幽鬼伝 エピソードオブカヤオ

左前の死に装束。真っ直ぐ伸びた長い黒髪。
病的に青白い肌。光の無い大きな黒い目。
「…こんばんは。お逢いしたかったです。」
そんな“ぽい”見た目の者が、“ぽい”セリフを出会い頭に掛けてきたら、誰でも腰が抜ける。
「ひゃい…ワ…タシもです…」
それを、実は霊的な方向にはヴァサラ軍一のビビりであるオルキスが、情けないヘニャヘニャの声を出すに留まっている現状は、彼女の普段の騎士然とした高圧的な態度を抜きにするとしても、かなり珍しい物だった。
強調しておくが、“怯えていること”が珍しいのではなく、“耐えられている”のが珍しいのである。普段の態度とのギャップは、その付加価値に過ぎない。
十二時を少し過ぎた位の完全なる深夜に、
“きっと来る”感じを全身から撒き散らしている不気味な存在と、オルキスは自身の営んでいるベニバナの酒場のカウンター越しに、
一対一で向き合っているのだ。普段であれば夕方から翌日早朝までの営業時間、常に酔っ払いでごった返しているこの酒場にはとても珍しい事に、店内には他に誰もいない。
そもそも、オルキスが酒場を営んでいる理由は大別して二つ。
一つは、実は寂しがり且つ、口下手故に会話が下手くそなので、隊長時代に満足に出来なかったコミュニケーションを取り返そうという、孤独を埋める目的。
もう一つは、一人暮らしで夜が怖いから(霊的なあれが)、なるべく大勢と一緒に居たい。
そんな、十代前半みたいな安直な理由だ。
それ程ビビりな彼女がどうして典型的なザ・幽霊を前にして、意識を保っているのか。
答えはシンプルである。
目の前にいるその幽霊が実は人間である事、そして今日この時間に目の前に現れる事を、オルキスは事前に知っていたのだ。
男の名前はカヤオ。現在は一番隊に所属している27歳。死後崇拝を行う風習のある村に生まれ、嘗ては宗教弾圧で廃村となってしまった其処の唯一の後継者と言える人物だった。
ヴァサラ軍に保護されて十年ほど経つ今でも欠かさず先祖の墓の手入れをする、信心深い真面目で優しい青年である。無論、十年以上前に一線を退いたオルキスとは初対面であるため、彼女はカヤオの人となりを知らない。
だから怯えているのだ。だから怯えている―いや、最早“なのに”怯えている、と言った方が適切であろう。彼女は目の前に居るのが人間であり、この時間に来ると事前に知っていても尚、情けない声を上げてしまう程、霊的な物への耐性が皆無なのだ。
決してカヤオ自身は、オルキスを怖がらせようとする意地悪な性格でも、面識が無い位の大先輩にちょっかいを出す無礼者ではない。
彼は彼でほんの少しだけ、自分の雰囲気と容姿が醸し出す“ぽさ”に無自覚なだけである。
最悪にすれ違っているのか、或いは完璧に噛み合っているのだか良く分からない二人は、
そもそもどうして此処に居るのか。
それは端的に、仕事の話であった。
「フフ…厳しくてお堅い人だって聞いてましたけど、面白い人ですね、オルキスさん…。」
カヤオは己の外見が“ぽい”自覚が無いので、オルキスの情けない返事を、後輩にあたる人物に対して大袈裟な位に畏まった態度を取るという、そういうユーモアだと解釈した。
カヤオの血色の悪い唇が、すーっと横に引き伸ばされる様に、笑みを作った。
「…はは、…ありがとう…」
オルキスも、震える声を押し殺しながら、乾いた作り笑いで取り繕った。
二人は顔を見合せる。そして数秒の後に、
「御免なさいね。引退してる方にこういう仕事の話を持って来てしまって。」
カヤオはカウンターの上に手を組んで、空気を替える様に切り出した。
それを聞いたオルキスは漸く、そう言えばコイツは人間だしヴァサラ軍の隊員で、ワタシに任務の話を持って来たのだった、と思い出した。オルキスはこれでかなり落ち着きを取り戻し、呼吸を整える事に成功する。
―大丈夫。大丈夫。怖くない。だって人間なんだし。髪も睫毛も長いけど、よく見れば身体付きは、細身ながらしっかり男の物だ。
あんまり男の幽霊でこの感じの奴は居ない。
オルキスは念のため、もう一度深呼吸をしてこれに返した。
「―あぁ。大丈夫だ。ワタシも代わり映えが無い毎日に退屈している身だ。」
カヤオはそれを聞いて頷くが、少し申し訳無さそうな表情をしている。
「本当は隊員だけで片付けるべき事なんですけど、隊長各は殆ど全員任務で遠方に出張ってまして。何人かは本部に居るんですけど、それは医務室を空けられないハズキ隊長や、常駐の必要で警備に割かれた人員ですから…。」
オルキスは、恐らく「申し訳ありません」と続けるであろうカヤオを、手で制した。
「皆まで言うな。お前が謝る事ではない。引退したのはかなり昔とは言え、ワタシも軍の実情は理解しているつもりだ。」
「しかし」
オルキスは更に言おうとしたカヤオを制して、ダメ押しの様に付け足す。
「―寧ろ、まだワタシを頼って貰える事がとても有難い。なに、放っておけば錆びるのは、剣も身体も同じだ。」
オルキスはカヤオに向かって安心させる様に微笑んで、背後の壁を振り返る。
そこには一本の剣が鞘に納まって、何枚かの写真と一緒に飾られていた。
「この写真に写ってる同期の馬鹿共と、一緒に暴れた相棒だ。」
遠い思い出を懐かしむ様に写真に顔を近付ける。写真には何人かの若手隊員が並んで写っていた。その中には若き日のオルキス(髪型がポニーテールである以外は今と何も変わらない)も居る。包帯まみれの病人の様な男、黄色い髪の童顔な男、散切りの長髪で傷だらけの男。彼らを人差し指でなぞって行き、オルキスは水色の髪の軽薄そうな男の所で止めて、親の敵の様にその顔を強く弾いた。
「コイツはろくでなしだ。」
吐き捨てる様に呟く。
「何か、有ったんですか?」
率直な疑問を述べるカヤオに対して、オルキスは天井を仰ぎ、ため息をつく。
「…。もう、居ない。」
カヤオは息を飲んだ。不用意にも、心の傷に触れてしまったのだと、己を恨んだ。
「…すみません」
視線をカウンターに落とし、居たたまれない思いを胸に感じた。
「いや、普通に生きてるぞ。下らない事で喧嘩して、一昨日閉め出しただけだ。」
安堵したが、カヤオは椅子から滑り落ちた。
「良いんだよ。それ位やって。本当に懲りない奴だからな、アイツは。それより―」
呆れる様に独り言を呟いて、オルキスは壁に飾っている剣に手を伸ばす。鞘は白く、蘭の意匠が施されている。
「《極楽蝶花》―。お前の出番だぞ。」
愛おしむ様に優しく、愛でる様に柔らかく。
剣に向かって恋人の名前を呼ぶ様に囁いた。
「見たいか?」
刀身を、という事であろうか。カヤオに背を向けたまま、オルキスは短く聞いた。
「えっと、じ」
「分かった仕方無い。特別に見せてやろう。
お前が其処まで言うのなら、ワタシが折れる」
食い気味に蜂の巣にするような勢いで畳み掛けられ、カヤオは思わず苦笑した。恐らく、この調子なら、カヤオが結構ですと断っても同じ文句が飛んで来たであろう。
薄笑いを浮かべたご機嫌な表情で、オルキスは振り返ってみせた。
「この世界の美しい物を三つ挙げるとするならば、一つはワタシ、二つ目は極楽蝶花、三つ目は在りし日のマリア王妃と言うからな。」
オルキスはさして冗談めかしたり、大袈裟に振る舞ったりせず、「明日は燃えるゴミの日だからな。」位、至極当たり前の事を伝える様に言ってのけた。カヤオは少し困った。強ち、
絶対に違うとも否定出来ないからである。
マリア王妃は一度、古い写真の中で見た事がある。慈愛に満ちた御方だったと総督は語っていたが、微笑みを浮かべて座っているだけのその姿の中に、気品の高さと包み込む様な優しさを、直接逢った事は当然一度も無いカヤオですら、溢れんばかりに感じた。
オルキスも、嘗てはヴァサラ軍四番隊隊長を務めた際に、その外見と剣技の美しさから、《麗神》とまで呼ばれた人物である。噂によれば四十をとうに過ぎている現在ですらも、人形や吸血鬼である事を半ば本気で疑われるほど、欠片も老いを見せていない。自推とは言え、三本指に数えられているのも納得ではあった。しかし、貴重な三枠の内、二つも自分で占めてしまうのはどうであろうか。カヤオはそう思うと、少し可笑しくなって、吹き出しそうな笑いを堪えた。オルキスは一瞬、そんなカヤオの表情に目を見開いた。
―不味い、今度こそ怒られる…。
内心そう思って焦ったが、オルキスは自慢の剣を見せびらかす事に脳を乗っ取られているようで、カヤオのにやつきを、剣を見せて貰える事に対しての、光栄・興奮や喜びの表情だと認識し、寧ろ満足げな笑みを浮かべた。
うんうん、と二度頷いて、オルキスは柄を強く握る。カヤオは其処まで自慢に思う剣はいかほどの物かと、目を凝らす事にしてみた。
「同期は観る目の無い愚者ばかりだし、これを抜いた時は確実に敵を殺したからな…だからちゃんと人に刀身を見せるのは、お前が初めてかも知れないな―そもそも」
カヤオは思わず、感嘆の息を漏らしていた。
これから任務に同行するオルキスの機嫌を良くする為に、ほどほどに御世辞を述べたり、テキトーに相槌を打っておこうとか考えていたのだが、そんな事は影も残さず頭の中から消え失せていた。オルキスは何やら、剣に纏わるエピソードを語っているようだが、それすら全く耳に入って来なかった。
カヤオは武器には殆ど興味が無い人間だが、
剣に魅入られるという体験を今、生まれて初めてした。レイピアとまでは行かないものの、やや細めの両刃。酒場の照明を受けて光る刀身は、薄紅色の、艶やかな迄に美しい気の様な物を纏っていた。毎日欠かさず、丁寧に手入れをしているのであろう。鏡の様に、吸い込まれる程に覗き込むカヤオの顔を映している。普段は自分の容姿など、殆ど気にした事が無いカヤオですら、剣に映る自分の姿が美しいと、一瞬或る種の自己陶酔的な感覚に襲われてしまった。野暮に言ってしまえば細長く加工された金属でしかないのに、見るだけで心を囚われ、どぎまぎしてしまう妖しい魅力が《極楽蝶花》には存在している。
「綺麗です…」
何か言おうとしたつもりは無いが、気付けばその言葉がカヤオの唇から溢れていた。
結局、彼は最初は疑いを掛けていた、オルキスの挙げたこの世の美しい物ベスト3の内容に、概ね同意する事になった。
口から出て来たのは巧みな美辞麗句では無いが、オルキスはカヤオの目をじっと見て、納得が行く反応を確かめた様に再び頷いた。
極楽蝶花をそっと鞘に納めてカウンターに置き、オルキスは得意気な表情で聞いた。
「―で?どんな任務なんだ?」

―丸二十四時間後。
昨日の威勢の良さは一体どこに行ってしまったのか、オルキスはどんよりしていた。
任務の内容が、よりにもよって彼女の最も苦手としている“そっち系”だったのだ。
寧ろ、“そっち系”の任務だからこそ、他でも無いカヤオが抜擢されているのだと、オルキスは最初から気付くべきだった。
今二人は横に並んで、真夜中の山中をひたすらに歩き回っている。
「全く、何が吸血鬼だ…」
「いや、本当に居るかも分かりませんし…」
肩を落としてはずっと愚痴を溢しているオルキスを、遥かに年下のカヤオが宥めるという情けない展開は、酒場を出発し、任務の内容を説明しながら目的地に向かう道中から既に始まっていた。
ざっくり言えば今回の任務は、「吸血鬼探し」
である。今二人が居るのは《クチナシ山》。わざわざヴァサラ軍の隊員(片方は元)がこうして辺境に出向いているのには、勿論それなりの理由が存在する。ただの噂で動員されていいほど、オルキスもカヤオも暇ではない。
つい先日、このクチナシ山で奇妙な殺人事件が起こったのだ。被害者は十人。全員、この周辺の山や夜道に出没する、似顔絵付きで指名手配もされている山賊であると、装飾品や共通している特徴的な入れ墨から、身元が特定された。腕利きの旅人にでも返り討ちに逢ったのだろうか。だとすれば自業自得としか言い様の無い一件だが、そうも行かない。
―何故、“似顔絵付きの御尋ね者”が、入れ墨や装飾品から身元を割り出されたのか。
十人の山賊全員の、“顔が無かった”からだ。
正確には、頭部に於ける耳の付け根から前方にかけての皮膚と肉が、眼球と鼻を含めて、完全に“持って行かれていた”のである。
どう考えても剰りにも異常で、常軌を完全に逸脱して猟奇的である。まず最初に浮上した説は熊や狼等の野生の獣に襲われた、という物であったが、この説には幾つかの不自然な点が存在している。街に生活しているひ弱な人間ならまだしも、指名手配される程の屈強な山賊が十人もいて、逃げる間も無く殺されるだろうか。調べによれば全員が刃物や棍棒で武装していたとの事なので、ただの獣に遭遇したのであれば、撃退位は出来る筈だ。
それに、獣が獲物を殺したのであれば、食糧である死体を、巣や餌場に引き摺って運んで行く。余程腹が減っているか、せっかちな獣だとしても、先ず最初に食らい付くのは、肉質が柔らかく、臓物も多く詰まった腹だ。顔には硬い頭蓋骨があるし、食べる所も少ないのだ。獣は厳しい自然を生き抜く為に、どんな人間よりも合理的に行動する。こんな馬鹿げた事をする理屈が無い。おまけに、この山賊達が発見された直ぐ近くに、焚き火の痕跡があったのだ。殆どの獣は火を恐れる。近付きすらもしない。都会に住む人間ですら知っている、当然の常識だ。
二つ目の説。通り掛かった旅人に返り討ちにされた。若しくは彼等と近しい稼業の者の餌食となって、瞬く間に殺されてしまった。
これも前説と同様に、不自然な点が多い。
旅人に殺された説は、先ず確実に無いと断言しても良い。山の麓の集落に住む村人に聞き込みを行った所、死体が発見されたのは二日前の夕方頃であるが、三日程前から、山の入り口周辺を誰も通っていないのだと言う。
村の警備の者の不注意が疑われたが、常時門に三人、物見櫓に二人が配備されているらしいので、これは十分信じるに値する証言だ。
山賊と同種の荒くれ者にやられた可能性を考えても、先ず集落の人間の話で可能性が潰される。では仮に、犯人にしか知り得ない、抜け道や裏道の様な物があったとしよう。
だとしても、もう1つ不自然な点が浮上して来るのだ。山賊達が所持していた、これまで強奪して来たと思われる金品に、全く手が付けられていなかったのである。衣服や寝床にも、物色された形跡は無い。
ハッキリ言って、全く検討が付かなかった。
どう考えても、得体の知れない化け物の仕業としか思えない。迷宮入りかと行き詰まりかけた矢先、一つの有力な情報が判明した。
顔面がまるまる無いというインパクトに意識を囚われていたが、死体を調べてみた所、首筋に二つの小さな穴が空いていたのだ。
鋭い針の様な物で突き刺した傷口である。
解剖の結果、大量の血が抜かれてもいた。
吸血鬼に殺された人間や家畜に見られる、典型的にして独特な特徴である。クチナシ山付近の幾つかの集落に、その線の伝承や目撃情報が無いかを探ってみた所、これがそう少なくない数掘り出された。子供や青年は知らない事もあったが、長老や、昔を知る百歳近い高齢者に話を伺ってみた所、山中に住まう吸血鬼伝説の情報と、それを裏付ける確かな信憑性のある資料が得られたのだ。
曰く、「大昔、クチナシ山とその周辺地域には気高く強力な吸血鬼様が棲んでいて、恐怖に基づく秩序で集落を統制し、外部の人間による侵略や獣害、魔物の脅威から村人を守るその代償として、家畜や村人の血、時には生け贄を捧げる儀式と信仰を求めていた」のだと。
まさかの“得体の知れない化け物の仕業”だという冗談半分の意見が、急激に現実味を帯びて来た。近年、そんな怪しい風習は時代遅れ且つ非化学的だと、吸血鬼様信仰は薄れて行き、めっきりと儀式も途絶えたのだという。
―それが、今回の悲惨な事件の引き金になったのだと。嘗ての恩義を忘れ、のうのうと平和ボケして暮らす態度が吸血鬼様の怒りを買ったのだ、これはその警告だ、年老いた村人達は口々にそう言い、怯え震えた。
とは言うものの、生け贄を捧げる事など絶対に出来ないというのが、集落の若者達の意見だった。大昔の生け贄の儀式では、村の生娘の心臓を生きたまま抉り出し、それから絞り取った血液をゴブレットに集めていた。
事実として、無視出来ない怪死事件は存在している。しかし、昔ならばともかく、今のこの時代を生きる人間の内に、愛しい我が娘を差し出せる者が何処に居るというのか。
其処で、国の英雄であるヴァサラ軍の精鋭にこの災厄を殺し、全てを終わらせて欲しいという、今回の話が舞い込んで来た訳である。
―こんな事を、“それっぽい”雰囲気を身に纏っているカヤオに、やけに生々しい情景を想像させるのが上手い語り口で伝えられたのだ。
オルキスに耐えられる筈が無かった。
これではまるで、サメ映画を見せられた後にサメが出没する海域を、たった一人で泳いでいる様な物である。しかも最悪な事に、オルキスは今回の作戦のメイン所―戦闘の担当である。カヤオも隊員である以上は戦えるが、見えない物を感知したり、干渉したり出来る非常に稀有な《極み》を見込まれて、抜擢されたのである。彼は言うなれば支援担当だ。
つまり、足手まといにはならないだろうが、いざという時、オルキスはカヤオを身を呈して守りながら戦う必要があるのだった。
派遣するのが一般隊員ではいけない理由は、戦闘力に関しての問題であった。吸血鬼は比喩ではなく、文字通りの化け物である。
当然の事ながら、恐ろしく強い。その上不死身の肉体を持っている。並大抵の剣士では、束になっても敵う相手ではない。生半可な強さの一般隊員を大量に送ったとしても、成果を挙げる所か、返り討ちにあってヴァサラ軍の戦力を無駄に大きく減らすだけである。
であれば確実に仕留める為にも、最上位レベルの戦力で対抗する必要があったのだ。
引退して衰えているとは言え、隊長格は隊長格。現役の副隊長以下とは一線を画していて当たり前だ。他にも五体満足で隠居している元隊長格は数名いるが、当然、全員全盛期と同様のパフォーマンスが出来る筈が無い。
或いはフルパワーで戦えても数十秒、多めに見積もったとしても一分程度が限界だ。
他の任務なら未だしも、今回の標的は推定吸血鬼である。不老不死で無尽蔵のスタミナに加えて、まだ何を隠し持っているかも分からないのだ。であればこそ、当時からパワーやスピード等の身体能力を駆使したスタイルでは無く、剣の技術力で戦っていたオルキスに白羽の矢が立ったのは、もっともであった。
「…ね、オルキスさん。仕方無いじゃないですか。もう来ちゃってるんですし、貴女がやらないと、集落の人達が犠牲になり続けるかも知れないんですよ?」
カヤオは優しく、論理的にオルキスを諭す。
「…そうだが。結局他人だしな。」
オルキスは、ぷいと顔を逸らす。
どうやら責任感をつついてみても、あまり効き目が無いようだ。
「ねぇ、御願いしますよ。」
「知らん。赤の他人の娘など知ったものか。
…ワタシは帰る。一体どれだけ歩いているんだ。一向に景色が変わらんではないか。」
少し丁寧に御願いしてみた所、これもダメだった。さっきの情けない言葉は聞き間違いかと思ったが、より酷い内容に進化している。
カヤオはよし、と賭けてみる事にした。
「極楽蝶花と麗神オルキス、これが揃っても勝てない相手がいるんですか?」
不機嫌さと不安が募り、ややカヤオを突き放す様に早歩きをしていたオルキスの脚が、
ピタリとその場で止まった。
「…。」
よし、釣り針に獲物が掛かった様だ。
「いえ、元とは言っても、隊長格ともあろう
御方の自信がそんなものなのか、と。オルキスさんは謙虚な方なんですね。」
「…、なんだと?」
これは予想以上に効果が有った様だ。カヤオは片方の口角を上げた。
「―いいえ?何でもありません。ただ、幽霊とは違って肉体があって、血も流れている人の形の生き物を、オルキスさんは斬れないのかな、と。そう思っただけです。」
オルキスの後ろ髪が、その瞬間に少しだけ逆立った様な気がした。彼女は振り返る。
「…。嘗めやがって。ワタシに斬れない訳が無いだろう。やってやるさ。」
先ほどまでの悪態と不安感は何処へやら、オルキスの瞳には熱い怒りの炎が点っていた。
「安全を考慮して昼頃には到着する予定だったが、剰りにも長く森で迷い過ぎた。いつ遭遇しても問題無いように、少しここで休もう。」
二人は腰掛けられそうな適当な切り株を探して、そこに座る事で少しでも、失った体力を取り戻す事にした。夜は、宵闇でも目が利く吸血鬼の独壇場である。戦う前の無駄な消耗は出来るだけ避けておきたい。何度か休憩を挟んでいるとは言え、今日はほぼ丸一日歩きっぱなしだ。喉も乾いているし、脚にも疲れが溜まっている。カヤオは提げていた鞄から水筒を取り出して、口を付けた。
「…ふぅ。」
少しは疲労がマシになった気がして、カヤオはようやく一息ついた。
「ねぇオルキスさん、」
顔を向けたそこに、オルキスは居なかった。

「なんだ…?此処は?」
オルキスは我が目を疑った。ほんの一瞬前まで自分は、カヤオと一緒に隣同士の切り株に腰かけていた筈だ。
なのに自分は座っている所か立っていて、
目の前には石畳で舗装された一本道が真っ直ぐ伸びている。道の左右には植え込みがあって、黒い薔薇がびっしり植えられていた。
「ワタシは何故此処に?」
周囲を見渡しても、カヤオは居ない。物音や気配すらなかった。さっきの何もない森とは打って変わって、ここは同じ山中でも、別荘の整備された庭園の様だった。
暫く状況を整理してみようとオルキスは腕を組んで考えたが、この様な超自然的な現象を前にして、論理的な思考が何かの参考になるとは思えなかった。まるで異世界かなにかに迷い込んでしまったみたいだ。
恐らく此処で何もせずに立っていてもカヤオは現れないだろうし、ひとりでに状況が好転するとも思えない。
オルキスは意を決して、石畳の道を進んで行く事にした。一分ほど、風の音もしない静寂の中に、オルキスの靴音だけが響き続ける。
そうしていると、唐突に深い霧の中から巨大な屋敷が現れた。ゴシック様式の大きな屋敷である。古く、壁には蔦植物が這っている。
三階建てで、大きい窓の中には聖人が描かれたステンドグラスもある。
「…。まるで幽霊屋敷だな。」
オルキスは小さく呟いた。
錆びた大きな門がある。
鍵が掛かっていたので、躊躇無く押し出す様に前蹴りをぶつけた。古くなってかなり放置されていたらしく、ぎぃという耳障りな音を立て、拍子抜けする程簡単に門は開いた。
ポケットに手を突っ込んだまま、オルキスは抉じ開けた門を潜った。
何と無く空を見上げる。時間帯的に曇は見えないが、これから一雨来そうな匂いがした。
四~五段の小さな階段を上ると、屋敷の玄関扉の前に立った。重く、分厚い鉄の扉。
鉄の匂いがした。
鉄製の扉なのだから当たり前だと思うかも知れないが、これは扉からの匂いではない。
両開きになっている、その僅か1mm足らずの隙間の奥から微かに漂う匂いだ。
鼻腔を刺す様に不快な、錆びた鉄の匂い。
否、これは血の匂いである。更に正確に言うならば、血の残滓の匂い。若い時に、戦場で幾度となく嗅いだ。どれだけ綺麗に丁寧に洗っても磨いても、決して取れない匂いだ。
物質的な物ではなくて、深く染み込んだ念の気配みたいな物。目には見えないし、聴こえない。掴めないのに纏わり付いてくるから、敢えて表現するのなら“匂い”なのだ。
オルキスは、それを感じた。恐らく、普通に生きてきた一般人や、下手すればヴァサラ軍の並の隊員では気付く事も出来ないそれを。
地獄の様な死線を幾度となく潜り抜けたオルキスは、確かに感じ取ったのだ。
手を門に触れて、深い呼吸を一つ。
ワタシの“手”は、既に汚れている。今さら“これ”が何だと言うのだ。どれだけ潔白になったつもりで笑っても、洗えるのは“足”だけ。
「―解るぞ吸血鬼。終わらせてやる。」
冷淡だが、何処か憐れむ様に言った。
扉を両手で押す。堅牢な見た目とは裏腹に、
まるでオルキスを歓迎しているかの様に、
簡単にそれは内部へと迎え入れた。
照明が点いていない。ハナから期待もしていなかったが。この屋敷の主人からすれば、
これでも十二分に“視える”のだろう。
一陣の追い風が吹いて、オルキスの長い髪を撫でて行った。それに背中を押される様に、
確かな一歩を踏み出す。
―空気が、変わった。
長居すれば肺を痛めそうな埃っぽい匂いと、さっきから感じていた血の残滓の匂いだけの話をしているのではない。
明確に今、オルキスは何かの境界を跨いだ。
じんわりと、手に汗が滲むのを感じた。
ぎぃ―ばたん。
オルキスの背後で、重い音が響いた。
鉄の扉が、彼女を外界から閉め出したのだ。
それから自分の心音が聞こえる十秒の後に、
もう一つの音が空間に反響した。
玄関扉ほど重い音ではない。木製の、通常サイズのドアの開閉音だ。
ぎぃー、ばたん。
音量は小さい。何処か間抜けな位に調子が外れていて、ただ古い木材が軋む音だ。
しかし、圧倒的に恐ろしい物を感じた。
「いらっしゃい。」
やや上方から声が聞こえた。少しだけ低い声変わり前の少年の様な、僅かに弾んだ声だ。
びりびりと、肌が軽く痺れる感覚。
恐怖か興奮か、オルキスの口角は上がる。
漸く屋敷の暗闇に、目が慣れてきた。
ここはエントランス。視野に収まり切らない程に広々としていて、オルキスの前には大きくて高い階段がある。その先は、これまた無駄に広い食堂にでも繋がっているのだろうか。そこの扉の前に、人影が立っていた。
「何の御用かな?私?それとも吸血鬼?」
さほど大声を出している訳では無い。なのに
フロアに良く響いた。老いている声色では無い。寧ろ綺麗で若い声だ。しかし、不思議な威圧感と迫力が其処にはある。目を凝らす。
顔までは流石に暗くて見えないが、とても背の高い、髪の長い女であるのは分かった。
「―吸血鬼の方だな。殺しに来た。」
オルキスも、低く答える。
重苦しい、数秒の沈黙が流れた。
「あっそ。じゃ、」
拍子抜けした様に、軽い口調が飛んできた。
「死んで欲しいかな。」
人影が、背後に腕を伸ばした。何かのレバーの様な物を掴んでいる。オルキスは咄嗟に走り出そうとしたが、その時には遅かった。
足元の床が消失する。
オルキスは奈落に吸い込まれて行った。








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