ふでまめ R9「恋愛つらつら、うじうじうにゃうにゃ」
ふでまめ ラウンド9「恋愛つらつら、うじうじうにゃうにゃ」
自分はポンコツなので、自分のことでさえままならないというのにちゃんと恋愛で悩みます。ちょろいのですぐ喜ぶし、何も起こっていないのに落ち込むし、何か起こったら起こったで辛いのを人前で見せたくない・見せられないので、心の整理がつかぬうちからすぐに笑いに変えようとするし。多分恋愛得意じゃないし、あまり向いていない。でも寂しがり屋なので一人でいるのは辛いこともあります。ところが自分は人を頼ることが苦手なので部屋で一人、じわじわと心を蝕む暗闇に耐えるように丸まって眠るのです。加えてベッドの上にものを置く癖があるので、ここ数カ月ほど床で眠っています。クッションとぬいぐるみだけは何故かやたら多いので身体を痛めることもあまりなく、「正直これでもいいっちゃいい。なんなら割と心地よいまである」と思ってしまうがゆえに一向に片づけに本腰を入れていないというのが現状です。そんなレベルのポンコツなんだから誰かから好かれたいとかそんなレベルじゃあねぇぞぉおい!って思います。
ちょうど1年ほど前、そもそも「好き」って何? と思うようになりました。これまで普通に人を好きになってきたので、本質的に「好き」という感情を知らないわけではないんですが、ここ数年で悪化した「言語化癖」のせいで、「好き」という言葉がいかに漠然としたもので、感情としてどれほど不鮮明かに気づいてしまいました。考えれば考えるほど「スキ? ナニ? モウワカラナイ!」と混乱してしまって、こういう風に不毛に悩む時のための擬音として「うにゃうにゃ」を発明したのもこの頃でした。特許は取っていないので自由に使ってください。まぁそうやって1年間「好き」という言葉にうにゃうにゃと向き合い続けたおかげで、自分の中で「好き」の定義が固まりました。自分にとって「好き」というのは、「その人の幸せを自分がつくりたいと思うこと」なんだと思います。幼き日の自分が憧れたヒーロー達が助ける人間を選ばなかったように、優しさは誰にでも平等に120%、というのが自分の方針です。だから自分と関わったすべての人に幸せになってほしいと嘘偽りなく思います。でもよく考えると、幸せになってほしいと祈ることとその幸せを自分がつくりたいと思うことは全く別物で、自分の言葉が、自分の行動が、自分の存在がその人の幸せになってくれたらと強く願う気持ちこそが「好き」。自分にはそう思えました。
今朝夢で、女の人と手をつないで公園を散歩する夢を見ました。顔の部分だけもやのかかったその方としばらくデートした後、目が覚めると何故か指が絡んでいた感触が残っているような気がして、しばらくぼんやりと手を結んで開いてしていました。話だけ聞くととんでもなく恋愛に飢えているようで、でも実際はそこまでではなくってと言いたいのだけれど、夢という形で見せつけられると深層心理の表れのような気がしてきて......。あぁうじうじしている。なんとも惨めで哀れな漢よ。
だはーー。「好き」の定義が定まったとて、そう思える人と出会える確率は低くて、出会えたとしてもその人からも好いてもらえる確率なんてもっともっと低い。周りの友人のカップル率を見ていると、そんなに低確率っぽくもないんですけど、自分事になると急にがくんと激レアさんになってしまいました。ゲーム機当選の記念写真が飾ってあるわりに当たりの話を滅多に聞かない夏祭りの的屋みたいなもんだろうなって思います。まぁでも恋愛もくじも運、ゼロじゃないですからね。ゼロじゃないって思いたいだけですけど。
そんなこんなで、恋愛についてつらつらと述べ、うにゃうにゃ悩み、うじうじ御託を並べるなんともスッキリしないふでまめになってしまいました。長いし。「こうはなりたくないな」「私はまだマシだな」みなさんその意気です。