「いつでも手伝うよ」の落とし穴 #160
勤務先の保育園では、毎月のお誕生日会やら季節の行事があり、正職員の保育士が交代で担当して、子どもたちに出し物を披露している。
保育士の資格はあるけれど、普段は事務仕事や保護者・見学者対応をすることがほとんどで、たまに抱っこや授乳のフォローなどで手伝うことがあっても、毎日の保育の第一線には立っていない。
園の行事に関して、ことあるごとに「手伝うよ」と言っている。
ところが、なかなか手伝ってほしいという声がかからない。
何か頼まれるとしたら、抱っこ要員でない限りは、帳票の作成だとか、出力だとか、いわゆる事務仕事だ。
抱っこ要員に関しては、保育士が直接頼むというよりかは、泣き声に反応して私が保育室に入り子どもを預かることが殆どなので、発信者は保育士でなく、園児だというほうが正確だ。
抱えている事務仕事もそれなりに多く、「いつでも手伝うよ」と言いながら、いつも忙しそうに仕事をしている私だ。
「いつでも手伝う」ことを、フランクに伝えているつもりだけれど、「ここぞ」というタイミングはなかなかやってこない。
①気を遣っていてくれたのか、②期待していないのか、③あれやこれやと意見されそうで面倒がられていたのだろうか、
保育行事に関して、お誘いの声がかかることがなかった。
「手伝い」というのは、必要な時に声をかけてもらい、その時に状況がゆるせば初めて成立する。
自分がやりたいことがある時に、「いつでもできます!」と手を挙げておけば、自分にも機会が巡ってくる可能性は高くなる。
私がやりたいのは「手伝い」だったのだろうか。
いずれにせよ、そうやって受け身で待っていても、なかなかその機会はやってこない。
先日、今の園に勤務して4年目にして、初めて「園のお楽しみ会の出し物を一緒にしてほしい」と、声がかかった。
純粋に嬉しかった。
何が嬉しかったのかというと、自分を頼ってくれたということ。
彼女とは、まだ付き合いは浅いが、仕事のことを本音で相談しあえている。
4年目にして、そういう仲間に出会えて、ラッキーだ。
でも、そんな誰かに会えたらラッキーだけど、他力本願で待ち続けていたから、随分と時間がかかってしまった。
誰かの「手伝って」の声を受け身で待ち続けた自分が、なんとも情けない。
誰かの役に立ちたい。
とはいえ、その誰かのためなら、どんな作業でもいとわない、とまでは言い切れない。
自分が好きだ、とかやってみたいと思っていることで誰かの役立てると、嬉しい。
もちろん仕事なので、すべてがそのような業務だというわけにはいかない。
それでも、やりたいな、だとかこんな風にしてみたいな、と思うのならば、自分から動かないと時間ばかりが過ぎていく。
手伝うのではなく、「やりたい」「やります」って言えば良かったのだ。
行動せずにいつまでも受け身なのはそこまで本気ではなかった、と言われればそれまでだけれども、
「いつでも手伝うよ」ではなく、「何でもいいから手伝わせて」そういって自分から入っていくことも大事だ。
自分がそう言い出せなかった分、気持ちがあっても行動できない人の気持ちもめちゃくちゃわかる。
なので、これからは自分が楽しく動き、周りを楽しく巻き込む。
それがいい。