ルート29 感想と考察

※毎度ながら安定のネタバレ要素満載でお送りする。鑑賞後の余韻に浸りたい方、あるいはあえて見所を押さえたうえで観にいくタイプの方にお勧めです。

目次

1.国道29号線で出会った人々について
 【A】犬を連れた赤い服の女性
 【B】無言のお爺さんと旅人の親子
 【C】トンボの姉
 【D】ハルの母

2.「生きている」人、「死んでいる」人

3.ラストシーン、宙を泳ぐ魚について


率直に言うと、非常に難解な映画だった。
全体を通して会話が少なく、大胆な間を置きながらゆっくりと話が続いていく。ラストも表現が独特で意味が分からないまま置いてけぼりにされたようにエンドロールを眺めてしまった人も多いだろう。
とにかく考えっぱなしの2時間だった。そんな印象。
逆に言うと、ただぼんやり観ているだけでは意味が分からなすぎて、この映画は何を描いたものなのか
常に考え続けながら観るようにしないとただ退屈な時間を過ごすだけだろう。ある意味観る人を選ぶ、そんな映画だったように思う。

この映画の内容を私なりの言葉で表現するのなら、

生きた人間が、果たして自分は「死んでいる」のか「生きている」のかを、旅の中で考え続ける。

ざっと、そんなところだろうか。


1.国道29号線で出会った人々について

劇中において、トンボとハルは国道29号線の途中で様々な人々と出会う。この章ではそれぞれの場面で登場する人物の役割を順に追っていくとしよう。


【A】犬を連れた赤い服の女性

まず、2人が旅を始めた初日の夜。暗い店内で食事をしていると、犬を2匹連れた赤い服の女性が現れる。
行方不明になった3匹目の犬を探して欲しい、という女性の頼みを聞き、車に同乗させた結果、2人は車を盗まれ途方に暮れることになる。

また、暗い店内のカウンターに佇む無表情な店員、不気味な雰囲気で語りかける赤い服の女性、無駄に大きく聞こえる大型犬たちの荒い息づかい。そんなややホラーテイストな舞台の演出も相まって、2人はまるでどこか日常とは違う、不思議な世界へと足を踏み入れてしまったような、ある種の転換点として物語が動き出すのを予感させる。2人の奇妙な旅は、ここから始まるのだ。

個人的に、この女性が最大の食わせ者だ。とにかく意味が分からなかった。ただただ突然、車を盗んで去っていき、窓からトンボの鞄を投げ捨て、そこで出番は終了。冒頭でことあるごとに書き溜めていたトンボのメモ帳も川に流されていくが、特にその後回収されることもない。当然車も戻ることはない。

結論としては、この女性自体には何のひねりもなく単純に頭のおかしい変人である。どちらかというとその後のトンボの様子を映すことによって、彼女の人物像を描くのに必要な役割だったのではないかと考えている。例えば、まさに目の前で車が盗まれて走り去っていく状況で、ハルが「車、いいの?」と聞いてもぶっきらぼうに「いい」と答えて無気力に歩き始める。冒頭でいかにもメモ魔といった具合にことあるごとにいろいろ書き溜めていたメモ帳も、探そうとするどころか、別にそもそもメモしないと気がすまないという癖など始めから無かったとしか思えないほどの無頓着ぶりである。こうした彼女の「全てにおいて無関心」な性格こそ、後半へと続く本作における最も重要な要素なのだ。


【B】無言のお爺さんと旅人の親子

翌朝、2人は歩き続けた道の先で、逆さまにひっくり返った車の中でうなだれるお爺さんを見つける。
なんとか引っ張り出すが、うんともすんとも言わず立ち尽くしたままで、諦めてその場を立ち去ろうと歩き出すと、2人の後ろを無言でついてくる。
その後、トンネルを怖がり、道路脇にある藪の中へ分け入った結果遭難。山中を彷徨っているところに旅人の親子に出会い、食事を分けて貰うのだった。

旅人の父親曰く、人の社会は牢獄であり、何の罪も犯していない自分たちが囚われる謂れはない。またこの世は近々滅びを迎える運命にあり、その日まで誰も気にせずに自由に生きるのだという。できれば息子も、そういった社会の柵に縛られることのない人生を歩んで欲しい、とのこと。

それに対し、息子の方はというと、何ヶ月も学校に通えていないことを気にしており、人との繋がりがなくなっていくこと、それを気にしなくなっている自分がいることを、何となく不安に思っている。
そして、父親の言うことを素直に信じていいものか戸惑いを覚えているといった様子である。

この場面で注目したいのは、父親はトンボ、息子はハルと、それぞれ対話しているということだ。
人の社会を毛嫌いして旅に出たのに、人と話すのは久し振りだと言って、どこか嬉しそうに話す父親の話を、トンボは特に親身になるでもなく、上の空で煙草をふかしながら聞いている。息苦しい世の中に対する想い、旅をしている中で感じたこと、息子を巻き込んだまま旅を続けることの是非。洗いざらい話した後、彼はそのまま黙り込んでしまう。川辺で物思いに耽りながらつついた腕時計は、とうの昔に動きを止めたままボロボロになっていた。

一方、息子はハルに、誰からも相手にされないのが怖いかと質問する。また父親の言う、世界の滅亡が本当だと思うか、とも。分からない、気にしないとハルが答えると、息子はハルの佇まいから、どこか勇気づけられたような気持ちになったようだった。
「お前みたいなのがクラスにおったら、もっと違ったかもしれんな」と笑い、「やっぱ人間が良いわ」と吹っ切れた様子で水切りの石を投げる。そんな彼の腕にも時計が巻かれていた。父親のそれとは違い、新しく、ちゃんと動いているように見える。そして親子の腕時計の描写は、おそらく後ほど伏線となる重要なキーワードだと考える。

心を病んだ父親と、それに連れられた子ども。
父親の影響以外に、息子は息子で人との関わり方に難儀していた部分があったのかもしれない。だが、息子の方はまだ、人間の中で生きようという意志があるように思える。この場面では、親子での対比が感じ取れるだけでなく、その親子を通じ、トンボとハルの人柄にも、対比が見られるのではないか。
ただぼんやりと側に座り、相槌を打ち続けるだけのトンボ、「知らん、分からん」とバッサリ切り捨てているようで、ブレない芯のある姿を見せて、相手と向き合おうとするハル。そんな他者との関わり方の違いが、2人の人柄をよく描き出していると思う。

そして旅人の親子と別れ、国道29号線に戻ってきた
2人…と無言のお爺さん。この人の役割とは何か?

このお爺さんは終始無言であり、台詞は大きな川に出た場面で「カヌーに乗りたいのう」と呟くのみ。
お前喋んのかよ、と言わんばかりに顔を見合わせた
2人は、お爺さんの希望通り貸しカヌーで川に出る。

するとお爺さん、今までの緩慢な動きが嘘のようにスイスイと漕ぎ進んでいく。呆気に取られる2人は、
お爺さんの進む先に、同じくカヌーに乗った奇妙な集団が横一列に並んでいるのを見つけるのだった。

仏前式の白無垢と袴に身を包んだ新郎新婦、両親と思われる初老の男女と子どもたち、およそその場に似つかわしくない格好で全員がこちらを見ている。
お爺さんはその列に加わると、笑顔でこちらに手を降り、全員くるりと背を向け、遥か先へ漕ぎ進んで去っていった。直後、晴れた空から土砂降りの雨が降り、2人は慌ててその場を後にする。狐の嫁入り。

無言のお爺さんは、この世の者ではなかったのだ。

全てに無関心で、他人に興味が持てないトンボ。
あるいは、山で出会った旅の親子の父親のように。まるで生きているのか死んでいるのか分からない、そんな生き方を嘲笑うように、お爺さんの姿をした「何か」は2人に付きまとい、そして去っていった。


【C】トンボの姉

個人的に一番衝撃的だったのはトンボの姉だ。
お爺さんの正体が分かる場面で何となく想像がつき姉の台詞でこれまでの全てが一気に線で繋がった。
この姉との会話を経て、物語は核心へと至る。

雨でずぶ濡れになり、牧場の山羊小屋に逃げ込んで雨宿りをした後、2人は道中の小学校を訪れ、そこで教師として働くトンボの姉の家に転がり込む。
熱を出したハルが別室で寝ている間、トンボの姉はトンボの前で壮絶な独白を漏らすのだった。

姉は教師としての仕事に対して、ある程度の誇りとプライドを持っている。何より誠実さが求められる仕事であり、自身もそれに見合うよう誠実な人間でありたいと願っている。だが、彼女の理想と現実は明らかに埋められない差があり、それが目についてたまらない気分になる。日々の激務、生徒たちへの愛憎入り乱れる様々な感情。そして何より、昔から変わらず不器用な妹を可愛く思う反面、走り続ける自分をよそに、マイペースに生き続ける身勝手さに無意識な苛立ちを覚えている。その相反する感情に彼女自身も戸惑っていた。彼女から延々と漏れ出す嗚咽とも怨嗟とも受け取れるこの長い長い独白は、聞いていて実に切ない気分になってくる。それを、相変わらず黙って上の空で聞き流しているトンボ。
何もせず、側に寄り添って聞く。その態度は一見、心を乱した相手を思いやる「優しさ」ともいえる。
だが姉はそんな妹に容赦なく言葉を浴びせていく。

その中でも、「お前は幸せになれんよ」という言葉はトンボの今後に大きな影を落とすことになる。


「お前は優しくなんかない、誰にでも、なんにでも無関心なだけや。誰に対しても興味を持てないからそうやって黙って聞いてられるんや」

「人間として生まれたからには、人間として生きようとしなきゃいけない。なんにもせず好きなように生きていたらバチが当たる」


概ねこんな内容の台詞だったと思う。この台詞が、これまで出会ってきた人々とのやり取りと全て線で繋がるのである。

そして翌朝、テレビのニュースでハルが行方不明で警察に捜索されていることを知らされるのだった。
絶句した姉は無言で立ち上がり通報しようとする。
しかし、トンボは電話線を抜いて抵抗。事情を聞く姉の言葉を頑なに無視する。事情があるなら警察に話すべきだと懸命になだめるが、聞く耳を持たないトンボに、姉はただ寂しそうに声を掛けた。

「そうやって、また行ってしまうんやね。次は何年後に会えるんかなぁ」
「さようなら」

結局、最後にトンボが自首するまでに、2人の元まで
捜索の手が迫ることは無い。どうしようもない妹を姉は、今まで通り最後まで甘やかしてしまうのだ。
妹のように、姉もまた変わることができずにいる。そんな皮肉めいた姉妹の今後を思うと、実に陰鬱な気分になってくる。


【D】ハルの母

いよいよハルの母との面会に向かう段階になったが今度はハルがトンボの側から姿を消してしまう。
なんとか合流した後、ホテルに泊まった際、ハルの母親から虐待を受けていたことを匂わせる発言から
いざ母親に会うのが不安になったのだと分かる。
「トンボ、明日もおる?」と聞くハルにいつも通り上の空で一言、「おるよ」と返すトンボ。

「トンボが居てくれるなら、会う」

何もせずただ居てくれるだけでも良い、それだけでハルは心強かった。それが例え「優しさ」と程遠い「無関心」によるものでも、ハルは人との関わりを求めていた。彼女は今も、ずっと独りぼっちだ。

翌日、精神病院の面会室で2人はようやくハルの母に対面することになる。ハルは、国道29号線を歩いた過程で起きたこと、出会ってきた人々のことを順に話していく。たどたどしく、脈絡のない突飛な話の連続で、まともな親でも聞いていられない内容だが母に語りかけるハルの様子は、実に生き生きとした年相応の幼さが見て取れ、子役の技量が伺える。

ひとしきり話を終えた後、母親はにこりともせずに立ち上がり、「私は死んでいます」と一言だけ呟いてその場を去っていこうとする。そこへホイッスルの音が響き、彼女は足を止めた。振り返ると、ハルがホイッスルをくわえながらこちらを見ていた。母は胸元からハルと同じホイッスルを取り出して、短く鳴らしてそれに応える。言葉はなかったが、それは紛れもなくハルが母と交わした「会話」であった。

「死んでても良いから、また会おうな」

そう呼びかけたハルの言葉に、母は応じなかったがゆっくり、本当にゆっくりとハルに背を向ける間、小刻みに顔が揺れている。それは、見方によっては何度も何度も頷いているようにも見えた。あるいは私が単にそうであってほしいと思っていたからか。
ただ、きっとハルもそう願っていたことだろう。
「私は死んでいる」と言い、無気力に生きる母に、
ハルはそれでも彼女に「生きて」欲しかったのだ。


2.「生きている」人、「死んでいる」人

さて、前の章で順に追って述べたように、私はこの映画を「人間らしい生き方」とは何かを考え続ける物語であると解釈した。ちゃんと生きているのに、まるで死んでいるかのような生き方をする人々。
今作の主人公であるトンボはまさにその典型でありハルはそんなトンボを側で眺めながら物語は進む。

しかし、劇中では、そんなトンボの生き方に変化が訪れる場面がある。姉と別れたあと、ファミレスでハルがトイレの窓から脱走する場面。2人の席から
離れた場所で、2人の老人が机中に広がった裏返しの写真を、神経衰弱のように1枚ずつめくっている。
表にした写真を眺めて、「死んでる」、「生きてる」と呟き、全て表にしたらシャッフルして繰り返す。

見たままに受け取るのならば、老人が写真に写った知人の近況を確認しあっているかのように思える。
だが、姉に「人間として生きようとしていない」と指摘された直後であることを考えれば、また違った意味を持つようになる。基本的にトンボは自分から自分について語ろうとしない。モノローグを使って内面を自分の言葉で語ることもないため、トンボが自分の「生き方」について思いを馳せているという様子を間接的に表現したものと解釈した。

その後、脱走したハルを探し回っている間、ハルは時計店を訪れる。店中に並んだ時計の中に、ハルはふと目に留まった腕時計を手に取った。秒針の音が気に入ったのか耳元に当てて聞いていると、店主が声を掛け、ハルはその腕時計を譲り受けていた。

そう、ここでも「時計」が出てくるのだ。山の中で出会った旅人の親子の腕時計のように、時間が常に動き続けていることを示すシンボルである。そしてそのハルを探し回るトンボも、「時」に対する描写が使われている。日が暮れて、疲れ切った様子で街を歩き回るトンボをよそに、街の人々は空を見上げて動きを止めている。空には異様なほど赤く染まった巨大な満月が街を見下ろしていた。街の住人全員がマネキンのように振る舞うフラッシュモブのように動きを止めた大通りを、2Dスクロールの定点画面で
進む。ここではトンボの時間だけが動いている。

すると、先程ハルが立ち寄っていた時計店の店主が通りかかる。トンボは、ハルの写真を見せながら、「この子を知りませんか」と老婆に話しかける。
なんとこの台詞、おそらく劇中で始めてトンボから会話を始めた数少ない例であることに注目したい。

ちなみに、他にトンボが自発的に会話を始めたのはハルの母に面会する際、沈黙するハルの母にハルを指差しながら、「連れてきました」とハルに会話を
丸投げする場面と、終盤に警察署の受付で自首する場面のみだったと思う。

すると、店主はハルが先程自分の店に来たと言い、「大丈夫ですよ、ちゃんと会えますから」とまるで予言じみた意味深な呟きを残してその場を去った。

自らの意思で動き、言葉を発し、他者との関わりを持とうとした。彼女のそんな少しだけの成長ぶりを強調する演出であったように思う。

しかし、結局トンボは変わることができなかった。 

ハルは面会の最後で、「私は死んでいます」と言った母に「死んでても良いから、また会おうな」と声を掛けた。ハルは母と、他者との会話に飢えていた。人と繋がりを絶ち「死んで」しまった、背を向けた母親に対して「生きて」欲しいと言ったのである。

ハルの目には、無気力な母の様子が、これまで側で見てきたトンボの姿に重なっているのではないか。
だからこそ面会後に砂浜で、ハルは彼女に腕時計を手渡したのではないのか。トンボの時間が止まってしまわないように。「この音を聞いて」と。ハルは、トンボにもちゃんと「生きて」欲しかったのだ。

だがハルを警察署に引き渡した後、もはやトンボに帰る場所も、生きる目的も残されていない。むしろ警察に引き渡した瞬間、自分が児童誘拐の現行犯で逮捕されることすら考えなかったのかもしれない。
ただ淡々と受付で用件を伝え、慌てた様子で周りを取り囲む警官に抵抗するどころか動揺さえせずに、言われるがままに背中を押され歩き去っていく。
それも、肝心のハルに一瞥もくれてやらないまま。

呆然とするハルの目には、自分に背を向け面会室を去っていく母の姿が重なっていたはずだ。
何も言わず無気力に、ただ立ち去っていくトンボの「死んだ」背中を、ハルはいつまでも眺めていた。


3.ラストシーン、宙を泳ぐ魚について

さて、ここまで全て踏まえたうえで問題のラスト。パトカーに乗せられ、自宅へ送り届けられる途中のハルは、2人で歩いてきた国道29号線を戻っていく。

その道中、何を聞いても口を開かないハルを気遣う婦人警官がラジオをかけた瞬間、怪異に遭遇する。不自然なノイズの後、排ガスのパイプがまるで水に浸かり、詰まったような異音を立てる。車が止まり外に出たハルは、空中を泳ぐ巨大な魚が、目の前を道沿いに泳いでいくのを目撃する。そして特に何も起こらないまま、通り過ぎて去っていった。突然のCGグラフィックに唖然としたが、きっとこの場面も意図があるはずだ。考えるのをやめてはいけない。

実際のところ、この場面自体にはあまり深く考える意味はないのかもしれない。意味があるのは多分、次のトンボの場面だろう。場面は移り、警察署内でこちらを背にしたトンボが警官に連れられていく。
すると廊下の掲示板に貼られたポスターが不自然にめくれ上がり、ハルが耳にしたのと同じ水中に沈むような音が響く。何かの気配を感じたのか、不意に後ろを振り向くトンボ。目を見開いた顔のアップ。
そして、突然のエンドロール。

トンボの姉の家での夜中、ハルはトンボに、自分が熱で寝込んだ時に見た夢の内容を話す場面がある。砂漠の中、宙を泳ぐ魚に自分が飲み込まれるという内容だったが、トンボも似た夢を見たことがあると答えており、単純に考えるならハルはこの夢と同じ幻を見たことになるのだろうか。そして、トンボはその魚に飲み込まれた。とりあえずそう解釈する。
もしもあの魚がハルの見た幻であるとするならば、それはハルが「死んだ」とみなしたトンボを食べに来た魔物のような存在ではないかと私は考えた。

個人的に気になったのは、トンボの映し方だ。
そういえば、トンボは結局逮捕されたのだろうかとつい手元に目がいってしまったのだが、背を向けて歩く彼女は、両手を体の前に出しており、画面から見切れてしまっている。後ろを振り返った時にも、わざわざ手首が映らない角度調整とアップの仕方がなされているように思えた。始めはただ手に手錠が嵌められているかどうかを見せないことで、観客に彼女がその後どうなってしまったのかを想像させる意図があるのだろうくらいにしか考えなかったが、
あの時、トンボの手首には砂浜でハルから渡された腕時計が巻かれていたはずである。劇中の描写では「死んだ」者の腕に、動く腕時計が巻かれていては表現の仕方が矛盾する。ハルが魚を目撃する場面を映したように、トンボの場面でも、トンボの視点で魚が迫ってくるように描かなかったのは、あくまで彼女に迫る魚を想像しているのはハル自身だから。

そして、先述した理由の通り、彼女の手首が画面に映り込まないようカメラの回し方を工夫した結果、あのようなラストになったのではないか。

以上。
長い考察、というより最後は妄想に近い気がするが誰かの鑑賞の手助けになれば幸いである。

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