ふでまめ R2「伊達」
ふでまめ ラウンド2「伊達」
少し前から、伊達メガネをかけ始めました。まさか自分が伊達メガネなんていうフェイクの象徴みたいなものに手を出すなんて微塵も思っていなかったので、自分でも少し驚きと恥ずかしさがありました。いや、だいぶ恥ずかしさがあって、かけて出かけては人に出会うと外すという逆にその方が恥ずかしいだろって調子でした。
ことの発端は、高校時代の友人から「こういう眼鏡かけてたらかわいいと思う」と言われたことです。その言葉を聞いて、たしかにかわいいかもしれないと思った自分は、バイト代が入ってすぐにGUでお手頃なものを買いました。たしかに伊達メガネがあると全体としての印象が自分好みの感じにまとまったので意外と気に入って、最近では普通にかけて出かけることも多くなりました。要は慣れってもんで、少しずつ平気になってきはしたんですが、でもちょっとだけ、あくまでちょーっとだけ恥ずかしさもあります。なんというか、「俺ごときがかっこつけてんな」感というか。
かっこつけることは大事だと思います。かっこつけると聞けば、かっこ悪く聞こえますがかっこつけている人は、目に見えない自信という名のオーラでぼんやりとその身体を包み込まれているように見えて、それが「あの人余裕あるよね」につながる。正直自分もかっこつけたい。伊達メガネを堂々とかけて歩きたいし、カラオケに行ったときに『女々しくて』なんて歌いたくない。歌いたくないは嘘だけど、『そっけない』とかもっとかっこいい曲を歌いたい。かっこつけてもかっこつかない人種がいて、それが自分であることを知っているから、保険をかけてふざけてしまう。でも実はネガティブな気持ちばかりではなくて、そういう生き方をわりかし武器にできている方だと思うので、まぁ半々くらいで晴れやかでもあります。
そんなことを考えながら伊達メガネをかけていると、1つおもしろいことに気が付きました。どうやら眼鏡をかけている時、自分の印象が変わって見えるそうで、周りの人は自分だと分からないそうです。これは予想外だったので少しおもしろかったです。「え、誰?」と困惑しながらぎこちなく手を振る友達と、「え、なにそれ?」と困惑しながらぶんぶん手を振る自分が向かい合っていたあの時間は少し笑ってしまいました。自分がその場にいながら自分がいなくなったあの感覚は今までにないもので興味深かったです。それを例の伊達メガネを勧めてくれた友達に話すと、「人と積極的に関わる君だから、そういう時間の過ごし方ができるのはいいことな気もする」と聡いことを言っていました。ほんと賢い。視力矯正のためではなくかっこつけのためだった「伊達」が、かっこつけのためから安寧のための「伊達」に内包する意味を変えた時、自分の中で伊達メガネをかけるためのハードルが下がった気がしました。
結局のところ、かっこついているのか、それともかっこつけているだけなのかは分からないのですが、まぁまぁ着用頻度は上がる気がします。ちなみに、伊達メガネをかけている時はどうせ気付かれないと思って、挨拶をしなくなったりするのでしっかり捕まえてあげてください。喜びます。