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雑記 2024.12.23
お疲れ様です🙂
新短編の『腸詰めの物語』を掲載しました。こちらの作品は何時も以上に実体験に基づく内容ですが、年代はずらしているところがありますし、例によって主人公は自分とは別人です。
自分自身の性別や年齢は明言していませんが、雑記上では特に捻ったりすることなく、若干ぼかしを加える程度にしてアレコレ書いております。フィクションを差し置いて、雑記上の情報から直感や簡単な推察で判断頂ければ大体大丈夫なはずです。多分バレバレだったろうなと考えております😅
どうぞよろしくお願い致します。
◾️腸詰めの物語
元はnote利用開始後程なくで構想した作品で、以前から書き溜めていた内容や、より以前の未掲載のものを書き直した面もありました。
当初はこの作品をメタバースやVRなものに仕立てようかと考えていましたが、以前の短編『少年フクロウ』でメタバースを扱っていた事情、VR自体はともかくメタバースが停滞期に入っているなどの問題もありそうでしたので、大幅に路線変更しています。
特にパイロット版扱いのショートショート『影踏み』の方で、若干メディアミックスになっている──雨降りのとこで自分のショートショートの別作の一場面を再利用したりなど──辺りにメタバースの名残は現れているかもしれません。
そのショートショートでは終盤に当たる部分の言及、"夢と現実の区別を失う可能性"の箇所は別の短編の『見えない帽子の劇場』の設定にも通じるところがあるかと思われます。"サイバー環境での体験と現実の体験の区別を利かせられる"とする照合機能の設定ですが、そもそもの話で『見えない帽子の劇場』と同時期に、同設定の補足的なものとして該当場面の描写を書き始めた経緯がありました。
以下は個人的な考えで、色々な書き方や見方があることは承知して尊重もしますが、フィクションの類って基本的には現実に比べると曖昧で不完全なもの、ただ現実の個々の認識にも限りがあるので、多くの認識の外にありそうな真実・事実の情報を上手く用いたり、単純化や象徴化の手法を活かすことで強さやらを発揮出来るものかと捉えています。
そうやって強さや特性を発揮した結果、虚実のバランスが危うくなることには肯定的な面もありそうですが、否定的な面も大きいかなと考えます。
『見えない帽子の劇場』では、この点についてテクノロジーのサポートを受けられる設定な訳です。でも生身で見極める・バランスを調整出来ること、あるいはフィクション自体が望ましい抽象性や没入性を保ちつつ機能や魅力を発揮出来ることはとても重要なことでもありそうです。
後者からは本当に様々なアプローチが生じるものかと思いますし、自分自身も毎回試行錯誤して作品を作っています。それからあくまで自分の場合ですが、バランスを取るために普遍的や本質的な問題を探って行くこと、テクノロジーで解消されそうな問題やテクノロジー自体の抱えた問題を考えること、などなどからは多方面への見識を深められている手応えも得られています🙂
虚実の問題は昔から自分以外の諸作品でも語られているテーマですが、個人的には映画『インセプション』の一場面、レオナルド・ディカプリオさんとエレン・ペイジさんの演じたキャラ二人による街灯の話──後者が自分の経験を作中の夢世界に反映させたことを前者が咎め、街灯などのありふれたモチーフを利用するなら良いと語る場面──が印象深く、創作上の一つの心得的なものにもなっています。自分の場合は実体験もある程度織り交ぜますし、文字情報の小説で作中の夢世界とはリアリティ面などで大きく異なりますが、やはりバランスを考えていく上で重要なものになっている感じです。
また、今作では父親の喉頭癌と声の障碍が重要要素としてありますが、この点は以前にも別作ショートショートで当事者周辺の関係者の立場で少し取り上げたところですし、今後も同じ立場から再び取り上げさせて頂く機会が生じるかもしれません。その際はお手柔らかにお願い致します。
◾️anothergazer
先日再掲した標題作についてもちょいとお話しします。
こちらは全体の作りの面でサッカーのとあるプレーを参考にしているところがあります。
ピッチ上のポケットと呼ばれる位置──自分の認識ではピッチを縦に五分割した時の二番目と四番目のレーンの最奥部。ペナルティエリア内のゴールエリアの両脇──からマイナス方向へグラウンダーのクロスを送り、ペナルティエリア内に入り込んで来た味方選手がシュートを放つプレーです。
読んでいた専門雑誌情報を頼りに、上記のプレーがよく見られ始めた頃(2018のワールドカップ後ぐらいの時期)から注目して試合を視聴していました。同じポケットの地点から守備側のゴールキーパーと最終ラインの間にパスを通してファーサイドに走り込んで来る味方に合わせるプレー、ペナルティエリア外の選手にパスしてミドルシュートを打たせる、その選手に更にペナルティエリア内を攻略させるプレーと、応用した形は色々あるかと考えています。
それでマイナス方向へクロスを送るプレーの場合、守備側の選手が身体の向きを180度変えて対応しなければならない点が特に面白いなと感じていまして、小説表現に応用させるとどうなるだろうとアレコレ考え、時系列の入れ替えや音楽からサッカーへの展開など、もう一つの異なる選択肢に話が進むパラレルワールド的な構造に繋がっています。
舞台のモデルになった土地からすると左右逆方向へ進んでいたりする展開があるなど、実は結さかなり細かいところにまで当てはめていましたが、そこはあまり解らないでも良いレベルの話かと思います(舞台も大分脚色を加えて掲載時の描写になっていますので)。
また、上記のプレーに着目した時点の大分後の話ですが、身体の向きの点で関連しそうな正対理論なるものがあることを知りました。
個人的には(小説を書いている立場から解釈すると)正対理論は両手や言葉を使わずに自分の行きたい方向を伝える→その位置にお臍が向く、みたいなものかと考えています。
するとサッカーでもよく言われる嗅覚の形容とも関連して来そうで、これも更に考えを膨らませて楽しめているポイントの一つになっています──バスケットボールのノールックパスや一昔前に活躍されたロナウジーニョ選手の同様のパスとの比較などから。先述の正対に類似した状況で言葉を使えるとして、それって肘や手首の関節稼働を利かせられるバスケットボールのプレーにより近いところがあるのかな、など。
サッカーのポケットからのマイナス方向のクロスはパスカル三角形やフィボナッチ数列みたいなものとの相似もうかがえて来るので本当に興味深く、自分がより深くサッカーに嵌ったきっかけにもなりました🙂
パラレルワールド的な展開はフィクションの手法としてはありふれていますが、その系統では個人的に『ラン・ローラ・ラン』という作品がお気に入りです。自分のこの短編も心の中で『ラン・ローラ・ラン』的な位置付けになっています。最後があまりパッとしない面があるかと思いますが、ゴール期待値的にはかなり高い選択をしたということかもしれません😅
最後に、"サッカーのプレーはサッカーでしか上手くならない"という戦術的ピリオダイゼーションなる理論の有名な教えがあるのですが、確かに上記のように試合を見てもサッカーが直接的に上手くなる訳ではないと思いますので、一応紹介しておきます。自分の場合はそれで小説創作のプラスになっている面は多少あるかなと思います🙂
◾️自分の小説の作り方
上述の内容以外、日頃の自分がこんな風に創作している、というところを少々お伝えしてみます。これもあくまで自分にとっての方法に過ぎませんので、ご注意ください。
参考にしている事柄は色々あって、先日の雑記でも紹介した演劇の啓蒙主義のスタンスもその一つですが、演劇関係では他にも応用を利かせてほとんど骨子レベルになっているものがありますので、紹介致します。
フィツジェラルドの『夜はやさし』に記されている演技論です。同作は昔の小説ではありますが、角川文庫版の下巻(谷口陸男 訳)の文章を一部そのまま引用致します。
「女優にとって危険なのは、反応を示すときなんだ。もう一度例をひいて、だれかが君に『あなたの恋人が死んだ』と言ったとする。実生活だったらおそらく君はすっかりとりみだしてしまうだろう。しかし、ステージでは、人を楽しませようとつとめなければならない──観客は自分たちで『反応』できるからだ。まず第一に、女優にはたどるべき筋書きがある。さらに、殺された中国人かなにかから観客の注意を再び自分のほうへ引きもどさなければならない。そこで、なにか思いもよらないようなことをしなければいけなくなる。もし観客が冷淡だと思っている人物ならやさしくなる──やさしいと思っているなら冷淡になる。つまりその人物からはみ出てゆくんだ──わかる?」
「よくわからないわ」こんどはローズマリー自らそれを認めた。「その人物からはみ出てゆくってどういう意味?」
「観客を客観的な事実から君自身のほうへ引き戻せるまで、なにか思いもよらないことをするんだよ。そのあとでまたその人物の中へすべりこんでゆく」
上記を読んだ直後に自身が習作的にシナリオ調で作ったのが下記の寸劇です。
◯セドリックの自宅
「ただいま」
セドリックがマンション部屋のドアを開けて帰宅する。
廊下の先のダイニングでは彼の妻が佇み、胸の辺りに片手を添えながら彼を見つめる。
「セドリック、聞いて頂戴」
「近頃大分冷え込んで来た。温かいものを食べたい。今日の夕食は何だろうか」
「ねぇセドリック。お父さんが大変なのよ」
「ビーフシチューを作ると言っていたか。これは楽しみだ。何時もありがとう。だがしかし、今夜は先に湯船に浸かって身体を温めようか」
妻に見守られつつ、セドリックは寝室へ向かう。
ドアを閉めると電気の消灯された暗がりの中、無言で数秒の間立ち尽くす。
セドリックという名前はポルトガルのサッカー選手と同じ名前で、その選手は本を読んでこれを書いた時にはサウサンプトンというクラブに在籍していた方です。当時よく試合を見ていただけで、名前にはそれだけの意味しかありません。
そこは置いておきまして、自分の中では引用したフィツジェラルドの演技論を踏まえて書いてみたのですが、如何でしょうね。
引用内容からですと突飛な方向に向かわせたくなりそうですが、少しずらした程度の予想外に仕立ててみました。他の方向に関心が逸れすぎてはまずいかと考えますし、緊張感を保つためだったり、"後でまた戻って来る"という辺りを念頭に置いていたためです。
意外とこれでも予想外は生み出すことは出来ていそうですし、過剰すぎることもなく一場面として収まりがよろしいかなと考えます。おまけに妻が食事を作っていることへの感謝も挟ませて日頃の夫婦仲をアピールしたり、夫を名前で呼ぶことで子供がいないことを示唆したり、短い中で結構頑張って情報量を高めてみました🙂
あえて突飛にして喜劇的にしたりする内容もありかと思いますし、自分は好みませんがもっと安直に逆張り的な言動を繰り返す内容もありかと思います。
またそして、ここから演技以外の演出的な方面への応用で、物やそれを見る視点からずらしの効果を作り出すことも出来そうです。描写しませんでしたが、この状況で登場人物のセドリック氏がシャツのボタンを外して服を脱ぎ出すなどの案も一応検討していました。
他にも先に結末を提示して過程に焦点を当てるサスペンス調に仕立てる、半分ぐらいの答えを提示して後から残りを見せる、わざとギャグにして視野を広げて緩めてそれさえも実は……の伏線にする、などなどのやり方も自分の場合はここからの応用で生まれていたと考えています。
『ジョジョの奇妙な冒険』の作者の方が創作関連本で謎を作ることの重要性を説いていたかと思いますが、それに近いものもありそうです。まともな創作手法では伏線の張り方や回収の仕方に該当しそうですが、自分の場合は伏線に満たない触媒的な描写(空間演出的に、目的とする何かが出て来てもおかしくない雰囲気を作り出す)を多用することもしています。伏線も回収しないままでもある意味リアリティが出て来そうなので、それも一部ありかなと考えているところがあります。
ざっと以上になりますが、状況判断を交えて小説作りにも活かせる、おまけに柔軟な活用も出来るありがたい基本として、フィツジェラルドの著作で紹介された演技論は大切にしています🙂
それでは。今回はこのぐらいで。年内にまだ少し投稿させて頂く予定ですが、一年間お読み頂いたりリアクションを下さったり、皆様どうもありがとうございました!
来年向けの抱負ですが、一人称では難しそうな描写をしていたり、一人称と三人称の違いでほぼほぼ僕・私を彼・彼女に変えただけの内容になっていることがありましたので、ショートショートの一人称の創作に磨きをかけていきたいと考えています。
自分のクリスマスについてですが、今年のプライベートでは歯医者に行くぐらいしか用事がありません😢
皆様が楽しくお過ごしになられることを祈っています。