川内有緒『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』感想

全盲者である白鳥さんの鑑賞態度は、当然だが晴眼者とは異なる。白鳥さんは同行者から絵の要素や印象を聴くことで芸術を味わうのだが、理路整然とした「オフィシャルな解説」はつまならいのだという。

それは、自らが「わからないこと」から何かを発見する猶予を、あるいは明示的な答えではなく問いを誘発するやりとりをこそ欲する態度とみえ、これはアート鑑賞の現場で、そのとき他者間で何が議論されているのかを探索する別種のゲームをするようでもある。そして白鳥さんは、このゲームがめっぽう上手なようだ。

白鳥さんの語り口は、いい塩梅に力が抜けている。かと言ってときにはくすりと笑える感じを超え、ぶはっと思わず吹き出してしまうような「鋭さ」「黒さ」も出してくる。「長年”障害者“をやっている」なんて、ありもしない「標準的身体」へ中心化された社会に対し、特別な存在を演じさせられていることを皮肉ったブラックジョークには、思わず声が出るレベルで笑かされた。

それ、顔か?

第3章、現代アートがいっそうわけわからんもんだからこそ持ち得る効果について。クリスチャン・ボルタンスキー《聖遺物箱(プーリム祭)》の鑑賞に際し、著者たちはさかんに「意味」や「意義」を探るが、ぼくはこの作品にはさらなる深層があるのではないだろうか、との疑いを抱いた。

注目を集めるだろう、ひと際大きなフレームに収まった顔……いや、これホントに顔なの?

じつはこれ、周囲にぐるりと配置された「ぼやけ顔」に、顔認知を誘導されているのではないか。つまりこれは「パレイドリア」を利用した表現なのでは。
パレイドリアとは「壁のシミや空の雲が顔や人の形に見えてしまう現象」(高橋康介『なぜ壁のシミが顔に見えるのか』p.5)をいう。VTuberグループhololiveのファンにはお馴染みだろう、その所属タレントである湊あくあさんが愛用する ( ^)o(^ )b これもそうである。
一般には「シミュラクラ現象」と言ったほうが、通じ易いかもしれない。「シミュラクラ」だけなら「対象とするモノ自体」を指す。ただし「パレイドリア現象」となると、これはたとえば「頭痛が痛い」と似た、冗長な表現となるので注意が必要。

閑話休題。
この現代アートを、そこにありもしない表象、ありもしない神聖さ、ありもしない力感を、個人的な文脈依存の過剰な解釈を以て読み解いてしまう人間の認知の性質、あるいは欠陥についての表現とみる。現代アートは人間の感覚(意識のフレーム)への疑いをも射程に捉える。

こうした見解をいったん得たならば、『目の見えない白鳥さんと…』をレビューするこの行為も、極めて個人的な意味を持たされた過剰で解釈過多な表現でありうる、となる。このような反省的視点を常に持っておくことは大切だ。しかしそのような視点を取り入れるということは、あらゆる可能性をも視野に入れるような際限なさ、無限の解釈に溺れてしまうという事態にもつながる。

だからたいていの鑑賞者(これには当然ぼくも含む)は、因果的な救いの糸を手繰る。自分にとってわかりやすい、経験的に理解できる文脈にその表現を引き込んで解釈していく。こうした手つきは、著者自身の筆致にもあらわれているし、もちろん、このレビューをいま書いているぼく自身の筆致についても同様のことがいえる。

そうした自分に中心・標準化された世界像からいったん離れるために、他者を利用すること、別の言い方をするなら助けてもらうこと、これは良いことであるように思う。もちろんリスペクト込みでのご利用に限るが。

顔に限らずパレイドリアを引き起こすもの、つまり認識の二重性を許すようなもの、そしてそこに新たな意味を見出す過程そのものが、私たちにとって魅力的なものなのかもしれない。パレイドリアが世の中で楽しく受け入れられ、SNSなどで盛り上がっている様子を見ていると、実はパレイドリアが生じるなかで意味を見出す過程そのもの、認識の構造を浮かび上がらせてくれる過程そのものが、私たちを惹きつけてやまないのかもしれない、とも思えてくる。「あ、みえた」と思える瞬間の楽しさ。「顔にも見える」という知覚の不思議を味わえる楽しさ。

高橋康介『越境する認知科学10 なぜ壁のシミが顔に見えるのか』pp.110-111

人生の途中途中に出会う様々な人や本、多種多様なアートが、私の認知する世界を押し広げてくれる。「助ける、助けられるという関係が反転するような新たな発想」(『目の見えない白鳥さんとアートを見にいく』p.90)により、「私」という固有の感性は、以前よりもっと豊かになれる。

また、場合によっては他人が拡張した心の一部になることもある。たとえば、アーニーとバートは長年のパートナーだが、アーニーの生物学的記憶がうまく働かなくなったので、彼はバートに重要な人や事実を覚えてもらっている。バートが確実に助けてくれて、アーニーが信頼しているならば、バートはアーニーの記憶の一部となっている、と言えるだろう。アーニーの心はバートを含むまでに拡張したのだ。

デイヴィッド・J・チャーマーズ『リアリティ+』下巻 p.78

重要なのは、そこで関係を結ぶ人と人のあいだに信頼性があるかどうか、だ。それがあれば相互に拡張的な存在、重要なパートナーとなることができる。
読書会といった企画等も、そうした他者への信頼を原料とする自己拡張性があるように思う。さらに言えば、他人の感じ方や書き方は、自分とは違っていてこそ面白く、より拡張性の強いものとなりうる。違うからこそ、いい。

鑑賞は自由か

著者の友人であるマイティは個人的な信念として、「芸術の自由な鑑賞」を自他に求める。だがこれはマイティの鑑賞態度がそもそも芸術に対して真剣であるからこそ、言えることなのではないだろうか。

それは著者や白鳥さんにしても同じだ。本書に登場する人たちは、誰もがアートへ真摯に対峙する態度と、自由に解釈することへの自覚や責任を(たとえ無自覚にでも)負っている者とみえる。この前提を抜きに、単にみんな自由でいいと、無作為にその自由を一般化してしまうことはちょっと危うい気もするが、どうだろう。

つまるところ、こうした自由への信念は他者の解釈には自由奔放さを赦しても、自身による解釈については常に真剣で、なんらかの整合性に向き合おうとする相互(対アート、対人)の信頼関係によって、成立していることなのではないか。まったくの出鱈目が許されてしまうなら、コミュニケーションや議論の場がそもそも成り立たなくなってしまうはずで、ここで言われる自由には、言外に設定された最低ラインがあるように思う。

(やや余談になるが、本書でも引用される『心にとって時間とは何か』の著者である、哲学者の青山拓央が執筆した『時間と自由意志』では、「自由」が徹底的に議論されている。ウチの蔵書の中でも最高峰の難読書。分析哲学地獄を見たい方へ、この本をめくる者は一切の希望を捨てよ。)

社会の差別構造は是正可能か

後半に差し掛かると、社会構造について著者の個人的な憤りが滲み出す。偏見を憎み、べき論による同調圧力を否定し、変なものわからぬものをそのままに愛する社会になればいいとの思いから、「不愉快な差別」を「ぶっ叩いていく人でありたい」とまで宣言する。

だがそれもまたべき論由来なのであり、新たな差別意識を生む構造の再生産となることを予感させる、教条主義的な同調圧力を内在させた主張になっていはしないだろうか。

そもそも差別、べき論、あらゆるものごとを差異化する意識を完全になくすことが可能なのか、といえばこれはかなり疑わしいし、著者もまた本書において、関西人のスタンダードを偏見で捉えていることからも、そうした意識は無意識のレベルで、社会的人間のあいだに浸透しきっているといえる。

個人的な感情に依存した価値判断、何をどの程度嫌うか、誰を嫌うことを許すかなんて、ルールで細かく決められるものではない。それが可能であるような社会など、むしろ自由感からほど遠いディストピアが想像される。

これは差別に関わる諸問題を放置すべき、ということではない。この問題にあって注意すべきは「他者への過度な攻撃」であり、すなわち著者が言う「ぶっ叩く」意識の先にある破壊衝動のような感情こそが、問題をより先鋭化、過激化させるいち要素だろう、と個人的には考えている。

とはいえ、その憤りについてはぼくも分かっちゃうし、なんなら毎日ぶっ叩きたいと思っている側でもあるんだけど。だからこれは反省の意だ。そうした過激な思いを秘めつつ、己の暴力性を制御するという意思を(主に言葉によって)表現することで、抵抗の力としたい。このような態度には、芸術の営為と通ずるところが少なからずあるように思う。

著者が見据えているだろう、この時代にふさわしいバランス、個々人からの要請に可能な限り副った社会構造を目指すべきであることは明らかで、よりよい配剤はありうるし、ぼくらはマジョリティ、マイノリティの区別なく、それぞれの現状をつぶさに汲み取って、つど適切な対応を取っていくべきだ。

べき論はなんとなく否定されがちだけど、これには理想論が含まれ、そして理想的な社会構想が先立ってなければ、何事も固定的で旧弊的な価値に依存するばかりとなるだろう。ようはどんな理屈も、社会において先行する固定観念を過剰に権威化しないために、使えたらいい。

おわりに

内容についてレビューするなら避けられる話題ではなかったので、多少の逡巡もあったが、けっきょく思うまま書かせてもらうことにした。敬称の有無については、本書のスタイルに倣っているもの、とお断りしておく。

ここに書いたことは固定的で絶対的な答えではありえないし、むしろ乗り越えられて当然の読解・見解だと思っている。反論等を思索する、それを何らかの形で表現するのもそれこそ自由だ(でもできれば苛烈な言葉はやめてください、すぐ心臓がきゅっとなる小心者なんで)。

上記したレビュー内では全く紹介できなかったが、本書後半には「作品の内部で夢を見る行為」が推奨されるインスタレーション体験エピソード(11章)などもあり、それらの体験談もかなり面白い。とはいえ、なんといっても結局のところ白鳥さん(エピローグ笑う)なんだよな。盲目かどうかなんて関係なく、人間として興味深い、魅力的な人物として描かれている。

そして最後に最も大事なことを。「食堂のおばちゃん」が手に持ってるアレがもう串カツにしか見えません(感謝の意を込めて)。

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