ご近所ミステリー26 妄想老人

あらすじ:

 暇を持て余している孤独な老人星権九郎には言葉を交わす相手と言えば、通院している病院の医師樫村莉莎子と薬局の薬剤師安嶋亜希子くらいしかいなかった。ある日、密かに好意を寄せている安嶋亜希子の運転する車が高齢女性と接触事故を引き起こした。たまたまその現場を目撃した権九郎は、亜希子に頼まれ警察に事故の説明に行き、一件落着したと思われたのだが・・・

 ご近所ミステリー第二十六弾です。読んで頂ければ幸いです。


 六十代半ばの星権九郎は、カネはあるものの、することもなく暇を持て余している。本人は悠々自適を謳歌していると思っているが、痩せて背も低く歳よりも老けて見える貧相な彼はハッキリ言ってこの近所では浮いている。それでも、数十年前には一流企業の企業戦士でもあった彼はこの自治会の青年団の一員として夏祭りや子供達の飯盒炊飯やキャンプなどを率先して企画運営していたものである。

しかしながら、時が経つにつれ、そういった連中も少しずついなくなり、この近所も随分と変わって行った。主婦同士のいわゆる井戸端会議を見かけることもないし、月一回行われる近所の清掃活動でも、みんな黙々とゴミを拾い集め、時間が来るとそおっと家に入ってしまう。また、夜遅く近所を歩いていると、多くの家から家庭用防犯灯のまぶしい光を浴び、まるでそれぞれの家が強固な壁を気付いているような気さえする。彼の唯一の理解者でもあった妻早苗は数年前に他界しており、隣り近所とも没交渉の状態である。

そのような彼が人と会話をするというのは、定期的に行く病院の医師と薬局の薬剤師しかいなかった。しかしながら、病院では耳鼻科、皮膚科、泌尿器科、循環器内科など多くの科で受診しているのだが、「それは加齢のせいで仕方がない」とか「そのような事でわざわざ病院に来る必要などない」としばしば言われ、本気で彼に向き合ってくれる医師は殆どいなく、彼は診察室で声を荒らげることもあった。良い医師に出会うのは宝くじに当たるのと同じくらい難しいとよく耳にするがつくづく本当だと思っている。

ただその中で循環器内科の三十代半ばの樫村莉莎子医師は高血圧症の彼に優しかった。つまり高齢の彼にもしっかり向き合ってくれるのだった。だから月一回定期的に受診してもらう日は何となく気持ちも軽く、身なりもそれなりに整えるのだった。さらに、処方してもらった薬を受け取る薬局の薬剤師の安嶋亜希子も彼のお気に入りだった。病院に隣接しているこの薬局は原則担当制になっており、どの科から処方してもらう薬も亜希子が彼に薬の説明をしてくれた。

彼はこのわずかに仕切られたブースで亜希子のいつもの薬の説明を聞く時間が至福の時でもあった。彼はまるで亜希子と二人きりでこの空間を占めているという錯覚にも襲われた。分かり切っていることを聞いたりしてその時間を惜しんだ。

実はその日、緊張のあまり亜希子に用意していたことが言えず、つい

「最近診てもらうようになった循環器内科の樫村先生は年寄りの気持ちをよく理解くれるので有難い」

と直接関係のないことを口走り、亜希子の言葉を待ったが

「お大事に」

と素っ気なく言われてしまった。その言葉に背を向けたとたん、スイッチが入ったのか、すぐさま振り返り亜希子に近づき、思い切って

「食事しませんか?」

と言った。覚悟はしていたものの

「はあ?」

と言う戸惑いの言葉が彼の耳に届いた。彼はその場に踏ん張り、もう一度

「私と食事しませんか?」

と言って、ハッキリとした否定的な言葉が飛んで来るのをこらえた。だが、何事も起こらなかった。亜希子はそそくさと次の患者のための薬を取りに薬剤室に消えていたのだ。

数少ない理解者を失ったという思いですぐには家に戻る気にはならなかった。いつも一人の家だが、今まで孤独や寂しさは忘れていた。だが今日は寂しい時間に耐える自信が無かった。病院の駐車場に車を入れたまま、近くの喫茶店でモカを何杯もお替りしながらただ座っていた。時間が経つにつれて年甲斐もなく若い亜希子を食事に誘った恥ずかしさが脂汗となって噴き出して来た。脇の下や首筋には汗が容赦なく噴き出すのだった。どこかでこの姿を死んだ妻が見ているようで自己嫌悪に陥っていた。

喫茶店を出ると、一か月後どのような顔をして亜希子のブースで薬を受け取ればいいのかと思いながらも、気づいた時には病院の駐車場近くに立っていた。その隣は職員用の駐車場だった。その時だった。仕事を終えた亜希子がベージュのスーツ姿でオレンジのハスラーに近づき素早く乗り込んだ。その時、高齢の女性が何かを取り出そうとしたのか、バッグの中を見ながら歩いていた。亜希子はバックしたが、気づいた時には老婦人と接触していた。老婦人は倒れ込んだが、すぐさま立ち上がり、亜希子も車から飛び出し老婦人についた砂やほこりを手で払っていた。大したことが無いように思われたので、権九郎は素早く患者用の駐車場に行き、亜希子に気づかれないように急いで車を走らせた。

 約一か月後、病院の駐車場に車を入れようとした時、道路の端によく見かける「目撃者を探しています」という警察の白い看板が立っていた。驚いたことに、あのハスラーの事故を目撃した人の呼びかけがなされていた。

循環器内科と皮膚科それに泌尿器科での受診後、薬局で亜希子に呼ばれ薬を取りに行った時、この前、何事も無かったかのように亜希子は各科から出された薬の説明をしたが、最後に

「これが泌尿器科から出されているEDの治療薬です」

と笑いをかみ殺したように言った。待合にいた患者からも笑いをかみ殺すような声が漏れ聞こえて来た。コロナ禍の時とは異なり、もうビニールのカーテンのようなものは無いのだが、亜希子は以前のような声の調子で言ったのだ。気恥ずかしい思いはしたが、そんな事より権九郎には亜希子に話すことがあった。状況が状況なので、この前とは異なり権九郎は落ち着いていた。

 「オレ、あの事故をたまたま見たんだよ」

と言うと、亜希子は今度はしっかりと声を潜め

 「あ、そうですか?じゃ、協力してもらえると助かりますわ」

と言った。権九郎は

 「いいよ。とりあえず近くの喫茶「ブレンダ」に六時にいるよ。詳細はその時に」

と言って、好奇な視線を背中に感じながら薬局を出た。

 亜希子は時間通り、見慣れたベージュのスーツ姿でブレンダに現れた。

 「こじれてるの?」

 「そうなの。あのおばあさん、私がいきなりバックして来たと言ってるのよ」

と意識してか亜希子の口調はタメ語になっていた。

 「いや、そうじゃなかった。あのおばあさん、下を向いてバッグの中を見ながら、そのままハスラーに向かって歩いてたよ」

 「そのように警察で言ってもらえば助かるんだけど。あの鶴丸と言うお婆さん、病院の近くのマンションに住んでいて近所でも変人で有名みたいよ」

と亜希子は一瞬媚びるような目をして言った。

 「うん、いいよ。看板に書いてあった警察署に行ってみる」

 「助かるわ。これでも生活がかかってるの」

と亜希子が言った後、少し間があった。

 「何かあればまた連絡が欲しいんだけど、連絡先交換してもらえる?」

と亜希子は言った。権九郎には予想だにしない言葉だった。食事の誘いは完全に無視されたが、こんなこともあるんだと亜希子を目の前にしてつくづく思った。この後、どうすればいいかと妄想がよぎり始めた時

 「言ってはなんだけど、おたく、循環器内科の樫村莉莎子先生は話の分かる良い先生だとか言ってたよね。でもあの先生はあまり評判が良くないみたいよ」

と亜希子は意外なことを言った。

「それにあの人、近いうちに転勤するという噂もあるわよ」

とも言ったが、口を滑らせたような感じもした。

 「それホント?」

 「だから噂よ」

と訂正するような口ぶりで亜希子は言う。気にはなったが、亜希子と樫村莉莎子について話すのは気乗りがせず、それ以上何も言わずに権九郎から席を立った。

翌日、彼は掲示板に書かれていた警察署に行き、担当者と面会した。五十代半ばの山岡と言う副署長は彼を見るなりどことなく申し訳なさそうな表情を浮かべた。権九郎はあの時の状況を丁寧に述べた。山岡は

 「やはりそうでしたか」

とため息まじりに言った。

「実は私達もそうだろうとは思っていましたが、あの婆さんが強硬に言うものだから掲示板を立てて情報を求めたのです。実はその事故の前もあの婆さんは病院と一騒動あったんですよ」

と後半は声を潜めて権九郎に言った。

「ま、誰からも相手にされず寂しいのですかね。」

と言った後、口調を変えて

「とにかく了解致しました。今日はご足労頂いて有難うございました」

と言ってあっけなく「事情聴取」が終わった。ただ、山岡が感慨深く言った「誰からも相手にされず寂しいのですかね」と言う言葉が権九郎の脳みそに残った。

 権九郎は警察署での状況をメールで亜希子に知らせた。彼の説明で亜希子に対するネガティブな警察のアクションは無くなると思われたが、しばらくたっても彼女からのお礼の返信は無かった。

 その数日後、意外な展開が権九郎を待っていた。月一回の独居老人会が近くの公民館で開かれたのだが、指定された席に着くなり、奇妙な空気を感じるのだった。気のせいかヒソヒソと呟く声やにやにやと嗤う連中の歪んだ顔がちらついた。すると権九郎の隣りに今まで殆ど言葉を交わしたことのない老人達がやって来て

 「イーディーの薬って効くのかい?お相手は喜んでくれるんだべ?ヒヒヒ、おたくもガンバルねえ」

 「おたく、もうこの近所じゃ有名人だんべ」

 「喫茶店で話していた女は薬局の女だろ?早速、薬が効いたという訳かい?」

などと言われるのだった。亜希子から薬を渡された時、この近所の老人もあの薬局にいたのかもしれない。そればかりでなく、亜希子と喫茶店で話しているところも誰かに見られていたのだろう。近所で有名人になっていると言ってたので、権九郎は「好色老人」や「変態老人」と呼ばれているのかもしれないと思った。実際、その日以降、この無機質な近所ですれ違う住民の中には、権九郎を好奇な目で見たり、汚いものでも見るかのような視線を無遠慮に投げかける者もいた。もし、妻がまだ生きていれば慌てもするが、近所付き合いもなく、先が長くもないので、気にしないようにしていた。それよりも彼が気になっていたことは、「樫村莉莎子医師はあまり評判が良くないみたいよ」という亜希子の言葉だった。

 相変わらず亜希子からの返事がなく、何となくすっきりとしない気分だったが、樫村莉莎子についてネットで調べてみた。まず、通院している病院の循環器内科のいわゆる口コミをすべて目を通してみた。やはりあった。「循環器内科の女性医師は人当たりは良いが、患者の状態など聞かないで薬を出す」「あの女性医師は診察はあまりせずに気前よく薬を出すので不安になる」「樫村医師は愛想は良いが、診察は短時間のうえに出す薬は値段が高い」などのネガティブなものはあるが、好意的なものは無かった。亜希子が言う通りあまり評判は良くないようだった。

 権九郎自身、生産的な事は何一つしていないのに、何不自由なく生きている事を有り難く思っており、薬の値段等は気にしていなかったが、ネットで調べてみると確かに高額ではあった。しかもその多くはリリエスタ製薬のものだった。

次に「循環器内科医師樫村莉莎子」で検索してみると、彼女の勤務病院や出身大学なども詳細に出てきた。さらにいくつかのサイトを開いて彼女の情報を見て行ったが、同じような内容だった。

ただその出身大学のバスケットボールの試合についてのサイトに小さく彼女の名前が示されていた。そのサイトを開くと彼女の出身の医科大学と県内にある医科大学との親善バスケットボール試合の事が写真と動画で示されていた。さらに来週にも試合が行われる旨とそのメンバーが発表されていた。驚いたことにその中には樫村莉莎子のほかに安嶋亜希子の名前もあった。その名前のカッコ書きには莉莎子は医学専攻とあり亜希子には薬学専攻とあった。二人は同じ大学の出身だった。彼は来週行われるその親善バスケットボール試合に行ってみようと思った。

 当日、権九郎はネットに出ていたスポーツセンターに普段は乗らないベントレーで出かけた。何の趣味も楽しみもない権九郎には、退職金も使う当てがなく、セールスマンに言われるまま購入したのだった。

大学同士の親善試合なので、目にするのは関係者ばかりだった。少しバツの悪い思いに駆られながらも、二人に見つからないように体育館の二階の席に腰を下ろした。運動の苦手な権九郎は詳細なルールは知らなかったが、ゲームの流れは分かりやすかった。ただ、権九郎は試合の内容ではなく、二人の動きを注視していた。いかにも大人しそうな莉莎子だが、彼女がチームの中心選手だった。ゲーム中、二人はしきりに声を掛け合っているように見えた。だが、よく見ると亜希子は莉莎子にボールをパスすることは殆ど無かった。一時間ほど試合を観戦したが、あまり感じることは無く席を立った時、権九郎と同じように席を立ちそそくさと出口に急ぐ一人の男が目に入った。どこかで見たような気がしたが、思い出せなかった。駐車場につくとその男が車に乗り込むところだった。男は権九郎を気に留める様子もなく、そのまま駐車場を出て行った。

 帰り道、スマホが鳴った。なぜか気になったのでベントレーを道路の脇に止めスマホを見ると、亜希子からのメールだった。

 「何よ、黙って試合に来るなんて。それによくこの場所が分かったね。それほど樫村莉莎子が気になるの?」

と怒ったようなメッセージが入っていた。

 その夜遅く、権九郎のスマホが鳴った。また亜希子からのメールだった。

 「明日六時ブレンダに来れる?」

とあった。

 翌日、ブレンダに行くと亜希子はキリマンジャロを飲みながら待っていた。亜希子は権九郎の顔を見るなり

 「何が知りたいの?どこまで知ったの?」

と言った。その言い方に少し棘があったが、薬局で見るよりはずっと艶めかしく色香を感じるのだった。

 「何が知りたいかと言われても困るんだが、なぜか妙に引っかかるんだよな」

 「何が?」

 「自分でもよく分からないが、何となく・・・」

 「私と樫村莉莎子、私達はね、分からない?」

 「分からないよ」

 「警察に行って協力してくれたので言うけどね。私達はね、姉妹なのよ。二卵性双生児、つまり双子なのよ」

 「まさか」

 「そう、そのまさかなの。驚いた?・・・私は常に姉に勝ちたかった。両親は私達を分け隔てなく愛し育ててくれた。でも何をするにしても私は姉には勝てなかった。性格も姉の方が穏やかで、いつも友達に慕われていた。でも私はその反対だった。二人とも医学部を目指したけれど、姉は一発で合格したのに私は不合格で一年浪人の後、薬学部にやっと合格できた。姉に比べると出来の悪い私だったけれど、母は私を愛してくれた。母は肺がんであっという間に死んじゃったけれど、その数日前「ママはこれから強い薬を点滴するので、はっきりとものが言えなくなると思うので今言うね。亜希子、莉莎子生まれてきてくれて本当に有難うね。これからも仲良くね」と言った時も、私の名前を先に呼んでくれて嬉しかったわ。父も母と同じように私達二人をしっかり愛してくれているけれど、私は何をやっても姉にかなわない自分を憎んだわ」

と言う亜希子の言葉を聞きながら、権九郎は言った。

「君たち姓が違うよね?」

「姉は二年ほど前結婚して樫村姓になったのよ」

「ああ、なるほど」

と話の腰を折ってしまった権九郎は静かに亜希子の言葉を待った。

「とにかく姉に勝るものが何も無い自分が情けないほど腹立たしかったわ。そんな折、私は姉夫婦に吹いている隙間風を感じた。姉の夫は祖父母が創業者であるリリエスタ製薬の御曹司なんだけれど、そんな彼でも妻が有能な医者ということで家では一種のライバルのような関係で気が休まらなかったのだと思う。そんな彼は私に救いを求めて来たの。私はつい悪戯心を起こしちゃって彼とアバンチュールを持ったの。だけど、彼はワンナイトラブじゃ我慢できず、その後も私にすり寄って来たの。おそらく姉はそれをすぐに察知したけれど、そんな面倒臭い夫の事より、老人福祉医療のパイオニアを目指していた姉は、離婚するのではなく厄介な夫を私に丸投げし、名誉の方を選択したのだと思う。姉らしいやり方だと思った。また、それを悟った姉の夫はもうストーカーまがいに私の周りにうろつくようになったのよ」

「あの親善試合にも来てたよね?」

と言って権九郎はスポーツセンターで見かけたあの男を思い出した。

「そう、あいつが来ているかチェックしているとあなたも来ていて、ビックリしたわ」

という亜希子の言葉に、リリエスタ製薬の関係者として、あの男が病院や薬局に出入りしているのを見かけていたのだと思った。

 権九郎と亜希子は気づくと数時間話し込んでいた。若い女性と長い時間を共有したことに権九郎は未だに信じられない心地だったが、妄想もちらつき始めていた。だが、その間に彼女に悪戯心が湧いていたことに気づかなかった。

 「ベントレーで夜の街をドライブしたいわ」

と亜希子は予想もしないことを言った。都内をドライブしながら、いつの間にか小悪魔に変身していた亜希子の言うまま幻想的な夜景を見下ろせる公園や丘陵などを巡った。誰もいない絶景のスポットでは車を降り二人並んで歩きもした。権九郎は彼女の肩がさりげなく触れてくるのを神経を集中して感じていた。

「じゃ、そろそろ帰りま」

と言った時、権九郎は力任せにぐっと亜希子の体を引き寄せた。亜希子は外国人のように

 「オ!ノーノーノー!」

と言いながら器用に体をするっとかわすと、素早くベントレーのドアを開け体を滑り込ませ、両腕を胸元にしっかりと組み、ハスラーを停めてある駐車場に着くまで無言のまま外ばかり見ていた。

 

 ここ数日、寝覚めは寂しさとともにやって来た。ある時、警察の山岡がふと呟いた「誰からも相手にされずに寂しいんですかね」と言う言葉が蘇ってきた。あの老婦人、警察でもマークされているようだったが、権九郎はなぜかその老婦人に会ってみたくなった。確か亜希子は病院近くのマンションに住む鶴丸と言っていたことを思い出した。

 翌日、駐車場の周りを歩いてみると、確かに中型のマンションがあり三階に鶴丸八千代と言う表札もあった。その後、権九郎は久しぶりに以前着ていたスーツにネクタイをし、現職の頃、得意先の保険会社の社員からもらっていた名刺を差し出し、事故担当の調査員になって老婦人と話をした。

 「病院と何かトラブっていたんですか?」

と山岡から聞いていたことを言ってみた。

 「いやあ、循環器内科の樫村と言う女性医師は老人にも優しいと聞いていたので、診てもらったら「薬を処方しますけど払えますか?」と言うんだよ。要するに、紹介状を持たないで受診したので、さらなる負担は大変でしょう?と言う意味ですよ」

と言う趣旨は権九郎も理解した。確かにあの病院は地域の中核病院なので紹介状が無いと受診するのに余計な金額を支払わねばならなかった。

 「それだけじゃなく、「おたくのような高齢者はこんな病院に来るんじゃなく、近くの町医者に診てもらえば十分でしょ」「この病院でMRIなどの検査をすれば、あなたが支払う何倍かの金額は税金で賄ってるんですよ」など、私はあの医者の人を蔑んだ言い方にむかついたんだ。この歳になってあのように侮辱されたことは初めてだったよ。私は怒りが収まらず、家に帰った後もこのマンションの部屋から、職員用の駐車場にあの医師が来るのを見張っていたんだよ」

 「それで?」

 「あの医師の姿を見た時、エレベーターで急いで降り、職員用駐車場にいたあの医師を呼び止め、「あんなひどい言い方ってないだろう!」って言ってやったよ。私の言ってることが理解できないようだったので、私もつい何度か大きな声を出してしまったよ。そしたら「それはすみませんでした!」と捨て台詞を残して帰って行ったよ」

 「そうでしたか」

と言うしか権九郎には言葉が無かった。

 「近所の人が警察か病院に通報したのか知らないけど、翌日、病院の事務長が菓子折りを持ってここに来たよ」

と言ったが、目は嗤っていた。少し気まずい沈黙の後、彼女は意味ありげに権九郎の目を凝視しながら

「保険会社の事故調査員のあなたがどういう理由で来られたかは知りませんがね、以前警察でも話した通り、あの事故は相手の車がいきなりぶつかってきたんですよ」 

という彼女の言葉は予想した通りだったが、権九郎はその事よりも不思議な感覚に捉われていた。<確かに彼女の樫村医師に対する怒りは理解できるが、あのような言葉を不用意に言う医師は別に珍しいことではない。だが、樫村医師を部屋から見張っていて、苦情を言うために駆け付けるというのは異常ではないだろうか>と思って彼女を見ると、彼女は権九郎を冷ややかに見ながらドアの方に二回ほど視線を投げた。権九郎は帰るしかなかった。

 

 そんなある日、珍しく権九郎のスマホから「ハイホー」の音楽が流れだした。電話が入ったのだ。聞き覚えのある声だった。

 「山岡です。副署長の山岡です」

と言ったが、権九郎は本能的にぐっと身構えながら

 「何か?」

とおっかなびっくり言いながら亜希子の事故の事を思い出していた。山岡はそんな権九郎の不安も構わず

 「いや、単なる確認なんですけど、もう一度お聞きしますけど、あの婆さんは下を向いたままハスラーに向かって歩いて行ったんですよね?」

 「ええ、以前お話しした通り、お婆さんは下を向いたままハスラーに向かって歩いていました」

と言ったが、<いえ、実はハスラーの後方にお婆さんが来た時、ハスラーがバックで急発進したんですよ。あれは完全に運転手の過失でした>とつい言いそうで、のど元に来そうな言葉を飲み込むのに必死にあがいていた。


 先日の独居老人の会では、これ聞こえよがしに

「もう、おらが町のドン・ファン様だべ」

「いや「逆じじ活」だよ。いやあ、大したもんだよ。おみそれいたしやした!」

「イーディーかエーディーか知らねえけどよ、薬の効き目ってすごいんだんべ」

などと大笑いしている連中がいた。先日、長時間ブレンダで話し込んでるのを見られたのだろう。

 今思えば、亜希子の「これが泌尿器科から出てるEDの治療薬です」という言葉からこうなったのかもしれないが、実はあれは全くのジョークだった。前立腺のトラブルで泌尿器科にも通院していた権九郎だが、担当医は週一度来るいかにも「腰掛」の岡山という医師で、権九郎をチラッと見るといつも面倒臭そうに、二、三質問した後

「じゃ薬出しときます」

とだけ言うのだった。

あの日、診察室のドアの横の張り紙を見ると、「岡山医師今月で診察終了」と書かれてあった。それを見た権九郎は<やっぱり腰掛の医師だったのか>と思いながら

 「あのうEDの薬も欲しいんですが」

とふざけた気持ちで言ってみたところ、岡山は相変わらず何も言わず無表情にパソコンを次の患者の画面に切り替えたが、意外なことに処方だけはしていたのだ。そのことがきっかけとなり、生活感の無いこの近所で権九郎は有名人になってしまったのだ。

 いずれにしろ、医師の突然の異動は岡山医師だけではなかった。

その一か月後だった。いつもの通院に行くと循環器内科の受付の掲示板には、「樫村莉莎子医師の診察は先月末で終了となりました。なお樫村医師はリリエスタ老人医療センターに転勤されます」の張り紙が貼られており、やる気のなさそうな代診の医師による診察になった。

薬局に行き亜希子の姿が目に入るとホッとした。しかしながら、待合で数十分ほど待って呼ばれ、いつものブースに行くと、驚いたことに、見慣れない中年の男性薬剤師が権九郎を待っていた。亜希子は権九郎と顔を合わさないように、この中年の薬剤師と代わっていたのだった。

 何となく惨めな気分で会計を済ませ病院を出て薬局に行く途中、柱に貼られている新しいポスターに目が留まった。それには瀟洒な二階建ての建造物が映っており、その横には『リリエスタ老人医療センター今月一日開院』とあった。家に帰りネットで調べてみると、詳細が紹介されており、理事長はじめとして理事や医師達の名前も出ていた。だが、リリエスタ老人医療センター転勤と発表されていた樫村莉莎子の名前は無かった!


 「こんな老人でも眠りに落ちる前、心を無にして今までの事の流れを想っていると、ボンヤリと見えてくることがある。あなたの姉の樫村莉莎子は病院付近に住む有名人の老婦人とトラブっていた。そのことをあなたは姉の莉莎子からか、姉の夫の樫村から知ったのだろう。いずれにしろ、そのトラブルはおそらく姉の莉莎子にとって非常にまずいことだった。さらに、その事ばかりでなく、あなたの火遊びも結果として、約束されていた姉の新たな職場へ栄転話も消滅させてしまったのではないだろうか?

あの日、あなたにとって生涯のライバルでもある憎くて愛おしい姉を困らせていた人物、つまり鶴丸八千代がたまたまハスラーの後ろを歩いていた。それに気づいたあなたは発作的に車をバックさせてしまった。そのような光景が眼に浮かんでくるのです」

と亜希子にメールをしたが返信は無かった。

 だが、正直なところ、真実がどうであれ、そんなことは先長くない権九郎にはどうでもいいことだった。権九郎にとって重要な事はあの夜、ベントレーでドライブを楽しんだ夜の公園で、するっと彼から滑り落ちた亜希子の体の温もりだった。<もう少しだった>という下卑た思いが、今も彼を苦しめ彼を動かしているのだ。


 今まで月に一回通院するのが生活のアクセントになっており、楽しみにもなっていた。それが変わってしまった。何よりも変わってしまったのは権九郎の心のバランスばかりでなく、行動も惨めなくらい様変わりしていた。病院に行くのは月一回だったが、今は一日何回も病院に行かずにはおれなかった。特に薬局の周辺や職員の駐車場周辺をうろつくのが日課になっていた。オレンジのハスラーを見ると思わず走りそうになる衝動を抑えるのに苦労するようになった。近所の住民が彼を「妄想老人」「妄想じじい」などと呼ぶのに時間はかかりそうになかった。

 

 その頃、新聞の地域版の訃報欄には、「鶴丸八千代。元内科医師、元市会議員。地域の中核病院設立にも尽力した。老衰のため死去。享年八十七歳」とあった。

この記事を権九郎が読んだどうかは分からない。


いいなと思ったら応援しよう!