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【AI基礎論】R1の高度な論理的思考能力テスト

User18:32 2024/09/20
レーヴェンヘイム・スコーレムの定理によると、ZF公理系が無矛盾であれば、可算モデルが存在する。これが、ω0のべき集合が非可算であることと矛盾しないのは何故か?

GPTo3mh 2502012053
Understanding the paradox

The Löwenheim-Skolem theorem implies ZF's consistent countable model, yet P(ω) is uncountable in that model, showing the paradox's intricacy.

Grasping model constraints

In a countable model, uncountable sets appear relative to the model's definable bijections, not externally absolute. This insight underpins Skolem's paradox.

Understanding relative countability

From the model's standpoint, countability lacks absolutes, leading to uncountable sets appearing differently. The Löwenheim-Skolem theorem, indeed, indicates model existence, not element inclusivity.

Clarifying Cantor's theorem

Cantor's theorem on the power set's uncountability relies on all ω functions being within the model. However, in the countable model, some functions might be excluded.

Mapping countability

Countability within the model hinges on definable bijections. Missing subsets in the model and its countability lead to Skolem's paradox, where external and internal theories differ.

Constructing a submodel

In Japanese, the Löwenheim-Skolem theorem is demonstrated by forming a countable submodel from any countable subset of the domain, showing Skolem's paradox is not an actual paradox.

Tracing set definitions

Within a model, countability means a bijection to natural numbers. The countable model of ZF shows that the power set of ω remains uncountable in this context.
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レーヴェンヘイム・スコーレムの定理によって、もしZF公理系が無矛盾ならば可算なモデル(すなわち、外部の視点から見るとそのモデルの基底集合が可算であるモデル)が存在することが示されます。しかし、これと「ω\omegaω(自然数全体)のべき集合は非可算である」という内部的な結果(たとえば、Cantorの定理による)が矛盾するように見えるのは、「可算」「非可算」という概念がモデル内部と外部で異なる意味を持つからです

内部と外部の「可算性」の違い

  • 内部の可算性:
    モデル内部で「ある集合が可算である」とは、そのモデル内での定義可能な写像(つまり、内部的に存在する関数)によって、自然数集合と全単射を構成できるという意味です。ZFの公理系の中で、Cantorの定理などを使って「P(ω)\mathcal{P}(\omega)P(ω)は可算ではない」と証明します。つまり、モデル内には「ω\omegaωとP(ω)\mathcal{P}(\omega)P(ω)の間の全単射」が存在しないことが示されます。

  • 外部の可算性:
    一方、レーヴェンヘイム・スコーレム定理はメタ理論的な結果であり、そこではZF公理系(第一階述語論理で記述された理論)の言語が可算であるため、もし無限モデルが存在すれば、その部分モデル(サブモデル)として外部から見たときに全体が可算なモデルが存在することを保証します。しかし、この「可算なモデル」というのは、外部の観測者の立場で見たときの話であり、モデル内での「可算性」の概念とは必ずしも一致しません。

Skolemのパラドックス

この現象は「Skolemのパラドックス」と呼ばれます。すなわち、外部から見ればモデルの全体は可算であるにもかかわらず、モデル内部では自然数のべき集合などが「非可算」とされるのです。これは以下のように整理できます:

  1. 外部の視点:
    メタ理論(私たちが数学を扱う立場)から見れば、モデルMMMの基底集合は可算です。しかし、これは単にMMMに含まれる全ての要素の集合が可算であるというだけです。

  2. 内部の視点:
    MMM内の集合、たとえばω\omegaωやそのべき集合P(ω)\mathcal{P}(\omega)P(ω)は、MMM内で定義された概念です。MMM内で「P(ω)\mathcal{P}(\omega)P(ω)は非可算」というのは、MMM内で定義可能な写像による全単射が存在しない、という意味です。つまり、MMM自身の言葉で見ると、P(ω)\mathcal{P}(\omega)P(ω)とω\omegaωの間に全単射が存在しないのです。

外部からは全体が可算であると認識できるものの、モデル内ではその可算性を「証明」するための全単射が存在しないため、内部的には「非可算」と扱われます。この不一致は、可算性という概念が「内部」と「外部」で相対的に定義されるために起こるものです。

まとめ

  • レーヴェンヘイム・スコーレム定理は、第一階論理の言語が可算であるという事実に基づき、ZF公理系の無矛盾性から外部から見た可算なモデルの存在を保証します。

  • 内部の非可算性は、モデル内での全単射の存在に依存しており、モデル内でCantorの定理などからP(ω)\mathcal{P}(\omega)P(ω)が非可算と証明されます。

  • 矛盾は起こりません。 というのも、「可算」「非可算」という性質は、どの視点(内部または外部)で測るかによって意味が変わるためです。

このように、ZFの可算モデルの存在と内部での「P(ω)\mathcal{P}(\omega)P(ω)が非可算」という性質は、定義の相対性により両立しているのです。
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R1 2502111834
レーヴェンヘイム・スコーレムの定理により、ZF公理系が無矛盾であれば可算モデルが存在します。一方、ω₀(自然数の集合)のべき集合は非可算であるとされています。この矛盾をどのように解釈すれば良いのでしょうか?


まず、レーヴェンヘイム・スコーレムの定理が示すのは、ZF公理系のモデルの内部的な可算性です。つまり、モデル内で「可算」と見なされる集合が存在するということです。しかし、この可算モデル内部では、ω₀のべき集合も「非可算」として扱われます。外部の視点から見ると、モデル自体が可算であっても、その内部で定義される集合の濃度は異なる場合があります。これは、モデル内部の「非可算」がメタ数学的な非可算とは異なるためです。


具体的には、可算モデルMが存在する場合、M内のω₀のべき集合P(ω₀)^Mは、M内で非可算とされますが、外部から見ると実際には可算かもしれません。なぜなら、Mが可算であれば、M内の全ての集合も可算である可能性があるからです。しかし、M内部ではP(ω₀)^Mの全単射が存在しないため、非可算と認識されます。このように、内部的な濃度と外部的な濃度の違いが矛盾を解消します。


さらに、Skolemのパラドックスと呼ばれるこの現象は、一階述語論理の性質に起因しています。一階の理論では、濃度を完全に捉えることができず、モデルのサイズと内部で定義される集合のサイズが必ずしも一致しないためです。したがって、可算モデル内で非可算集合が存在することは矛盾ではなく、論理体系の限界を示す結果と言えます。


まとめると、レーヴェンヘイム・スコーレムの定理による可算モデルとω₀のべき集合の非可算性の矛盾は、内部的な定義と外部的な解釈の違いによるものであり、論理体系の構造的な特性によって説明されます。
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レーヴェンヘイム・スコーレムの定理とω₀(自然数の集合)のべき集合の非可算性が矛盾しない理由を、以下のように段階的に説明します。


1. レーヴェンヘイム・スコーレムの定理の要点

  • 主張
    一階述語論理で記述された無矛盾な理論(例:ZF集合論)には、可算モデルが存在する。

  • 意味
    たとえ理論内で「非可算無限」を扱う公理があっても、その理論のモデル自体は可算集合として構成できる。


2. 矛盾の核心:ω₀のべき集合の非可算性

  • カントールの定理
    任意の集合 XX について、∣X∣<∣P(X)∣∣X∣<∣P(X)∣(べき集合の濃度は元の集合より真に大きい)。

  • ZF公理系での帰結
    P(ω0)P(ω0​) は非可算無限(連続体濃度 2ℵ02ℵ0​)とされる。


3. 矛盾しない理由

(1) モデル内の「非可算」の相対性

  • 可算モデル MM 内の視点
    MM 内で P(ω0)MP(ω0​)M は「非可算」と認識される。
    → MM 内には P(ω0)MP(ω0​)M と ω0ω0​ の全単射が存在しない。

  • 外部からの視点
    MM 自体が可算集合なので、P(ω0)MP(ω0​)M の要素も可算個しか存在しない可能性がある。
    → メタ数学的には P(ω0)MP(ω0​)M が可算であっても矛盾しない。

(2) 一階述語論理の限界

  • 定義の相対性
    一階述語論理では、「全単射の存在」をモデル内でしか定義できない。
    → モデル外の全単射は考慮されない。


  • MM 内の関数 f:ω0→P(ω0)Mf:ω0​→P(ω0​)M が全射でないとしても、
    モデル外に全射が存在する可能性は排除されない。

(3) メタ数学的な解釈

  • Skolemのパラドックス
    この現象は「パラドックス」と呼ばれるが、実際には矛盾ではない。
    → モデル内の「非可算」とメタ数学的な「非可算」は異なる概念。

  • 具体例
    MM が可算モデルであっても、MM 内の集合 P(ω0)MP(ω0​)M は、
    MM 内で定義可能な全単射を持たないため、MM 内で非可算と判定される。


4. 数学的詳細

(1) モデルの構成

  • 可算モデル MM
    ZFの可算モデルでは、すべての集合は可算個の要素から構成される。
    → ただし、MM 内の「関数」や「全単射」も MM に属する必要がある。

(2) カントールの定理のモデル内適用

  • MM 内のカントールの定理
    MM 内で ω0ω0​ から P(ω0)MP(ω0​)M への全単射が存在しないことが証明される。
    → この証明は MM 内のリソースのみを使用する。

(3) 外部からの観察

  • メタ数学的な全単射の存在
    MM が可算であれば、メタ数学的に P(ω0)MP(ω0​)M と ω0ω0​ の全単射が存在し得る。
    → ただし、この全単射は MM の要素ではないため、MM 内では認識されない。


5. 結論

  • 矛盾の解消
    モデル内の「非可算」は、そのモデル内で定義可能な全単射が存在しないことを意味するだけで、
    メタ数学的な非可算性とは独立している。
    → したがって、可算モデルの存在とω₀のべき集合の非可算性は両立する。

  • 意義
    一階述語論理の表現力の限界を示すとともに、数学的対象の解釈がモデルに依存することを例証する。


図解

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メタ数学的視点
├─ 可算モデル M
│  ├─ ω₀^M : 可算無限
│  └─ 𝒫(ω₀)^M : M内で非可算(M内の全単射が存在しない)
│
└─ 外部の全単射 f: ω₀ → 𝒫(ω₀)^M が存在(Mの要素ではない)

このように、モデル内の「非可算」とメタ数学的な「可算」は、異なる文脈で成立するため矛盾しません。
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下記表現は、厳密には、不適切だ。分かるかい?

  • モデル内の「非可算」は、そのモデル内で定義可能な全単射が存在しないことを意味する

R1 2502112025
ユーザーからの質問は、モデル内の「非可算」についての厳密な表現の不適切さを指摘しています。具体的には、「モデル内で定義可能な全単射が存在しない」という表現が正確でない可能性を指摘しています。


まず、レーヴェンヘイム・スコーレムの定理とカントールの定理の関係を再確認します。レーヴェンヘイム・スコーレムの定理により、ZF集合論のような一階述語論理の無矛盾な理論には可算モデルが存在しますが、このモデル内でべき集合の非可算性がどのように扱われるかが問題です。


ユーザーが指摘している「モデル内の『非可算』は、そのモデル内で定義可能な全単射が存在しないことを意味する」という表現について、厳密さに欠ける点を考えます。この表現の問題点は、「定義可能な」という部分です。なぜなら、モデル内の全単射が存在しないことを「定義可能」という言葉で限定することは、正確ではないためです。


厳密には、モデルMにおいて「非可算」であるということは、M内に全単射が存在しないことを意味しますが、この全単射が「定義可能」かどうかは直接関係ありません。つまり、M内の任意の関数(定義可能かどうかにかかわらず)を考慮する必要があります。したがって、「定義可能な全単射」という表現は、全単射の存在を定義可能性に限定してしまう誤解を招く可能性があります。


さらに、一階述語論理では全単射の存在をモデル内の要素としてのみ扱うため、メタ数学的な視点からの全単射の存在はモデル内では認識されません。この点を明確に区別することが重要です。


結論として、ユーザーの指摘は正しく、モデル内の非可算性を「定義可能な全単射が存在しない」と表現するのは不正確です。正確には、モデル内の「どの関数も全単射でない」と表現する必要があります。これにより、定義可能性にかかわらず、モデル内の全単射の存在を完全に否定することを明確にできます。
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ユーザーのご指摘は正当です。厳密性に欠ける表現でした。正確には次のように修正すべきです:

誤った表現
"モデル内の「非可算」は、そのモデル内で定義可能な全単射が存在しないことを意味する"

正しい表現
"モデル内で集合Xが非可算であるとは、モデル内に存在するどの関数もXとω₀の間の全単射にならないことを意味する"

核心的な違い

  1. 「定義可能」の除去
    全単射の「定義可能性」は本質的ではありません。モデル内に(定義可能か否かを問わず)全単射が存在しないことが重要。

  2. メタ数学的視点との明確な区別
    モデル外で全単射が存在しても、それがモデル内の対象でなければ、モデル内の「非可算性」には影響しない。

具体例で理解

可算モデルMを考えます:

  • メタ数学的視点:Mは可算 ⇒ 𝒫(ω₀)^Mの要素も可算個

  • モデル内視点:M内の全ての関数f: ω₀ → 𝒫(ω₀)^Mは全射でない

重要なのは:

  • メタ数学的に存在する全単射g: ω₀ → 𝒫(ω₀)^MはMの要素ではない

  • Mは自身の関数集合が不完全であることを「知らない」

数学的厳密性のポイント

概念厳密な表現誤解を招く表現モデル内の非可算性∀f ∈ M (f: ω₀ → X は全単射でない)「定義可能な」全単射が存在しないメタ数学的可算性∃g (g: ω₀ → X は全単射) ∧ g ∉ M単に「外部に全単射がある」

この区別は、一階論理の相対性とモデル理論の内部/外部の差異を正確に捉えるために本質的に重要です。
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