おやさまたより
私の天理教修養科ものがたり パート8
修養科で最初に苦痛を感じたのはやはり朝の早いことでした。聞いてはいたしそれなりの覚悟はあったのですが、慣れない習慣にはしばらく戸惑いました。
修養科の一日は洗顔などの支度と整えると朝の挨拶を済ませて、修養科生全員で列になって歩いて詰所から本部神殿に朝勤めに参拝することから始まりました。先頭の人が拍子木を叩くのに合わせてみ神楽歌を唱和して行きました。
朝勤めは季節によって時間が変わるのですが、開始15分前に神殿前から触れ太鼓が鳴りました。だいたい日の出の時間に合わせられるので夏期は特に早く4時起きだったりするわけです。
さらにクラスで神殿掃除のひのきしんに当ったような日は他の人たちより早く3時起きで向かうことがあり、真っ暗な道を同期生と眠い目をこすりながら行くようなことも多かったです。
入学当初は私は仕方なく来ていたこともあり、自分の心に「魂だけは天理教の神様に売り渡さないぞ!」と固く決意しておりました。周りからの目は気にする性格でしたし、その場の空気に合わせるのは得意でもあったので、心と行いはかけ離れていたと言っていいと思います。
自然、表情はこわばって常に緊張状態だったろうとその頃を思い出します。他の人からは心配もされ自分の知らない所で気使われてもいたようでした。
本部神殿は天理市の北部に位置しますが、駅からまっすぐ大通りがあり湖東詰所の修養科生はその道を通って西礼拝場に参拝するようになっていました。神殿に上がる階段前で当番の声に合わせ三殿礼拝し靴を脱いで上がり、礼拝場のだいたい決まった場所に一固まって整列しお勤めを待ちました。その間におさづけを取り次いでもらう身上者などもいて、添い願いをしたりしました。
市内各所の詰所から東西南北の神殿に所狭しと参集している黒いハッピ集団の中にいると、自分の秘めた決意やこれまでの価値観とは別に自分の居場所に戻ってきたような感覚になって行くのを感じもしました。
それこそが集団洗脳だと言われる見方もあるでしょうが、未信者で来たばかりの私にも悪意や隠された意図のようなものは感じられず、人間宿仕込みの元なるぢば・親里だという言葉に嘘はないように思われました。
天理駅に降りるとすぐ「おかえりなさい」と垂れ幕のいたるところに見られるのも、子供時代時と少しも変わっていませんでした。
「あしきをはろうて たすけたまえ てんりおうのみこと」
「ちょいとはなし かみのいうこときいてくれ あしきのことはいわんでな このよのぢとてんとをかたどりて ふうふをこしらえきたるでな これがこのよのはじめだし なむてんりおうのみこと」
「あしきをはろうて たすけせきこむ いちれつすまして かんろうだい 」
拍子木のあと長い沈黙の祈りが続いた後、三座の勤めが一斉に始まりそれまで知らなかった手振りも隣の人の見よう見まねでだんだんに慣れていきました。