隠された十字架―法隆寺論 (新潮文庫) 文庫 – 1981/4/28梅原 猛 (著) Amazonレビュー

法隆寺は、江戸時代に、川原寺を移設して創ったものではないでしょうか。

2018年10月26日に日本でレビュー済み

法隆寺は、江戸時代に、川原寺を移設して創ったものではないでしょうか。
仏像の背面が創られていないのは、単なる節約と考えられます。
正門が、左右に分けられているのは、入口と出口とを分けたと考えられます。
法隆寺の五重塔の心柱は 非常に古いもの(594年)であることが分かっています。加えて、建築に使われている尺は 朝鮮尺です。ここから、建物は、大化の改新(645年)以前のものです。
現在の法隆寺が在る場所には、元々、別の寺(若草伽藍)が在りました。若草伽藍と法隆寺とは 別の寺です。
※若草伽藍と法隆寺とは 方位が違っています。

従って、現在の法隆寺は、別の場所から移設したものと考えられます。
聖徳太子は、蘇我馬子の功績を切り離した架空の人物と考えられます。
※聖徳太子が住んでいたとされる斑鳩(現在の法隆寺の所在地)と 執務地の飛鳥(現在の明日香)とは 離れ過ぎています。

「日本書紀」では、法隆寺が 全焼したことになっています。法隆寺は、最初から存在しないからです。他方、「日本書紀」は、川原寺の創建について 何も記載していません。蘇我馬子が 川原寺を、蘇我稲目が 538年に 創建した寺の後継として、飛鳥寺(旧地名:三蔵寺/現地名:町田市南大谷)の対岸の自家敷地内(旧地名:久昌寺/現地名:町田市高ヶ坂)に 創建したと考えられます。現在の法隆寺は、川原寺を移設したものではないでしょうか。現在の法隆寺の方位は、川原寺の方位を維持したものではないでしょうか。
※川(旧:飛鳥川/現:恩田川)の流れから推定される川原寺の方位と、現在の法隆寺の方位とが 合致します。
※成瀬路(現:成瀬街道)から 川原寺へ向かう参道が延びていました。

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