横内勝司写真展「時を超えて」〜始まり〜
こんにちは。来週から京都で始まる写真展に向けて展示作品の最終調整中。10年前に出会った頃の出来事がつい最近のことのように思えます。
初めて横内家でこの写真を見た日からずっと頭から離れなくて、連日、訪ねてはアルバムの写真と祐一郎さんに撮影時のエピソードを伺った。勘違いでも夢でもないことがわかると同時にいくつかの疑問も湧いた。
これほどの写真を残した人がまったく知られてなかったのは何故?
2014年のその日までボクはその名を聞いたことがなかったし、日本写真史の何処にも残ってない。ネットで検索してもヒットは0だった。
当時カメラはまだ広くは普及していなかったとは言え、それでも一部のマニアはおり、写真関係の会社が主催するコンテストでは、横内さんはもちろん入選の常連で、結構な額の賞金も稼いだようだ。1932年にイーストマンコダック社が日本でのフイルム普及のために開催した世界写真競技大会1位の賞金二百円は教員の給料の半年分に当たるという。また山岳写真は当時の新聞に何度も掲載されている。
それなのに…
祐一郎さんの言う
「それどころじゃなかったよ」
まったくそのことに尽きる。
終わりの見えない中国との泥沼戦争の中、この国は昭和8年には国連を脱退し孤立を深めていく。11年8月に勝司さんが亡くなった半年後に226事件が勃発すると軍国化は加速し13年には国家総動員法が施行され国民の自由は無くなった。
そして米英との戦争
戦中戦後の混乱と復興、そしてその後に始まる経済成長期。確かにそれどころじやない激動の昭和。彼が遺した写真群は一度も顧みられることなく長い眠りについたままだった。
生まれるのも亡くなるのも早過ぎた。
まさに日本史上最悪の歴史に埋もれた天才写真家と言える。
そして2005年に長い眠りから覚め、屋根裏から大量のガラス乾板発見という新聞記事で再び横内勝司さんにスポットが当たることになり、写真が誌面で紹介された。2014年にボクが出逢う9年も前の話です。
それなのに…
屋根裏から見つかったことを伝えるその記事は戦前の貴重な資料だと言うことは伝えていても、戦前にガラス乾板でスナップ写真という世界にも例のない傑出したその内容に触れたものではなかったし、戦前の松本に確かに存在した天才写真家を伝えるものでもなかった。
後になって、この記事を書いた記者の方ともお会いして話しを伺った。反響は大きく問い合わせも多くあったと言うが、撮影場所や写真に写ってる当時の店に関する一般読者からの問い合わせが大半で、写真関係者からのものではなかったという。
祐一郎さんに訊いても同様で「懐かしい写真、いい写真だねー」と言ってくれた人は大勢いたが、オヤジの写真をこんなに褒めてくれて何度も見に来たのはあんたが初めてだと笑う。
「オヤジの写真、そんなにスゲェかい?」
凄え!凄え!
すげ〜なんてもんじゃない‼️
それなのに…
写真雑誌等の取材依頼もなく乾板を見せて欲しいと訪ねてきた写真関係者もないという。
なんで⁉️
この時には、これは世界に向けて発信すべき写真だと確信してたボクは、そのことが一番の謎で不思議だった。
そこで、信頼を寄せる糸魚川のベテラン写真家 高野邦夫氏に電話でこの写真のことを話すと、電話からでも興奮が伝わってくるほどで、翌日2人で横内家を訪ねた。
「凄え!すげぇ〜!」と
少年のように目を輝かせる高野さん
「そーやんなー、やっぱりそーなるよなぁ〜」とちょっと安心したボク😮💨
写真展やりたいねー!
どうやってガラス乾板からプリントすればいいのかわからなかったが、祐一郎さんにお願いしてキャビネ版のガラス乾板を1枚借りて帰った。
ネットで探しても、もはや乾板からプリントしてくれるところは見つからず、仮にあったとしても、傷やカビなどスポッティング修正は無数にあり、1枚数万円はかかるだろうとのこと。
銀塩プリントは金額的に現実的ではなく乾板をデータ化するにもかなりの金額がかかることもわかった。
自分でやるしかないと、昔に習ったカメラで複写する方法を試した。
愛機SIGMA dp3Merrillで複写してデータ化してみると簡単にしかもガラス乾板の豊かな階調を見事に再現してくれた。
写真展の実現が見えた!
プリントを額に入れて祐一郎さんに見ていただくと、とても喜んでくれた。
その勢いで…
写真展やりましょう!
その時、祐一郎さんは既に役職を退き隠居生活で自由になる金はないとのことだったが…
もはやお金のことはどーでもよかった。
ぜーんぶボクがやります!
こうして写真展の実現に向けてガラス乾板のデータ化の作業が始まった。
ここまで読んでいただきありがとうございます。続きは次回に、写真展に向けて横内さんに関する投稿を続けます。
また読んでください。