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「にっかり青江単騎出陣」と私の話
ごきげんよう。妖怪です。
青江さんに会える世界線にやってきました。
夢が叶うって素敵だな。
今回はタイトル通り「ミュージカル刀剣乱舞 にっかり青江 単騎出陣」の感想だったりを連ねていこうと思います。
ツイートでぽつぽつ語ることはあれど、
何もかも露呈させるが如く文字を綴るろくろの題材として扱ってこなかったこの作品。
実際に彼に会ったら、いま胸に秘めている あの作品に対しての純粋な感情や想いは、きっと別のものになってしまう気がする。
そんな予感がしたので、音曲祭で青江さんに会う前にまとめてしまおうという魂胆であります。
ろくろとも感想とも取れぬ今回の乱文ですが、いつもより情緒を掻き乱されており、精神衛生上よろしくないワードが度々登場しますので、
合わなかったら即座にペッッッしてくださると幸いです。
どうぞよしなに。
【御礼】
— ミュージカル『刀剣乱舞』公式 (@musical_touken) October 12, 2022
にっかり青江 単騎出陣、さきほど香川公演が無事に終幕いたしました。
これにて47都道府県、全ての地で公演を行う事が出来ました👏🏻
2年間、沢山の方に支えられ今日この日を迎えられた事、改めて心から感謝いたします。
今後とも刀ミュをよろしくお願いいたします!#にっかり青江単騎出陣 pic.twitter.com/d1ka6nYSgR
【以下乱文】
私のワードセンスが歪なばかりに、誤解させてしまいそうなので先述しておきます。
青江単騎って最高の作品なんですね……本当に……
あの体験こそが「心を動かされる」というものなんだろうな。
あまり偏った発言をしてはならいというのは承知していますが、
恐らくこの先の人生、この作品を越えるものに出会うことはないと思う。
ミュージカル刀剣乱舞 にっかり青江単騎出陣。
この作品を簡潔に説明すると、にっかり青江(演:荒木宏文さん)が極の姿を得るまでの旅。
彼の旅に準え、天災や情勢に揉まれながらも、全国47都道府県で上演されました。
(※現在は新木宏典さんですが、上演当時の表記に倣ってます。)
様々な地へ出陣してきた刀剣男士 にっかり青江が、これまでに何を思い、何を感じていたか。
そして極への修行で何に触れ、何を成し、これからどう在りたいかを自問自答していく物語。
数多の人が落涙し、その旅路の先に祝福と感謝の喝采を送った素晴らしい作品なのですが、
登場人物の内面を深掘りしていく一人芝居ということもあり、そのカロリーの高さは類を見ないものとなっている。
晴朗な語り出しからは程遠く、殺伐さを隠すことができていませんが、
この作品を見た私の胸中、真っ先に渦巻いたものというのは嫉妬だった。
板の上に刀が在り、その輪郭を確かめるように触れる彼は物語・逸話そのもので、物語・逸話が宿ることで、彼=にっかり青江が顕現する。
そんな艶めかしくも、神々しい姿は、本当に神様のように見えた。
だからこそ、嫉妬が止まらなかった。
他人への嫉妬や羨望というものとは縁遠い人生だと思っていたのですが、
愛憎は表裏一体というのは正にこのことを言うのだと思う。
もはやここが、このろくろのサビであると断言できるほど、この感情が胸中を占めてしまった。
一人で芝居をする。
それがどれほど過酷で、どれほど幸福なことなのか。
きっとどんな人間であろうと、その稀有さは薄らとでも理解できると思う。
ましてや、一度でも「板の上に立つこと」にまつわるものをかじった人間ならば、その価値が痛いほどわかるはず。
「その空間全てのものが自分のために存在している」というのは、
自分のパフォーマンスを最大限発揮するための暗示、極端に言えば妄想で終わってしまうことがほとんどだから。
高クオリティなものが素晴らしいコンディションで在ること、その環境で濃密な芝居をできること。
生きる世界が違い過ぎることは重々承知しているが、
「芸術やエンタメはいらないんじゃないか」と言われていた当時の情勢の中、板の上に立つことを許され、望まれていたその存在を見た時、
のたうち回るほどに悔しくて苦しくて、感動とは異なる涙が止まらなくなるほどに、羨ましかった。
私はどちらかと言えば、その言葉によって居場所や心の拠り所というものを奪われ、失った人間だったから。
他者への嫉妬や羨望を、人生と縁遠いものだと思っていたと書いたが、
きっとこの作品を見るまでに何度も押し殺していただけで、その感情はいつも側にあったのだと思う。
知らず知らずのうちに押し殺していた感情を唐突に引き摺り出され、狼狽しながらも
オタクの自我というのは逞しいものです。
三百年の子守唄や乱舞祭、歌合、私たちの知らない場所、これまでの出陣で彼が感じていたもの、考えてきたこと。
彼が にっかりとした笑顔の下で密かに巡らせてきた言葉や表情が、彼の講談を通して語られる様に
「この刀はなんて真面目で賢く優しいのだろう」と思うのと同時に、
「歌い語る青江さん美し過ぎる………」と天を仰いでいました。
なんせビジュアルがカンストしてらっしゃるものだから……どこをどう切り取ろうと美しい……
因みにこれは私がいっとう好きな記事です。
どの写真も美しい。大好きだ。
そんな滅茶苦茶になっているオタクを横目に物語は進む。
彼の時代に想いを馳せ、「あれは風が吹く時代だった」と語る彼を見て、
対比して今は風の吹かない時代なのだろうかと寄る辺ない気持ちになったり。
相手の首に刃をあてながら粛々と「己の生を全うしろ」と諭し守る彼らが、
人の子の成長を目の前にして「人の心とはなんたるか」を認識していった様を語られることに対して、筆舌に尽くし難い苦しさを覚えたり。
言葉で作った装甲を破られ、剥き出しとなった柔らかい部分へ容赦なく触れてくるそれらの威力は、鑑賞中の記憶があやふやになるほど。
旅に出るまでに本丸の仲間たちと交わす時、もうそこに相手がいたよね…
青江さんが誰に向けて言葉を紡いでいたのか、明確にわかる。
少し話が逸れますが、私は「東京心覚」で情緒を滅茶苦茶にされたことがありまして、
青江単騎履修後に改めて見直したら、そこに通ずる要素が明らかになって情緒がグラッとしました。
彼らと言葉を交わすその声音には、少し哀愁というかが確かにあって、
なんとなく「旅に出ることで本丸が手薄になってしまうんじゃないか」という不安が青江さんの中にあったのでは、と考えたのですが、
全然違いましたね。
彼はこの旅の終わりに、自分は折れているかもしれない。
無事帰って来れる約束ができないと語る。
あの少し悲しげな声には、この本丸に戻ってくることができないかもしれない申し訳なさが滲んでいたのかと、合点が行きました。
できない約束を押し通してでも向かう場所。
そこへ旅立つ前に、その姿を見納めるが良いとでも言いたげな剣舞。
いや圧倒的強者感すッッッッッッご……
なんだありゃ……
ひと段落ついたと思い拍手を送ろうとした我々を制するよう 指を口元へやるの、本当……本当すッッッッッッごい……
激しさを増し、しかし しなやかに舞い踊る姿は圧倒的で、息をするのも忘れてしまった。
静かだけれど苛烈な覚悟と想いが込められた舞は、鬼気迫る勢いで、思わず画面の前で喝采してしまった。
観客の温かい拍手に送られ、再びその姿が板の上に戻る頃。
唐突に始まるにっかり幼稚園の青江先生による手遊びタイム。
直前に見せつけられた苛烈さとの温度差で、感覚がバグったというか、人を愛し人に寄り添う彼らしさに癒されるというか。
兎にも角にも、あの「旅人のうた」。
本当にこの世の何もかもを許せてしまうようなヒーリング効果がある気がする。
あとはどうしようもなく旅に出たくなる。
あのうたがあれば、私はどこまでも行ってしまいそうだと、謎の全能感を感じていました。
(思えばこれが「旅に出たい」と考えるようになったきっかけだったな……少しだけ人生を変えられてしまった気もする……)
ここまで手綱を放棄していた情緒も少し落ち着き、まともな思考が働き始めたので、少しだけろくろを回そうと思います。
「ニッカリ青江の『女幽霊を斬った』逸話」と「にっかり青江の『女と幼子の幽霊を斬った』逸話」
その二つの物語を持って生まれた付喪神。
それが刀剣乱舞におけるにっかり青江であり、彼を彼たらしめるものであり、彼を縛るものであると思う。
(少なくとも、あの本丸の青江さんを形作るものはそれだと解釈してる)
彼のアイデンティティを認識したと同時に、悩み苦しむその姿に「それは君が背負う業ではない」と口をついて叫んでしまいそうになった。
「これは『自分自身』の業ではない」というのは、彼も認識しているとは思うんです。
逸話は「にっかり青江」と「ニッカリ青江」を形作る要素であって、
厳密に言えば、本霊(敢えて言葉にするなら)から力を分け与えられ顕現した彼自身が女と子供の幽霊を斬ったということではない。
でも彼は聡く優しいから、地に人に愛され、彼自身も地と人を愛しているから。
だからこそ心から笑えるようになりたいと願い、逸話と向き合うことを選んだのだろうなと思うと、どうしようもなく泣けてくる。
後悔していたもの、恐れていたもの。
これまで隠してきた全て吐露して、丁寧に拾い集めることで、「ニッカリ青江」としてでなく、「にっかり青江」として、より強固な存在となる。
そうして得たのが、あの極の姿だと考えると、その時点で拍手を送りたくなってしまうな……
それはきっと観客たちも同じで、無事に帰ってきてくれたこと、自身の求める心と強さを手に入れたこと。
彼の巡った旅路の全てへの祝福は、歓声で送ることは叶わずとも、確かに観客たちの拍手に込められていた。
どれだけ泣けば気が済むんだ本当……
本当に本当に、ここまで心を揺さぶられるなんて思いもしなかった。
剥き出しとなった人の心に触れるような体験ができるだなんて思いもしなかった。
こんなにも苦しくて愛しくて、どうしようもない感情に呑み込まれて、涙が止まらなくなってしまうんだな。
長く苦しい旅路の果てで、祝祭の歌を贈られて救われた気になってしまうのも無理ない。
己の中にある清濁、今を投げ捨ててでも逃れたいと思う程の苦しみ、過ぎ去ってしまった時すらをも
「後悔したまま前に進むこともできる、それは許されることだ」と肯定して包み込んでくれるのは、救いだと思う。
どうすることもできず、ただただ救われたかったあの頃の自分が、安堵で泣き喚くような姿が脳裏を過ぎってしまうほどに。
しかし救いであると同時に、冒頭に綴ったような、
胸中に渦巻いてしまった見たくない側面を眼前に晒され まじまじと見せられることは、耐え難い苦しみでもある。
救いと苦しみを交互に与えられ、自分の頭で考えて言葉を紡ぎ、これまでを振り返り、これからを見つめる。
これはもう、こちらも修行してるようなものじゃん…?!
何この演劇すごい…観るだけで人間的成長を促されてしまう……
そんなこんなで(?)次はこの青江単騎という作品を語る上で、斬っても切り離せないものについて、綴ろうと思います。
それは、荒木さんとにっかり青江について。
私がこういったやり場のない解釈・感情を外に放ることができているのは、「この世にこの作品を知っている人間が自分の他にもいる」という前提あってこそのもの。
もはやそれは当たり前過ぎて、今更触れる事に疑問を持つ方が自然だと思う。
だからこそ、どこへも出せず ひたすらこの芝居と向き合うしかない稽古期間を過ごし、極限まで研ぎ澄まされたものを作り上げた新木さん(荒木さん)御本人の精神や思考、演技の力というものを考えた時、
失礼ながら「怖い」と感じてしまった。
メイキングで近しい言葉が出ていましたが、
ゆっくりと、しかし確実にその身を「にっかり青江」に明け渡していく。
あの衣装を纏わずとも「にっかり青江だ」と認識してしまうような姿になっていく過程は、
正に「死に向かっている」と感じざるを得ないものだったから。
きっとここで挙げられる「死」は、肉体的な終わりや役者人生の終わりといったものだけではなく、
御本人としての自我であったり、生活全てといった「その人を形作る要素」と「役」の境界線の融解も含まれているのだと思う。
溶けて混ざり合うことで、どちらがどちらであるとも言えない状態は、それこそ死に近いものだと思う。
(なんだか漆黒天を彷彿とさせる理論展開だな…)
その死を振り切って、先に進むことを選んだ彼らは、本当に役者として、刀として極めたのだろうなと、若干クサいことを考えてしまった。
だってそれ程までに凄まじかったんだもの……
女幽霊さんと向き合い、その心にある願い「誰かを笑顔にしたい」という青江さんの言葉を聞いた時、僅かに荒木さん本人が垣間見えた気がして、
直感的に「あぁ、ここは青江さんも荒木さんも共通して考えていることなのだろうな」と考えたのですが、
メイキングで、荒木さん御本人が「この作品が誰かにとっての救いになってくれれば嬉しい(意訳)」と語っていたのを見て、膝を打ちまくりました。
そういうことだったのか…そうだったのか…!!
誰かを笑顔にすることと、誰かの救いになりたいということ、それは似て非なる願い。
あのメイキングを見たことで、荒木さんと青江さん。
互いが融解し混ざることなく、確立した存在であることの証を見た気がして、謎の感動を覚えた。
(これはいつまでも分からないのだが、本当に感動したんだよな…いつかこの気持ちに言葉を与えることができれば良いのだが…)
各所で何度か呟いたことですが、私はあの物語を
「常に死と隣り合わせであり、首元に刃をあてられた状態で、それを押し込むか振り払うかの選択を迫られるものである」と受け取っている。
それは今も変わらない。
この作品における「ここで折れてしまえば楽になれる。けどそれじゃだめだ」と踏みとどまれるか否かを問われる場面。
これは目の前に聳えるものの高さ、犠牲にするものと手に取るものの重大さに限ることなく、人間にとって身近なものだと思う。
だからこそこんなにも刺さるし、人それぞれの解釈や受け取り方が異なる。
正解なんてどこにもないし、そこで己が見たもの感じたものが全て。
見るタイミングによって考えることは異なるし、いつか考えていたことも、いつか考えなくなるかもしれない。
物語が彼の内面という、日々移ろい揺れるものを語る芝居だからこそ、受け取る側も流動的に移ろい続ける。
だからこそ、彼に会えるその前に、自分の中にあるものをまとめたかった。
このnoteは「『にっかり青江単騎出陣』と私の話」というテーマのもと綴っている。
ここからは少しだけ、私の話をさせてほしい。
タイトル回収みたいなものです。
ここまでで晒してきたように、この作品は私の中のトラウマになってしまっている部分に、ダイレクトに刺さってしまう作品である。
必死で縋りついていた板の上から、どうしようもない理由で去らなければならなかったこと。
割り切ったつもりで日々を過ごして、心身共に壊してしまったこと。
それが今でも修復しきれずにいること。
どれも人に読ませる体で綴ったことは、一度もない。
文字にすることはあっても、隠居垢で思考整理のために呟く程度だった。
そんな醜い一面を、作品の感想と共に並べることは見苦しいにも程がある。
でも、私にはそれをする必要があった。
それをしないと、この作品への想いを綴れなかったから。
そうしないと、この作品の大きさを伝えられないと思ったから。
後悔と苦しみの循環の中にいる人間に対して、
「この時代、この地で会えたことはめでたいことだ」と、祝福の歌で救ってくれた彼の人間への愛が語れないと思ったから。
彼のように極の姿を得たり、劇的な変化があるわけではなかったけど、
彼が板の上で苦しんで藻搔いて、泣いて喚いて、ぼろぼろになった姿で願いを語る姿を通して、
「私もいつか、自分の後悔を、自分自身を赦せるようになりたい」と、心の隅で願ったことは確かだ。
彼のおかげで、私は自分の首に刃をあてて、押し込みかけていた日々から抜け出せて、
いまはその刃を遠ざけようと奮闘している。
いつか、その刃を地に置いて未来を見据えられるようになるその日まで、
この「にっかり青江単騎出陣」という作品は、最も強いお守りになると思う。
きっとその日が訪れようとも、私の身が尽きるまで、ずっとずっと支えになってくれると確信している。
人生を変えられたとまでは思わない。
だけど、日々念慮に苛まれる私にとって、唯一情けない姿を晒せる拠り所だと感じることはある。
限界を超えたさらに先まで全てを曝け出し、肯定し、強さと祝福を求める長い長い旅路。
それが、私の中における「にっかり青江単騎出陣」という作品の今の在り方だ。
私が今年 念願叶って彼に会えるのは10月5日。場所は福井。
時期としては、私がこの単騎出陣を初めて見た時期。
「いつか彼に会えるときがきたら、この愛と感謝の勢いのまま、会いに行けるだけ会いに行こう。」と決めてから、約1年が経つ頃。
菊の約束と言うには遅いけれど、
私が勝手に取り付けた約束を果たすため、青江さんの笑顔を見るため、各地を東奔西走します。
彼に会い、彼の言葉を聞き、何を思うのか。
そしてここまで綴ったものがどう変化するのか、今から楽しみでならない。
刺々しく、痛ましいろくろとなってしまったけれど、これもまた記録ということで、そろそろ窯に入れようと思います。
ここまで読んでくださってありがとうございました。
以上!!解散!!