つぶやき 思い出しました
昨日のnoteの中で、覚えていなかった日のこと、思い出しました。
私も含めてそうですが、
自分に分からないことを話題に出されたときに、対応を間違えてしまう人と、そうでない人に分かれますよね。
毒親も、毒親育ちも、対応を間違える方。
分からないことを言ってきた人を、間違った人と警戒して、自分を守ろうとするのですね。
拒絕や逆切れ大きな声を使って、話を自分の分かる範囲に持ってゆきながら、その人の人間関係ある人に警鐘を通達して孤立させながら。
きっと、毒親育ちでない人や、毒親でない人は、分からないことでも、『分からないけれどもそこで困っているのだね。』と、困りごともその人も否定せずに寄り添うのだろうな。
何も解決につながるアドバイスはできなくても、困っているという気持は受け止めたり、分からないということも受け止めて。記憶のどこかに残しておくことができるのだろうな。
産婦人科で1回だけ、助産師か保健師の面談ってありますよね。
その時に、最期に
「その他で何か心配なことや困りごとはありませんか?」
と聞かれ、
「仕事の後任がなかなか決まらず、引き継ぎができなくて困っていることと、その状態で生徒さんたちにも一部動揺させてしまっていて悩んでいる」ことを話したのですよね。
本当に困っていたから。
けれども、本当に困っている様子で話したら重すぎたのでしょうか、
「それは、ここで話すことではない。自分に話されても!!!」
と、拒絕の逆ギレを食らったのでした。
🤔
感受性の感度がとってもとっても過敏な私には、衝撃だったな。
と同時に、変な人認定されてその扱いの中に閉じ込められてしまう困りごとも増えるのですよね。
その頃だったかな。
大きなお腹で、外で腰掛けて泣いていたのは。
私が、そこで聞けたら良かったのは、
「毒親育ちだと思いますか?」
と、
「産後のサポートの用意はできていますか?」
と、
「後任、いい人がはやく来るといいですね。」
だったな、と思います。
そして、今の私の困りごとなのですが、
私が逆切れや、支配を食らいやすいので
私の横にいる大きな音に過敏な子供が、困ること。
子供が音に過敏なことを知っている相手にも、そのことについて相談している相手にも、大声を出されてしまうという。
そして、その大きな声に嫌がってストレスを表現している子供の様子も、その大声をエスカレートさせてしまう。
行く先に気を使うのですね。
するりとすりぬけている波長で。
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