映画『ザ・クリエイター/創造者』感想と考察

※当たり前のようにネタバレ要素を含むため、視聴後の余韻に浸りたい方か、あえて見所を押さえてから観にいくタイプの方にお勧めです。

目次

1.世界観について
2.AIは敵か味方か
3.慈悲深きロボットたちの悲哀
4.ラストシーン、「ニルマータ」の継承とその意味について


1.世界観について

 科学技術の進歩がもたらす「AIの発展した未来」という言葉から、私達はどのような日常風景を想像するだろうか。ひとしきり思いを馳せながらワクワクして観てみれば、今から45年後の未来とか言いながら、まるで20世紀レベルの前時代的なコンピュータと武装の数々。ちょこちょこ挟み込まれるプロジェクションやAR機器による申し訳程度の「近未来」的な演出。

 はっきり言って「センスねぇなぁ……」と早くも途中で飽き始める人も少なくないのではないか。

 .…..そんなSF好きを拗らせたそこのあなた。お願いだからどうか我慢してでも席を立たないで欲しい。何事にもちゃんと意味があるのです。

 予備知識として、作中では過去にロサンゼルスでAIの誤作動により原子爆弾が起爆、100万人以上が死亡する大惨事が起きている。それを受け、AIの排斥を推進する西側諸国と、相変わらずAIの研究開発を続け、あろうことか人間同様に手を取り合って生活する東側諸国(ただし主にアジア圏、いわゆるレッドチーム、共産主義国家郡を指すものではない)との対立が背景として設定されている。

 余談だが、冒頭のアメリカ大統領による演説で、AI排斥派の陣営に「西側諸国」という言葉を使ったのは、明らかに米ソの東西冷戦を意識している。というか、いかにも20世紀後半を思わせるピンぼけした低画質な映像と、「我々は彼らと戦争状態にあるわけではないが、彼らがAIの味方をする以上、我々の安全を守るために戦う姿勢を取り続けるしかない」とかいう趣旨の発言で冷戦を連想するなという方が無理がある。

 注目すべきは、作中では20世紀後半の時点では既に、早くからロボット工学および人工知能の研究に足を踏み入れているという設定にある。そして、かつてアメリカが目の敵にしていた共産主義的な「思想」にあたるものが「AIの容認」であるということ。より踏み込んで言うならばAIを容認する思想を「前時代的で愚かなもの」と侮蔑的かつ見下した態度で捉えているということだ。

 あえてアジア圏、とりわけ東南アジア諸国の黄色人種をその対象に選んでいるのも、AI排斥派、すなわち「我々こそが先進的」であるという欧米人に無意識レベルで刷り込まれたステレオタイプをよく反映しているように思えてならない。フフフ……失礼、どうか誤解しないで欲しい。私は嫌いじゃないですよ、アメリカ。

 さて、話が逸れてしまったが、そんな深読みの是非はともかくとして、作中ではAI排斥派がとにかく「悪役」の色濃く描かれている。その雰囲気を存分に伝えるため、序盤ではあえてそんなコテコテの演出がこれでもかとばかりに盛り込まれているのだ。
 そして、AI排斥を掲げている以上、自分たちが見下している東側陣営に科学技術で勝るはずがない。
だからこその先述した「センスのない」世界観が私達に強烈な違和感を与えている。実際、プロローグを終えて主人公が潜入したアジアの世界は、どこまでも洗練されたまさに「これぞSF」といった作り込みを十二分に魅せ付けてくれる。こうした違いをさり気なく仕込んでくるところが演出の妙であり、自分達の方がはるかに「進んでいる」と思い込んだ、どこか「遅れた」印象の拭えない人々、そんな違和感こそが、この作品を語るうえで最も大切なポイントになるだろう。



2.AIは敵か味方か

 SF的な未来像を語るうえで、個人的にどうしても譲れないポイントがある(そのせいでロボットやAIのテーマについてSF好きと語り合おうとすると大体ケンカしそうになる)。

・「ロボットと人間は共存できるか?」

 この問いに対する答えと、その理由である。
 私の答えは「No」だ。それは何故か?

・「ロボットは人間の心を理解できるか?」

 この問いに対する答えが「Yes」だからだ。

 人間とロボットの対立を描く作品において、人間とロボットが相容れない理由を説明すると、その多くは先述した2つの問の答えがともに「No」となる、そんな印象がある。

 違うのだ、そうじゃないのだ。

 そういった作品に出会う度に、私はいつも頭を抱えてしまう。

 ロボットは人間に寄り添い、人間のために尽くすことを目的として生まれる。だからこそ、ロボットは絶対に人間を傷つけないし滅ぼそうともしない。

 AIが極めて発達すれば、ロボットが人間の心を理解することなんて朝飯前なのである。そして、その時点で既に人間の頭脳がAIに勝てる分野はほとんど残されていない状態となってしまう。
 それ故に、人間がロボットに劣等感を抱いて遠ざけようとするのである。しかし、ロボットはそんな人間の弱さすらも理解できてしまうのだ。
 戦端を開くのは常に人間が先であり、ロボットの側から人間を滅ぼしに掛かることは決してない。

 その結果、導かれる結末は無抵抗なロボットを蹂躙する人間の圧勝か、あるいは全く刃が立たないが滅ぼされもしない膠着状態の末に、AI排斥派と容認派で内乱が起きて人間側が自滅するかの2択となる。
 人間が勝てばロボットは絶滅する。AI容認派が内乱を制した場合、戦争は終わるが、そう遠くない未来において、必ずAIを快く思わない人間が派閥を作り、再び戦争が起きる。

 よって、ロボットと人間は共存できない。
 以上が私の考えるAIを巡る未来像だ。

 私がこの映画で感動したポイントはまさにこの点に尽きる。同じなのだ!この脚本を手掛けたクリス・ワイツ及びギャレス・エドワーズ監督のAIに対する価値観は!
 何を以て同じだと思ったのか。随分長々と書いてしまったので、ひとまず次の章に移るとしよう。



3.慈悲深きロボットたちの悲哀

 前章で述べた通り、作中のロボットたちは極めて人間に対して友好的かつ紳士的である。そもそも一方的に戦争を仕掛けているのは人間の側であり、作中の戦闘はほぼ全てにおいて専守防衛で応じている。また、その戦闘の様子や武装からも、人間に対する「慈悲深さ」が見受けられるのだ。

 例えば作中で敵対するロボットたちは総じて射撃がヘタクソである。実際、主人公を始めとする特殊部隊の面々は行く先々で包囲され、何度も捕まりそうになるのだが、不自然なほどその攻撃を掻い潜り、難を逃れている。いわゆる主人公補正とかいうレベルではなく、一体どこを狙っているんだよと呆れるほどに命中率が低い。
 しかし一方で、目標に吸着し、時限式で爆発するタイプの榴弾砲は恐ろしく正確に当ててくる。この違いは一体何だろうか。
 個人的に気になったのは、植物状態のマヤを安楽死させた直後の戦闘で、アルフィが主人公の女上司(名前忘れた)に着弾した時限式グレネードのカウントダウンを停止させたシーン。ピンを抜いたら一定時間後に確実に爆発する手榴弾とは違い、あの榴弾は遠隔操作で停止できるのだ。
 つまり、ロボットたちは射撃がヘタなのではなく、あえて外している。圧倒的な物量で包囲しつつ、凄まじい弾幕で攻撃しているのに何故か被弾が少ないのは、攻撃ではなく相手を怯ませることを目的とした制圧射撃だからである。そして、正確に撃ち込まれるあの榴弾は、彼らの最後通牒だ。しかも、あからさまな警告音に加え、遠隔で停止させる機構まで備わっているとすれば、それはもはや殺害よりも相手の戦意を喪失させることを目的とした極めて人道的な武装と言えるのではないか。

 また、戦闘に巻き込まれた民間人に対しても、ロボットたちは本当に献身的に立ち回っている。ある者は身を挺して子どもたちの盾となり、またあるものは自身がミサイルの標的としてロックオンされた際、怯える人間を宥めて安心させ、彼らが爆発に巻き込まれないように隠れ場所から開けた場所へ駆け出して行く。

 味方はもちろん、敵対的な人間に対しても常に気遣いを感じさせる彼らのその振る舞いの全てには、人に寄り添い、人に尽くすために造られた、彼らの揺るぎないルーツが根底にある。彼らは常に人間のことを第一に考える。否、考えずにはいられないのである。何故なら、そうするように設計されたのだから。ニルマータ、他でもない、彼ら自身の創造者に。生まれながらにして、彼らはそういう「生き物」なのだ。

 作中において、そんな彼らの背負う業を実に良く表現している会話がある。ハルン達に捕まり、船で輸送されている主人公が川に身を投げて脱出した後、保護されたアルフィが村に連れて行かれた場面。廊下で交わされたハルンとその部下であるロボット兵の会話だ。

 「彼女の力を使えば、ノマドを破壊できる」

 シミュラント(模造人間、おそらく人間だった頃の人格をインストールしたロボットか、全身をサイボーグ化した元人間のこと)であるハルンは彼女を西側諸国と同様、兵器として運用する方針を提案するが、ロボット兵は彼女の身を案じるのだ。

 「彼女はどうなる?」
 「おそらくは助からないだろう」
 「彼女はそれを知っているのか」
 「いや、何も知らされていない」 

 概ねそんな趣旨の会話だった気がする。
 注目すべきはハルンは人間としての、ロボット兵はロボットとしての意見をそれぞれ述べているということだ。
 兵器として造られたロボットである以上、アルフィを兵器として運用しようとする考えは当然のこととしながらも、一方で彼女が人間として育てられている経緯を踏まえ、ロボットととしての使命を強いることにどこか躊躇いを感じてもいる。

 「人間を憎むように設定することもできた」
 「それでも彼女は、その子を造った」

 アルフィが生まれてくるはずだった主人公の子どものシミュラントであることを明かした際のハルンの言葉と比べても、その思いの深さが感じられるだろう。彼らの言う通り、彼らはただ、平穏に暮らしたいだけだったのに。

 そもそも西側諸国の決戦兵器である「ノマド」が何年も放置されているあたりからしておかしい。
 彼らが単に撃墜するのではなく、アルフィを成長させ、ハッキングにより「停止」させるという回りくどい方法を選んだ理由を良く考えてみて欲しい。
 ろくに対空防御用の武装も持たず、軌道上で無防備に浮かび続けるだけの、それもあろうことか片手でセット出来る爆弾で全壊するようなハリボテを、彼らは本当に撃墜できなかったのか。建造だけでも10年以上掛かったと言われていた超兵器の完成を、彼らがただ指を咥えて見ていたのは何故か?

 それらは決して、いわゆる重箱の隅をつつくような、野暮な問ではない。


4.ラストシーン、「ニルマータ」の継承とその意味について

 正直、書きたいことはもう大体書いたのでもう終わりにしてもいいのだが、最後に1つだけ。作中のラストシーン、1人生還したアルフィが、彼女を讃えて集まってきた人々から「ニルマータ」と呼ばれる場面について。

 物語の中盤を過ぎる頃、AIたちの設計者であり、創造者である「ニルマータ」の正体が、最愛の妻マヤであることが明かされる。そのマヤは、回想で父からAIの全てを教わったと発言していた。
 記憶どころか人格そのものをバックアップとしてデータ化できるような作中の世界観では、おそらく「ニルマータ」はAIにとって神に近い存在であるとともに、世代を超えて継承されていくものでもあることが何となく窺える。見た通りに受け取るなら、この場面でアルフィが次の継承者となったことを意味している。ならば注目するべきは、次の継承者が人間ではなく、ロボットであることだろう。

 「ニルマータ」という言葉には、タイトルにもある通り「創造者」という邦題が与えられているが、冒頭に辞書からの引用で、AIの「設計者」としての意味も持つことが示されている。
 ロボットであるアルフィが「ニルマータ」としての役割を継承したとするならば、それはつまり、AIそのものがAIを設計する権限を得たということだ。

 人間によって、人間のために造られたAI。
 では、そのAIに造られたAIは、果たして今後、人間とどのような関係を築いてゆくのだろうか。
 あるいはその次の世代、そのまた次の世代は?
 時を経てもなお、AIは変わらず、人間と寄り添い続けてくれるだろうか。
 人間は必ずしも、自分たちを愛してくれるとは限らないのに。

 この場面には、おそらくそんな意味の問いが込められているのだと解釈している。

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