーのワンボックスカーが毎日来るようになった
などを見ても「蜜の味」になることはなさそうだった。

 数日後の夜、呼び鈴が鳴った。玄関に立っていたのは石山喜美江だった。手には菓子折りのようなものが見えた。
 「夜分いいかしら?今日退院したので一言お礼が言いたくて」
と喜美江は言ったものの、喜美江にはどことなく複雑な表情が浮かんでいた。たね子は喜美江を家に入れ居間に座ってもらったが、奇妙な空気感があった。少しの沈黙の後
 「和夫さんは大学で原子力工学科を出てるんですってね」
と喜美江は「和夫さん」とたね子の気持ちを忖度せずに言い、そして続ける。
「彼は役所に入所した当初から、核戦争の危機に瀕しているこの時代、いったん核弾頭が放たれると身を守るための時間は秒単位のわずかな時間なので、市民の安全と財産を守る見地から、一刻も早く家庭用核シェルターの設置を市民に呼び掛けてほしいと上部に言ってたらしいですよ。でも、あまりにも荒唐無稽な彼の提案は役所でも無視され続けたようです。市民にすれば家庭用核シェルターもさることながら、まずは県内にある不安定な原発の安全性を高める事のほうが大切でしょうから。そんなことがあってからは、彼は役所内では、退職するまで鼻つまみ状態だったらしいです」
と喜美江はこの場には不似合いな事を一人話し続け、さらに
「その後、あなたが小学生の登下校の世話を辞め、代わりに和夫さんが引き継ぎましたよね。和夫さんはそんな私達に家庭用核シェルター設置の必要性を熱く語ってましたよ。私は登下校の送り迎えに時々参加しましたけど、私を含め他の主婦たちは話半分に聞いてましたが、思い込みの激しい康代さんは彼の話をしっかり受け止めていたようです。その設置には多額の金もかかり、一人ではだめで仲間を増やして初めて役所を動かせるんだと彼は言ってたので、あろうことか、康代さんは家に来る宅急便の若い男性やフードデリバリーの若い男や新聞勧誘の若い男に声をかけてたみたいよ。和夫さんがいなくなり、もう彼女の暴走は止まるところを知らなかったらしいわ」
と喜美江は雄弁になっていた。さらに
「康代さんは若い男達を自分の家にしばしば来させ、家庭用核シェルターが入るよう内部を改装するつもりだったらしいけど、お金もかかるので男達は・・・」
と言って言葉を詰まらせた。しばらくたね子は喜美江の言葉を待ったが、聞こえてこなかったので、話の穂を継ぐように 
 「あなたも時々小学生の登下校の当番に参加したとおっしゃったけれど、当番でもないのにどうして?」
 「うちの家から小学生の登下校の様子がよく見えるんだけど、たまたまベランダにいた私に気づいた春香さんが「たまには付き合わない?そのあとお茶しようよ」という一言から私も時々家の前から彼らに参加することもあったのよ」
 「ふ~ん、仲が良いこと。私はどうしてもあの連中とは相性が悪くて我慢ならなかったわ」
と苦々しい表情でたね子は言った。
 「でもね、一時はいい雰囲気だったんだけど、春香からこういう子供相手に宿題教室やパソコンや英会話を教える教室を開くという話があるんだけど、あなたも乗らない?と言う誘いを受けたんだけど断ると一転、「踊りの大年増」「男を引っ張り込むシオマネキ女」などと悪口攻撃が始まったの」
 「へえ~、びっくりだね」
と言うたね子の言葉に実感があった。ただ、喜美江に躊躇の表情が見て取れた。少しの沈黙の後
 「それでね、あなたの主人が彼女達のカモになるような気がし、注意するよう言うため、和夫さんと喫茶店で話したこともあったの」
と申し訳なさそうに言った。<これが彼の手帳に記されていたことだった!>と思ったけれど「でも、喫茶店で話しただけ?それだけじゃなかったんでしょ!」と喉まで言葉が来たけれど、辛うじて飲み込んだ。だが、喜美江はそのようなたね子の気持ちをスルーするかのように話を続ける。
「喫茶店で私は春香さん達の腹黒さを話したけれど、和夫さんは私の話に耳を貸すどころか、彼の持論を繰り返すばかりだった。その時、「康代さんだけは僕の言うことを聞いてくれた」とポロっと言ったわ」
と喜美江は言ったが、たね子も康代が思い込みの激しい人物であることは知っていたので、その後の事は想像できた。実際、たね子はラブホテルで康代を目撃していたのだ。

 さらにその数日後、新聞の地域版で、警察が康代をはじめとして康代宅に出入りしていた男達を窃盗容疑で逮捕したとあった。その記事によると、彼らは康代と共謀して何らかの資金を集めるために、集団で片田舎の大きな屋敷を中心に盆栽やおもとや錦鯉それに道路沿いの壁や塀などに並べている鉢植えなども盗み、康代宅からネットを通し外国の愛好家に高額で売りさばいていたとの事だった。
 さらに、近所の噂によると春香と好美は小学生の子供を通し個人情報を収集していることで、市の教育委員会や学校関係者から注意を受け登下校の当番から除外されたらしい。まさにたね子が住む足元で警察沙汰や噂の的になることがあったが、たね子は別段感情が動くほどではなかった。
そんなある日、たね子が近くのポストに郵便物を投函しに家を出た時、背後から
 「あまり見かけや何かで人を決めつけるのはよくないよね」
などと言いながら自転車で追い抜きざま呟く声がした。声の主は振り返りながらニヤッと意味深な目でたね子を見ていた。一瞬、誰か分からなかったが、年齢にミスマッチな真っ赤な色の自転車に見覚えがあった。毎日スーパーに水をもらいに行く春香の老父だった。たね子はこの男の意味ありげな目が多くの事を語っているような気がした。
 たね子は今、この男と話す必要があると思った。見失うかもしれないが、とりあえずスーパーのウオーターサーバーに行くことにした。家まで帰り車で出直すより、このまま急いで徒歩で行くほうが早いと思った。ウオーターサーバーにいなくても、買い物などがあれば、スーパーにいるだろう。
たね子が心配するまでもなく、男はたね子が来るのをスーパーの入り口付近で待っていた。
 「マックにでも入ろうか?このマックは老人達の溜まり場になってるんだよ」
と男はたね子を見るなり言った。二人、席に着くと
 「いやあ、玄さん、今日はデートかい?いいねえ」
と早速彼を冷やかす声が聞こえた。毎日来ているので年寄り連中の知り合いが多いのだろうとたね子は思った。
 「いやあ、デートだといいんだが、今日はシリアスな話なんだよ」
とこの男には似つかわしくない横文字を言いながら反応していたが、たね子は緊張していた。
 「オレは長年サラリーマンをやってて、家族のために歯を食いしばって何とか勤め上げたんだ。その汗水たらして稼いだカネで今の家を建てたんだ。だが、数年前女房が死んでからは、娘夫婦はガレージの上に勝手に建てたプレハブにオレは引っ越すことになったんだ。いわゆる家庭内引っ越しだよ。世間で言う隠居と言うことかも知れんが、あの家は俺の血と汗と涙の結晶なんだ。親をそんなに粗末にしていいのかい?そのオレに娘の春香は「どうせ家にいても暇でしょうから毎日スーパーで水をもらってきてもらえる?」と言ったよ。情けないことにそんな娘に反論もできずにオレは毎日水をもらいに来てるんだよ。毎日水だけをもらいに来るもんだからスーパーの店員の間でも有名人だよ、オレは。でも毎日出かけていると見えてくることだってあるんだよ。娘達が小学生の登下校を手伝っているところを通ることもあるし、あんたと同じようにプレハブの窓から近所を毎日チェックもしてるんだよ」
と言う男にはどこか勝ち誇ったかのような雰囲気があった。
 「じゃ、登下校の世話をしていた女性達が子供を通し個人情報を収集しているという噂はあなたが流したの?」
「流すどころか、教育委員会と学校の教頭にチクってやったよ」
と男は言いながらたね子の目を凝視していた。沈黙しているたね子に
 「お言葉は無いのかい?」
と男はどことなく挑発的だった。さらに
 「二階のプレハブから下に降りてくる時、春香が中垣好美とスマホで個人情報の確認をしょっちゅうしているんだ。春香は俺が垂れ込んだとは思っていない筈だ。春香にとってはオレは単なる水運搬人に過ぎないのだから。どうした、急に無口になっちゃって」
と男はあくまで上から目線でたね子に言う。
 「会話にならないじゃないか。じゃ、言うよ」
と言った時、たね子は凍りついた。
 「あんただろ、源田康代は男達と共謀していろんなものを盗んでいるようですと警察に通報したのは。うちの春香はどこに出しても恥ずかしいほど言葉使いの知らないやつで、オレにも責任があるんだが、あんたのことを「お掃除たね子」とか「便所掃除のたねちゃん」など言いながら、スマホで康代という女とよく大笑いしていたよ。気分を悪くしたら申し訳ない、許してくれ。オレの教育がなってなかったんだ」
と男は深々と頭を下げた。

 翌日、たね子は喜美江に会いに行った。二階の小窓から見ていたのか、呼び鈴を押して玄関に立っているたね子を見ても喜美江に驚いた様子はなかった。
 喜美江はたね子の用件を聞かずに家に招き入れた。
 「まだまだ暑いねえ」
と言ってたね子の言葉を待ったが、それに対するたね子の返事は聞こえてこなかった。喜美江に案内された応接間に入ると
 「体調はどう?もう良くなった?」
とたね子は口を開いた。
 「お陰様でもうすっかり元に戻ったわ」
と喜美江は答える。
「でも良かったよね、親戚の人が早く見つけてくれて」
 「ええ、もし万一あのまま意識が回復しなかったら今頃どうなっていたかと思うとぞっとするわ」
と感情豊かに話す喜美江に
 「でも親戚の人が見つけてくれたって嘘なんでしょ?」
とたね子は無表情に言った。喜美江は反射的に
 「えっ、どうしてそんなことを言うの?」
と気色ばんだ。
 「私はね、あなたがうちの主人と特殊な関係だったことは赦しているの。だけど、あなたがあの日、家に戻って気を失うほど何をしていたか、私は知りたいの。あなたと一緒にいた男が翌日、電話か何かしたけどあなたから返事がなかったので、慌ててその男が救急車を呼んだんじゃないの?黙ってないで説明してほしいわ。男って、宅急便の若い男?フードデリバリーの男?」
と言いながらも問い詰める自分自身に激しい息苦しさを覚えたたね子はそれ以上何も言わず家を出た。

 たね子は家に戻ると夫の書斎を整理した時、見つけた化粧箱を持ってきた。蓋を開け「ボクの死後、もしこれを見つけたら、石山喜美江にあげてもらいたい」と書かれた小さな用紙を破り捨て、中にある真珠のネックレスを自分の首にかけた。


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