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精神疾患と共に生きてきた話🕊️ #03

Good Morning! 現在朝の8時56分です。最近だいぶ涼しくなってきて、冷房無しでも快適に過ごせています!皆さんのところはどうですか?
昨日の夕暮れに、ぼーっとベランダの椅子に座って風を感じ、空を見ていたら少し寂しい気持ちになりました。夏の終わりは少し寂しいって初めて感じたかもしれないです。それくらい今年の夏は楽しかった✨

今日のテーマは“精神疾患と共に生きてきた”ことについて。
シリアスなテーマなので前々回宣言したものの、なかなか書く気になれなくて・・・。
今日は気分がCalmな感じなので、色々と触れていきたいと思います。

精神的な辛さを感じたのは最初は小学校4年生の時。好奇心旺盛で友達もたくさんいて、勉強熱心で完璧主義な子供でした。簡単に言えば夏休みの宿題を配られた瞬間から取り掛かるような性格。外向的な面もあれば内向的な面も併せ持つ、それは今も変わらずそうですね。
この時は“食べること”に対しての恐怖がありました。
親が共働きで、ほとんど祖母に育てられたと言っても過言ではなくとても厳しく育てられました。食事が怖かったのは“残したら怒られる、叩かれる”という恐怖があったからです。結果的に食べることができなくなって、水分しか取れなくなっても病院には行きませんでした。私自身、これが精神的な病気だと思ってなかったのもあります。なんせまだ10歳、11歳の話なので、自分でも理解できなかったんだと思います。
体重もどんどん落ちてしまって、この時期の写真を見るのが少し辛いです。でもある時、メロンを目の前に出された時に一口食べてみたらものすごく美味しくて、飲み込めたことがすごく嬉しくて印象に残っています。その後はどんなものでも食べられるようになりました。

その後中学生になってすぐ、女子からの嫌がらせと教師からの体罰で学校に行かなくなりました。同じく学校に行ってなかった1つ上の先輩といつも一緒にいてだんだんと親の期待したレールから外れていきました。家は家で、母親のうつ病と祖父のDVがあったので板挟みでどこにも居場所がなく、助けてくれる人もいなかったので夜は外のベンチで寝たりしていました。特に父親は私の行動に対して怒りをぶつけてきたり、実際に物を投げられて怪我をしたこともありました。
変わるきっかけになったのが、1人の先生の言葉。父が私の行動を甘えと言っていたのに対して【そうじゃないだろ!子供が頼れるのは親しかいないんだよ!!】と大声で怒鳴っていたのを部屋にいた私は聞いて、涙が止まらなかったです。

14歳の時、初めて父と一緒に心療内科へ行きました。社会不安障害と適応障害の診断を受けて、院内学級がある総合病院の児童精神科へ1年間入院することになりました。
この頃から自分を傷つける行為(リストカットやオーバードーズ)を覚えて初めて多量服薬をした時は気がついたらICUにいました。自殺することに恐怖が無くて、死にたい消えたい、そればっかりが頭に浮かぶ日々。正に生き地獄でしたね。

パニック障害が初めて起こったのは15歳の時、ディズニーランドでした。
25分間、出れないシアターに入って扉が閉められた瞬間から動悸と手足の震え、発汗でどうしようもなくなって、なんとか耐えた後は救護室に担がれて行き、脈が異常に早いので病院を受診してくださいとのことでしたが、微熱もあったしただ具合が悪かったんだろう、と病院には行かず帰宅しました。
まだ精神科に入院中だったので、その後から何回か発作に襲われては主治医や看護師さんに訴えかけましたがこの時は“パニック障害”という言葉さえも知らなかったです。お薬をもらってなんとかしのいでいました。

退院した後は通信制のサポート校の高校へ進学したのですが、所謂ヤンキー校だったので自然と悪い道へ足を踏み入れ、この頃から飲酒喫煙を覚えましたね。登校前に喫煙所で一服、授業の合間に裏路地で一服、みたいな。
この時は何故か、パニックやうつ的な症状は改善していました。改善というよりも、抑えられていた?何に対しても、責任を感じることが一切なかったので楽でした。

19歳〜24歳までは人生の中で一番の地獄。ほとんど記憶が無いんですね。
何をして生きていたか、何を思っていたのか、誰と一緒にいたのか、そもそも生きていると言えるのか。せっかく国際大学へ進学したのに、半年で中退。大好きな語学に触れて、英語の他にも中国語、韓国語、ドイツ語の授業をとって意気込んでいたのに。
これが一番悔やまれます。ちゃんと通っていたら、とは今もたまに思います。
この時は人生がどうなってもいいや、死んでもその時はその時だ、と自暴自棄になっていて主な症状は“境界性パーソナリティ障害”“解離性同一性障害”に変化していました。

見捨てられ不安、自傷行為、解離で人格が変わり、他人へ迷惑をかけてしまう。
そして性に対して奔放。
自分を愛すことなんて、今後一切できないんだろうと思っていました。
オーバードーズは日に日に過激になっていき、週一ペースで救急車で運ばれて出禁になった病院もあります。歩いている途中で気絶したり、短期入院も何度も何度もしました。警察が家にきて飛び降り寸前で助けられ、一時期警察署の留置所へ保護されたこともあります。

空虚な日々。昔仲良しだった友達はみんな離れていきました。
その時いた仲間も多量服薬で亡くなる人もいました。

でも、4年前に今の主治医と出会ってから文字通り人生が変わりました。ほぼ薬漬け状態だった私の処方を改善してくださり、他の病院では“依存性が高いから”と早々に省かれた薬も、今の私には必要なんです!と打診したら、今の先生だけは悩みに悩んだ末に処方してくれたんです。その時に“この先生を信じよう”と思って、今もお世話になっています。ちなみに薬の量はほんっとうに!びっくりするくらい今は少なくなりました!24歳の誕生日以降私は私を大切にしようと思い始めたんですね。そのきっかけが実は

【パニック障害の再発】でした。

世界はコロナ禍で大変な時期、私自身も再発してから発作の恐怖に怯える日々。だからこそ、【パニックを治したい、もっと気楽に生きたい!】という思いから行動を始めることができ、私はだんだん自分の人生を取り戻していきました。まず、飲酒喫煙を辞めました。これ、今でも友人に凄いと言われてます笑
なんせヘビースモーカーでアルコール依存だったからです。人生を良くしよう、取り戻そう、とその勢いだけで辞めました。本気だったから、辞められました。
日中はウォーキングして空を見たり、葉っぱや綺麗なお花に目を向けられる心の余裕も生まれました。体と心の健康のバランスが少しずつ、本当にわからない程に少しずつ、だけど確実に快方に向かっていきました。

もちろん、その最中も発作が起こったり、余裕がなくなって泣き叫んだりということはありました。だけど、そのことにフォーカスするより、“平凡だけど、楽しく過ごせた日々の方が多いよね、だから大丈夫。絶対良くなるよ!”と自分自身に言い聞かせ、平和な日常が増えていっていることの方にフォーカスしてみると、辛いなって思う瞬間が減っていきました。

そして4年後の今、大きな発作は全く起こらなくなっています。怖かった外出も、1人でバスに乗ったり電車に乗ったりすることができるようになりました。
観葉植物のお世話をすることや、絵を描くこと、散歩をすること、歌を歌うこと、語学勉強、推し活、登山、料理、読書など、心を豊かにしてくれる趣味ができました。
お部屋を素敵に飾ったり、お香やアロマに凝ったり、自分が落ち着ける空間作りにもこだわっています。
時には瞑想したり、オラクルカードで占いをしたり、踊ったり😂

人との繋がりももちろん大切なことだけど、まずは自分自身との対話が大切だと思ってます。そのツールとして日記を書いたり、ソウルノートを活用しています。そうすることで、今自分は何がしたいのか、何を恐れているのか、今後どうしていきたいのかを明確にすることできます。日記も正直毎日書いているわけじゃなくて、眠い日は書かないで寝る日も結構あります。だけど、印象に残った日や、忘れられない体験をした日は必ず書くようにしています。後で読み返すと面白いです✨
1つ、面白い方法をシェアしますね!箱を用意してそこにその日に感謝したことや楽しかったこと、印象に残ったことを小さいメモ用紙に書いて四つ折りにして年末まで貯めていきます。それを年始に開封するという感謝BOXを作る方法です。必ずポジティブな事だけを書いて入れていきます。
こんな事あったな〜とか、忘れていたけど読んで思い出したものとか、この時こんな気持ちだったのかあ!って振り返れる、しかもハッピーな事柄しかないので私も一昨年から始めた方法なんですが、メンタル面に対してとても良い効果を発揮してくれます❤️


人生で一番長く付き合うのは自分自身。わずか4年前には夢にも思わなかった生活を今しています。欲を無くして、足るを知ることがモットーです。(なかなか難しいけど💦)誰にだって、幸せになる権利があってそれを邪魔する権利は誰にもないのです。生まれた時からずっと動いてくれている自分の体を愛して慈しむ。ずっと側にいてくれる自分自身をハグしてあげてください。他人と比べることは何もないです。この地球に生きているだけで皆奇跡の存在です🌟

【私はあなたになることはできない、あなたも私になることはできない】

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