ゴジラ-1.0 感想と解説

※例によって当たり前のようにネタバレ要素を含むので鑑賞後の余韻に浸りたい方、あえて見所を押さえたうえで観にいくタイプの方にお勧めです。

目次

1.舞台設定、「核」の位置づけについて
2.作中の「戦争」の位置づけについて
3.「-1.0」の意味について

 これまで数々の制作会社、監督の手によってリメイクとリブートを繰り返してきた「ゴジラ」シリーズ。時代を超えて受け継がれ、その度に変化、進化を遂げながらも、各々が過去作へのリスペクトを忘れないその精神は今作においても健在である。何を隠そう、特撮の時代から全作品観てますからね、子どもの頃から大好きなのよ、ゴジラ。残念ながら大半が生まれる前の作品なのだが。テレビ画面でビデオ借りて観てた頃が懐かしい。やはり怪獣映画は映画館でリアタイしてこそですよ。


1.舞台設定、「核」の位置づけについて

 さて、ハリウッドの「ガッジーラッ!」を受け、やはり怪獣映画は日本が作るべきだと主張するかのように一世を風靡した「シン・ゴジラ」から7年。立て続けに再び日本産ゴジラ作品が公開。今作の特徴は何と言ってもその舞台設定にあると言えよう。

 戦後間もない日本、全てを失いゼロとなったあの時代に、まるで追い討ちをかけるようにゴジラが襲い来る。そんなキャッチフレーズだけで既に「もう勘弁してくれよ」といった具合の、どうしようもない絶望感が十二分に伝わってくる。だが、近未来や現代で進められがちな他のゴジラ作品と違い、山崎監督があえてこの時代を選んだ理由はそれだけでは無いはずだ。

 最初に気になったのは「核」の観せ方。

 核、というよりは、どちらかといえば「放射線」という概念の扱い方に特徴がある。言うまでもなく、作中の時代では放射線に対する理解があまりにも低い。例えば焼け野原になった銀座の街を映した場面。ガイガーカウンターが鳴り響く中、まるで意味をなさない形ばかりの防護服を着て調査をする研究者たちや、汚染地域のガバガバな封鎖方法など、現代に生きる私達からすれば信じられないような真似を、作中の人々は平気でやっている。先に述べた通り、「どうしようもない絶望感」を演出するための時代背景として、この「理解度の低さ」が非常に良く機能している。

 簡単に言えば「分からない」モノに対しての恐怖だ。ゴジラが現れる際には深海魚の大量死があるという、経験知としての情報が、被ばくによるものであることを彼らは知らない。これが現代ならきっとそうはいかない。たぶん、学者の野田さんあたりが放射線の影響について講釈を始めるだろう。それが邪魔なのだ。あのシーンで単純に表現したいのは、科学的、倫理的な発想とは根を異にする、生理的な忌避感。得体の知れない何かに対する、気味の悪さだ。

 最近のゴジラ作品(例えば先に挙げたハリウッド版ゴジラとシン・ゴジラ)にありがちな風潮として、核に対するネガティブな印象を思わせる描写が随所にある。もともとゴジラは放射能(物理学徒としてはあまり好きではない表現)による突然変異によって生まれ、その過程で自身のエネルギー源に利用するようになったという生態を持つ。それが転じてか、ゴジラの放つ熱線やその被害地の様子を見た登場人物が顔をしかめて考え込んだり、そもそも人間が核を扱うことによる代償や責任といった「教育的」な言動をさせたりする、なんて表現が昔よりも目立つようになった……ように思う。

 別にそれを悪いとは思わないし、反核に対して思うところがあるわけでもないが、少なくとも「ゴジラ」を描く上ではやや邪魔な気がしてしまうのだ。

 あえて、放射線という概念そのものが常識として定着する前の時代を設定することで、そういった余計なメッセージ性、あるいは受け手が勝手に連想してしまいがちなノイズを排する事ができる。何故なら、描きたいのはそこじゃないのだから。だからこそ、ゴジラが熱線で銀座を焼き払ったシーンを「正しく」表現できるのだ。すなわち、どうしようもない「絶望感」をどこまでもストレートに。当然だ。あの場面に居合わせた人々は全員、その時と同じ感情をほんのつい最近経験したばかりなのだから。

 焦土と化した銀座。立ち上がる巨大なキノコ雲。何としても生きると決意して前を向いた矢先、居候の彼女ノリコを失い、1人残された主人公に降り注ぐ黒い雨。あの場面は言うまでもなく、かつて日本がポツダム宣言を受諾しなかった場合、東京に落とされる予定だったとされる3つ目の原爆の比喩に他ならない。そんなあまりにも明確な原爆のイメージを、あえてあの場面に持ってきたその演出的な意図に、私は敬意を表しているのである。

 科学的な説明は要らない、倫理的な価値観も要らない。必要なのは、「どうやっても敵わない」と誰もが確信できる圧倒的な力と、その説得力だ。

 徹底抗戦、国民総玉砕とまで意気込んだ日本人を絶望させた原爆。戦争を生き延びた全ての人々にとってのトラウマ、それがあろうことか地方に先駆けていち早く復興を遂げ、新たな時代の到来を予感させた都心部に落とされたとしたら。あの時代を生きた日本人の心を、ここまで効果的に折ることができる方法が他にあるだろうか。私には思いつけそうにない。



2.作中の「戦争」の位置づけについて

 あるいは、「戦争」という言葉の位置づけにも、この舞台設定による演出の妙がある。「ゴジラ」というキャラクターは何かにつけ「災害」や「天災」としての位置づけがなされる場合がほとんどだが、今作におけるゴジラは、既に終わったはずの「戦争」そのものなのだ。しかも、それは言葉通りの戦争ではなく、主人公の心の中でのみ続く、「過去に対する柵との決別」を描く戦いである。主人公ただ1人だけが、終戦した後もずっと「戦争」を続けているのだ。

 注目すべきは、ゴジラに対抗しようとする人々が、終始軍人としての目線では描かれていないことだ。他のゴジラ作品にない特徴として、今作では軍隊の出番がほとんど無く、あったとしても徹底して軍人の目線で描かれることは無い。あくまで目線は主人公や、逃げ惑う人々のものであり、駆けつけた軍艦や戦車隊が砲撃して応戦するのを遠巻きに眺めるといった場面が主である。冗談抜きで「目標補足、撃てー!」みたいなやり取りすら無いのだ。突然現れて砲撃し、返り討ちにあって退場する。ここまであからさまに視点にこだわった描き方をしたのは何故だろうか。

 答えは決まっている、今作に登場する「軍人」とは、主人公ただ1人だからだ。

 大前提として、「戦争」は終わっている。軍隊は解散し、クライマックスに登場する駆逐艦も輸送艦として転用された非武装船である。時代は米ソの東西冷戦真っ只中であり、GHQはソ連を刺激するのを避け、軍を動かさないと決めていた。とにかく民間人の手で対応するという方針をこれでもかと念押ししていることから分かる通り、今作はゴジラ相手になんと武装無しで立ち向かおうというのである。

 唯一武装しているのは主人公の駆る戦闘機「震電」のみで、ゴジラを作戦海域まで誘導するために彼が用意させたものだ。だが、実際は爆弾を積んだ特攻機として運用し、彼は自らの命をもってゴジラを、彼の「戦争」を終わらせる気でいたのだった。

 前置きが長くなったが、ここでは彼の「戦争」について、その心理描写を順に追っていこうと思う。

 戦争中、主人公は特攻機のパイロットとして出撃したが、機体が故障したと嘘をついて戦線を離脱し、離島の整備場へ不時着。そこでゴジラに襲われる。そこには非戦闘員の整備士しかおらず、戦闘機の機銃を扱えるのは自分だけだったが、彼は恐怖のあまり引き金を引くことができず、次々に整備士たちは目の前でゴジラに嬲り殺されていく。吹き飛ばされて気を失い、目覚めた時には整備士の橘と自分のみが生き延びている。

 その後、本土へ戻る輸送船で、ゴジラに殺された整備士たちの遺品を預けられることになる。彼らが後生大事に持っていたのは、本土で帰りを待つ家族の写真。この遺品と離島でのトラウマが、戦後も彼を縛り付ける呪いとなる。

 こうした過去を受け、主人公は終始卑屈な考え方に凝り固まっており、見殺しにした彼らを差し置いて自分だけがのうのうと生きていくことに罪悪感を覚えている。だからこそ、成り行きで同居することとなったノリコに想いを寄せつつも、一歩踏み出せずにいてしまった。そして、ノリコと戦災孤児であるアキコを生かすため、自らを顧みず危険な海上での機雷除去作業に明け暮れる中、再びゴジラに襲われる。

 辛くも生き延びたが、共に作業をしていた乗組員たちの半数は眼の前で海の藻屑となり、応戦した重巡洋艦、高雄は善戦虚しく轟沈。ゴジラに蹂躙される彼らの姿が過去の出来事と重なり、悪夢となって彼を苦しめた。しかし、空襲の炎に焼かれながら自分を守った両親の「生きろ」という言葉を胸に刻み、前を向き続けるノリコの考えに触れ、彼女と共に生きる決意をする。

 こうして長きに渡る彼の「戦争」は、ここで終わるかに思えた。
 だがあの怪物は、許しちゃくれなかったのだ。

 再び現れたゴジラは、あろうことか彼の目の前で彼女を瓦礫と共に吹き飛ばした。またしても1人生き延びた彼は、再び絶望に打ちひしがれる。そんな時、野田からゴジラ駆除作戦の参加を提案されるのだ。全てを失った彼は、ゴジラへの復讐を誓い、もはやそれだけが彼の生きる理由になった。

 共に作業をした船の船長、秋津からそれを指摘され、どうして彼女を嫁に取らなかったのかと問われた時、その原因の全てが、過去に囚われた自分にあることを自覚する。彼はようやく、全てを悟った。

 自分の「戦争」は、まだ終わっていないということ。そして、この「戦争」を終わらせるには、一体どうしたらいいのかを。彼は再び、特攻隊員として戦場へと向かうのだ。

 主人公が頑なに戦闘機の整備士に橘を指名して譲らなかった本当の理由は、彼に許しを請うためではない。自分が乗る戦闘機に、爆弾を積んでくれる整備士が、彼しか居なかったからだ。

 ここからの主人公の様子は本当に悲惨であり、死相が見えるとはまさにこのことである。特に、橘に戦闘機の整備を依頼する場面。主人公を演じた神木隆之介の怪演は見事という他はない。また、並行して進む作戦会議でも、主人公だけが1人「戦争」に取り残されている様子がありありと描かれている。

 ゴジラ駆除作戦に参加した者の多くは、主人公と同じ退役軍人であり、自らのことを「死に損ない」と表現しているのだ。戦後も心の中で戦争を引きずっている、過去に囚われた者たち。言葉だけで見れば、彼らの中でも「戦争」は終わっていないように思える。だが、彼らは主人公と同じではない。戦争に参加し、国のために戦って、そして生き残ったのだ。作戦から逃げて、仲間を見殺しにした自分とは違う。そして、そんな彼らもまた、主人公と同じく帰った先で「役立たず」と後ろ指を差されているのが、主人公をさらに卑屈にさせる。

 実際、作戦立案から当日までの会議中、主人公だけが終始無言である。そんな彼に、野田のセリフが痛いほどに刺さっていた。

「先の戦争では命を軽く扱い過ぎている所があった。この作戦は軍ではなく、民間によるものだからこそ、1人の犠牲も無く収めることを誇りとしたい」 

 彼らは自分のように、死に場所を求めていたのではなかった。自分は役に立てなかった、次こそは役に立ちたい。そう言って笑う彼らは既に「戦争」を終えて、前を向いていたのだ。

 こうしてついに、決戦の幕が開く。
 決行日の早朝、戦闘機に乗り込んだ主人公は、あの時と同じく、どうしようもなく震える手で橘にかつて預かった整備士たちの遺品を見せ、覚悟を決めたと伝える。すると橘は、彼に何かを耳打ちした。

 それは、かつて零戦には搭載されていなかったはずの、脱出装置の起動方法だった。困惑する彼に、ノリコと同じ「生きろ」という言葉が贈られる。

 「戦争」を終わらせる方法とは、かつて逃げ出した弱い自分と決別し、命を散らすことではない。
 過去と向き合い、どんな明日が来ようとも、前を向いて生き続けることなのだ。

 彼はノリコの写真を手元に置くと、預かっていた整備士たちの遺品と一緒に「送る」ことにした。
 操縦桿を握る彼の手は、もう震えていない。


3.「-1.0」の意味について

 これだけ長々書いたのだから、もはや説明は不要であろう、タイトルにある「-1.0」の意味について。

 戦後全てを失い、ゼロとなった日本にゴジラが襲い来る。キャッチフレーズから容易に想像されるのは、泣きっ面に蜂。最悪のさらに先。いわゆるそんな意味合いでのマイナス1。CMを観た際に誰もが納得したであろうその解釈は、完全にミスリードだ。

 先の章で述べた通り、この映画はなんと怪獣映画でありながら、その中身は、主人公が過去の柵と決別するまでを描く戦いの記録だ。

 戦後、人々が復興を目指して前を向き、歩き始めてゆく中、主人公だけが過去に取り残されている。
 そんな彼が過去と向き合い、歩き出すためのスタートライン、すなわち「マイナスからゼロ」になるまでの戦いを描いた作品なのだ。間違っても「ゼロからマイナス」に転ずる過程を描くものではない。

 以上、気づけば5000字も書いてしまった。長い独り言にお付き合い頂き、感謝いたします。

(なお、幻の戦闘機、震電が飛んだこととか、史実では自沈処理される予定だった重巡洋艦、高雄が作中で急遽戦線に復帰してるところとか軍事オタク的には中々テンション上がる解説ポイントが大量にあるが、あまりにも長くなるため閑話休題)

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