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【ディズニーの女性】とあるアーティストを紹介させて下さい27

1934年、アメリカ。彼女が39歳の時に、その会社の代表に手紙を書きました。
その会社のアニメーション部門で働きたいという事、漫画を描いている事、一度会ってほしいという事を書き連ね、更に「私は5フィートくらいしかないのでかみついたりしません」とつづりました。
手紙の送り先の相手はウォルト・ディズニーです。


1900年9月13日、彼女はイタリアのローマで生ました。
1914年、一家で移住したアメリカのシカゴで、シカゴ美術館美術学校とマッキンリー高校の芸術クラスで学び、卒業後、ニューヨークで、3つの美術学校でアートを専門的に学びました。

1929年から1934年まで、アートディレクターやパンフレットのデザイナーとして働いていました。
その頃、彼女はとあるコンテストに出品する為に、世界恐慌のさなかに仕事を探すステラという少女を描いた漫画を描きました。

1934年、
映画館でディズニーの短編アニメーションを観て感動し、思い立った彼女は、ディズニーに手紙を書きます。
2人は手紙のやり取りを続け、1935年2月、一緒に昼食をとりました。そこで彼女が描いた先述のステラという少女が登場する漫画を見てその能力を評価したディズニーは、彼女を会社のストーリー制作部門に雇いました。

1935年、ストーリー部門は基本的に全て男性が担っていました。ストーリー制作部門での女性採用は初めてでした。

この当時、彼女は「赤ちゃん象のロマンス(The Romance of Baby Elephant)」という作品のストーリーの概要を提出しました。
これは1936年に作品、「子ぞうのエルマー」となり、後にこの作品を基に「ダンボ」が制作されました。

1937年、ディズニーは小説『ピノッキオの冒険』を映画化することを決め、ストーリー部門で唯一イタリア語ができた彼女は、原作の新たな英訳を依頼されました。
彼女は、映画化には主人公ピノキオの性格に奥行きを持たせ、もっと共感できるものにする必要があると感じました。
ディズニーも彼女と同じ考えで、途中まで作られていた脚本を没にして書き直しました。
こうして完成した『ピノキオ』は1940年に公開されましたが、当時映画のクレジットに彼女の名前が記されることはなく、彼女の貢献についてもほとんど公になりませんでした。

1940年公開の『ファンタジア』では、楽曲「くるみ割り人形」を使用することを提案し、芸術家のAl Heathと共同で同曲の部分のコンセプチュアルアートワークを担当しました。
今作は、クレジットに彼女の名前が記載されましたが作品の公開時、彼女はうつ状態にあり、後に歴史に名を残すこの映画を見ることはありませんでした。

「子ぞうのエルマー」以降、彼女は新たな脚本をいくつも作成したが、それらは採用されませんでした。
シナリオ会議で自分の案を発表しても怒鳴られることがしばしばで、会議の途中で逃げ出すこともありました。
しだいに彼女は同僚と距離を置き、職場の自分の部屋でワインを飲むようになっていました。
この時期、『シンデレラ』(1950年)と『ピーター・パン(1953年)』の初期バージョンのストーリーを描いたイラストを作りました。
そして『みにくいあひるの子』(1939年)の仕事をした後、仕事に対する興味を失った彼女は長期休暇をとりました。
1940年6月1日、スタジオに戻ると、自分が使っていた机には知らない男性が座っていました。そして自分が解雇されたことを知らされました。

ディズニー社を退職後の1942年、彼女はアメリカの芸術家カール・ハイルボーンと結婚しました。
1953年、夫婦でアートギャラリーを開業し、そこで自分たちや他の芸術家たちの作品を取り上げました。

彼女は、1997年9月6日に96歳で死去しました。

彼女が退社した後も、ディズニー内では、才能ある女性の地道な努力が続いていました。

2013年、映画「アナと雪の女王」が公開され、世界中で大ヒットを記録しました。
脚本と共同監督のジェニファー・リーは史上初めてディズニー・アニメーション・スタジオの長編アニメの女性監督となりました。

彼女の名前はビアンカ・マジョーリー。
女性で初めてウォルト・ディズニー・カンパニーのストーリー部門で働いたアーティストです。

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