15年間日記を書き続けてわかったこと
気づくと5年日記2冊が終わり、
10年日記も半分が埋まりました。
つまり15年間の日記がうちにはあります。
あまりに習慣化してしまったため、
「日記をつけていること」を
わざわざ書こうとも思いませんでした。
でも改めて思うと、
あれ、少数派なんかな?と思いました。
ということでちょっと考えてみる。
日記をつけていて良かったこと。
・かつて自分が考えていたことがわかる
忘れちゃうんですよ、5年前の、10年前の自分のこと。でも、読んでみると今よりさらに狭い考え、自己中心的な思い、熱しやすい心ーーそういうのがわかります。思わず「うわっ。え〜? ……若かったなぁ〜!」と天を仰ぎたくなります。若い人が何かやらかしていたとしても、あっ、自分もそうでした、あはは、という謙虚な気持ちにちょっぴりなれる。きっとこれからも、「わ、若かったなぁ!」が続くのでしょう。
・思っている以上に忘れていることがわかる
10年前に「LIFE」という映画を、わたしは映画館で観たらしいんですよ。おそらく独りで行ったんだと思うんですが、まったく覚えていません。日記を見て「……え?何それ?」と思わず検索し、「……あ、観たような……?」とうっすら思い出しました。自分のことなら全部覚えてるようで、全然そんなことないんだなぁ、と思えます。自分の記憶よりもっと、自分は豊かに生きていたのだと思えます。
・変わらない自分がわかる
9年前に書かれた一文。「わたしは結婚もするし、作家にもなる。他人も大事にするし、自分も大事にする」 ーーか、変わってないーー。その当時、願っていた未来の方向性が、今もまだ変わっていないのがよくわかります。少しずつ、近づいていくような。少しずつ、自分に見合った形になっていくような? まぁ、もしかしたら書くことで意識に刷り込まれていく、ということもあるかもしれませんが。
・がんばっていたこともわかる
2015年に母が透析に入りました。今年で10年目。がんばったね、お母さん。そう気づけます。自分に関しても、あの時はもがいていたな、あの時は戦っていたな、ぜんぶ喉元過ぎれば……ってことで忘れてしまうけど。自分の文字を読むと、ぜんぶの気持ちは思い出せないけど、悩んでたんだろうなぁとか思い出します。がんばってきたんだよな、みんな、色々忘れちゃうけど。
・結果じゃなくて経過がわかる
結果は覚えてますよね、あの時、勝ったとか負けたとか。記憶力が弱いわたしは、経過のことは確実に忘れます。結果に至るまでの、誰かが助けてくれたこととか、自分が動いたこととか、色々試したこととか、そういう経過を辿るとーーたとえ成功?したことでも「自分がすごかったから!」とはなりません。「……ああ、なんか運が良かったんだなぁ」とか「助けられたんだなぁ」とか、けっこうフラットに見ることができます。
・記憶の改竄に気づける
これはですね…。上記のことと関連するんですが、人間って本当に自分に都合よく記憶を改竄するようで。ざっと記憶を確認してすぐ見当たらないとなかったことにしてしまったり、あるいは、自分のことを良く/悪く思い込んでいたりもします。「自分は0点だ」も「自分は素晴らしすぎる」もたぶん、おそらく記憶が改竄されていると思います。がんばってきたこともあるし、逆に、運に助けられたこともある。記憶は改竄されるので、要注意です。
・毎日字を書き、字を読む
デジタル化が進む昨今ですが、「自分の字」には「自分」があります。そこにはデジタルにはないものが染み込んでいるんじゃないかなーと感じます。それが何か、はよくわかりませんが、何かはある。あと、字を忘れにくいかね、たぶん。
そんなところでしょうか。
5年日記、10年日記、興味がある方はぜひどうぞ。
自分の変化を見つめるにはもってこいですよ。