神激6周年~生まれ変わっても…
2023.9.30、神激6周年。
おめでとうございます。
6年という時間を小学校6年間に例えていたけれど、それはとてもわかりやすい例で、6年という月日が決して短くないことを証明してくれるものだろう。少なくとも、何かが変わるには充分で、失うにも充分だ。この6年間というのは、元号が変わり、コロナ禍を挟んだ。私の職場でも世界が変わるほどの出来事だった。
そんな期間は、神激にとっても決して楽な期間ではなかったろう。それでも、今日のように人々が集まり、愛を表現し合えるのだから、それを長く見守り携わってきた人たちにとっては、そんなに嬉しいことはないに違いない。
さて、そんな歴史の中で、私はたった半年この仲間にほんの少し入れてもらったにすぎない。時間なんて関係ないのだとメンバーはよく言ってくれるが、それでも時間の量・積み重ねは大切である。それによって、応援する気持ちの何かが否定されることはないのはわかるが、積み重ねられてきたものへのリスペクトは大切である。少なくとも、同列ではないのだ。
そう考えてきたときに、では何が自分の価値であるのかを考える。混ざらず、群れることのできない自分が「最も」与えられるとしたら何だろうと考えた。それは「言葉」だ。自己満足にしかならないものであると昔から自分では戒めのために思っているが、ありがたいことに、褒めてもらえることも多くあった。だから「心」として「言葉」を届けたいと思った。そういう応援の形がいいと思った。逃げかとも思ったが、受け入れてもらえた。そしてまた今日、「こんなに考えてる人見たことない」と言ってもらえた。それは決して称賛や感謝ではなく感想だろうけれども、私には何よりも嬉しい肯定の言葉に聞こえた。
さて、本題である。今日の2部。推しが泣いた。見逃していないが、表情として表に出たのは「黎明ジャンヌダルク」の時だ。現場ではどうなのかイマイチわからないが、私にはとにかく特別な曲である。神激を知ってすぐ発表された曲であり、いもこの想いとともに、私にとっても亡くなった母を思い出す大切な曲となっている。幕張のMCは泣いた。
神激の真髄はMCにあると私は思う。心のこもった言葉や歌は、必ず心に響く何かがある。それはいまだに説明はできないが、「うまさ」とは違うところに、「伝わる」ものが確実に存在しているのである。特典会のときに聞いたが、フロアの「声」でそのようになったそうだ。とするなれば、そのフロアの「声」も、神者のみなさんの、心に響く思いがこもったものだったということだ。
その後の「生まれ変わっても自分になりたい」の曲中MCは、たいそう響くもので、フロアの空気も少し変わったように感じた。この曲は本当に大好きな曲だ。歌詞記事でも少し触れたが、「生まれ変わっても自分になりたい」というのは本当に強い自己肯定である。ただ、この曲の「自分」は決して強いわけではなく、ボロボロになりながらも前に進む姿である。それでも「自分」でいたい。
生まれ変わるということは、一般的にすべての可能性を持っている。自分が「変えたい何か」を変えることが自由にできる。「生まれ変わる」というのはそういう条件だ。しかし、「変えたい何か」は「自分」で変えたい。それが「生まれ変わっても」「なりたい」「自分」なのである。そうした、「変えようとする」姿こそが神激であり、生牡蠣いもこという人の姿でもあるのだろう。
出来事としてイヤなこと、結果として好きになれないものに出会うことは多々ある。そうしたものを見ると、自分が否定されるように感じるかもしれない。しかし、本当に避けなければならないのは、その出来事や結果を「自分」として受け止めてしまうことである。良くない結果を巻き起こした自分を責めてしまうことはありがちだが、それによって自分を嫌いになることはしてはいけないのである。それを変えられる自分を目指す。そう簡単には結果はついてこないが、その目指す自分を好きになってほしい。それが「生まれ変わっても自分になりたい」という言葉のメッセージであると思う。
果たして、神激が目指すものは、たどり着くところはどこになっていくのか。7年目。歴史に参加できる7年目。進んでいく、進もうとしていく彼女たちを眺めながら、いや、微力ながら少しでも一緒に進めたらと思う。
神使轟く、激情の如く。が、黎明を切り裂くジャンヌダルクとして輝くその日まで。
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