神激の歌詞、ここがいい!#19「さよならネガティブ」
ソロバージョンも作られた、人気の曲。
私もとても好きなのですが、実は難しくて歌詞を考えるのは少し逃げていた節があります。
しかし、改めてソロバージョンと共に向き合ったとき、やはり好きだなあと。感想も伝えていなかったし、少し文章欲がわいてきたので、チャレンジしてみようと思います。
『誰も分かってくれないことも あなただけ分かってくれる』
いきなり止めるが、これがさっそくテーマ的には考えてみたくなる部分である。
よくある話、よく聞く話だ。この人だけが私を「分かってくれる」。昔から思うことだが、このように「誰も分かってくれないこと」を「分かってくれる」人というのは、たぶん「分かったフリ」をするのが上手いだけな気がする。もちろん、理解できる考えの幅は広いのであろうし、優しくもあるだろう。しかし、その「誰も分かってくれないこと」は果たして「分かって」いいことだろうかという場合もある。そうじゃないよ、と言ってくれる人も、同じだけ大切にしないといけないのだと、少しずつ年齢と共に実感している。
ただ、やはり「分かってくれないこと」は自分の軸であったり願望であったりすることがほとんどだ。だからこそ「分かってくれる」瞬間はとても満たされる。それと同時に忘れてはいけないのは「分かってくれる」「あなた」にとってもそれが一種の快感であるということ。つまり、「分かってもらえて嬉しい人」を作り出すのが好きな人がいるということだ。限られた人にしか伝わらない範囲で分かりあっているということは、良くない意味での依存であり、理解する側にとっては、相手の心をうまくつかむ最善の方法であるということも忘れてはならない。
そういう「危うさ」から始まる「さよならネガティブ」である。
『誰かのため呼吸してる 私実は恋病』
「私」がどちらに付くのか少し変わってくると思うのだけれど、いまいち判断がつかないので楽曲通りに後ろにつけて考えてみよう。
「誰かのため」というのは捉え方の難しい言葉で、基本的にはもちろんよいことである。しかしそれを「呼吸してる」につなげることで、ん?となる。「呼吸」は自分のぶんしかできない。「呼吸」とは「生きる」ことであり、自分ではない「誰かのため」に生きているということになる。しかしそれを「呼吸」のまま表現することによって「重さ」が出る。俗な言い方をすれば、この「さよならネガティブ」のテーマは「メンヘラ彼女」である。その「重さ」がひとつの魅力であり、「怖さ」である。それをうまく表現しきった「呼吸」。見事である。
そして「私」は「恋病」だそうだ。恋の病というのは、恋の結果訪れる現象を指す。ただ、個人的にはもうひとつあると思っている。それは「恋に恋している」いわゆる「恋愛体質」である。誰かのために生きることを「恋」だと表現する人間は、本質的には「恋」というものが好きである。そうすることでしか自分の価値を実感できないという依存。ネガティブな自分を変えてくれる「恋病」。「実は」と言いつつ、自分で自覚する前から、周りにはバレバレであることも多いのではなかろうか。この場合。
『可憐に酔って奪われたの 2度はない幼さを 厨二な恋もあなたで最後 だからもっとイタくして』
無理やりエロに運ばない。(できるか…?笑)
夜的な内容を直接的に表現しないというのは、昔から使われていた手法である。平安時代の文学なんてそんなものばかりだ。「可憐に」酔っている女子はたぶん酔っていない。特に騙されて痛い目を見たとかはないけれど、本当に酔った女子にはきっと「可憐さ」は残っていないはず…偏見?
捧げられるものは捧げたいというのは「恋病」にかかっている者には欠かせない感情である。ひとりで持っていると荷物でしかないものも、相手が価値を持たせてくれる度に、ネガティブなものではなくなっていく。しかし、自分がネガティブを差し出している限り、いつか底を尽く。人はポジティブを産み出し続けていても自分自身は崩れないが、ネガティブを産み出し続けると壊れてゆく。しかも、それが相手に差し出すネガティブであると、「幼さ」を喜ばれなくなってきた自分を取り返すために、さらなる大きなネガティブを産み出そうとする。どちらかが潰れるまで、その「イタくして」が続くのである。
『夜に染められ照れを壊され機能を無くした理性 自ら付けた首輪 こんな幸せな素晴らしき鬱が世の中存在するなんて 溺れ沈んでく』
夜は心地よい。昼には見えないものが、姿を隠しているものが夜には姿を表す。昼には明るすぎてできないことが、夜の暗がりの中ではできてしまう。「理性」が「機能を無くし」てしまうのである。その夜が一時的なものであればよいのだが、それを枷として「自ら」「首輪」とする。これを「素晴らしき鬱」と表現するセンスに脱帽である。
自由がないというのは、基本的には嫌なことであり、辛いことである。その一方で、自由というのは時に冷たいものであり、辛いことである。与えられた時間に対して、自分がとれる選択肢がじゅうぶんにないことは、かえって空しさを覚えるものであり、いっそのこと「首輪」でも付けられて連れ回されたほうが幸せなのではと思うこともある。それぐらい、選ぶことも選べないことも時には苦痛なのである。だからこそ、何かに依存し、「溺れ沈んでく」ことは心地の良いものでもあるのだろう。
ところで、私は時折出てくる「機能を無くした理性」「自ら付けた首輪」のような、体言止めがとても好きである。日本語の名詞は、とても幅がある。状況や捉え方によって、まったく逆の意味として使うこともできる。「素晴らしき鬱」もそうである。その言葉はどういう意味で使っているのか、と問いたくなることは多々ある。だから、しっかりと名詞に意味を持たせる、定義付けるこの表現は、作詞している人の世界の捉え方が見えてくる。
ここまでで少し感じ始めたことだが、この「さよならネガティブ」は「ネガティブ」を単純に切り離そうとする歌なのだろうか。そんな疑問を感じるほどに、少なくとも「ポジティブになろう」ではないよなあと思わずにはいられないのである。
『さよなら清純 魔法少女になれる権利を捨てて あなた選んだのだから後悔させないでね』
この「魔法少女」は男子で言うところの「魔法使い」になれるやつだろうか。私は何かを犠牲にしてあなたを選んだのよ、というのは、実は既に論理として破綻しているように思う。何かを「犠牲」にして「選んだ」というのは、すでにその「選んだもの」を犠牲と考えているということである。何かを得たことで、何かを失ったと考えているのであれば、それはすでにプラスではない。「1万円も払ったんだから、このお肉はおいしいに決まってる」と考えるとき、すでに「お肉」を買ったことを後悔している。言い方を変えれば、この選択をした自分が間違っていないことを信じるために、「お肉」に期待しているだけである。「私はこれだけあなたにお金使ったのに!」「いくらお前に払ったと思ってるんだ!」も同じ。
だからすでに「あなた選んだ」ということが、自分自身に言い聞かせているだけである。しかし、本人は気づかない。気づいてしまえば、それは自分の選択が失敗だったことを認めてしまうからだ。もしうまくいかなければ、「後悔させ」る「あなた」が悪い。怖いですねぇ…
この「さよならネガティブ」の主人公は、極端なように見えて、わりとよく見かける人間の姿である。人間を語ろうというときには、少なからず極論である必要がある。それはちょっと言いすぎじゃない?そこまでは言ってないけど…と指摘されることにこそ、真実がある。
多くの言葉を使えない、この、歌詞という表現方法の中で、ありありと人間像を描き出していることには、ただただ脱帽である。
それと合わせて、いもこソロバージョンを聴いて実感したのは、歌い方の特徴である。とにかく言葉の一音めが強い。これがとにかく好きだ。言葉を伝えるときにこれはとても大切なことで、言葉を大事にしていることがよくわかる。自分のパートではないところもよく口ずさんでいるいもこをよく見かけるが、その姿が実はとても好きである。歌は言葉をちゃんと聴きたい私が、いもこパートを好きなのはなぜだろうと漠然と考えていたけれど、きっとこれが理由なのだと自覚したきっかけにもなった、「さよならネガティブ」ソロバージョンである。
続きます。
『満身創痍 熱中 指先からつま先まで襲うノスタルジー あなたのワガママを聞いていいのも私だけ、ねぇそうだよね?』
「ノスタルジー」は「過去の経験や思い出に対する懐かしさ」を表す感情表現である。「満身創痍」は「心身ともに痛みつけられ傷ついている」状態だ。ここで、これまでが回想であったことがわかる。人間の体感の仕方として、どこまでを過去と考えるかは難しいところだが、少なくとも、何かを懐かしむということは今はそれを持っていないと考えるのが自然であろう。だからこその「ノスタルジー」である。そして「満身創痍」→「熱中」→「ノスタルジー」であるところから考えると、すでに大いに傷つきながらも思いを失うことなく、過去にとらわれて離れられない、そんな状態だと言えるだろう。
「あなたのワガママを」「聞いていい」も強烈だ。「ワガママ」というのは聞いてくれる相手がいて、それが届くからこそ成り立つ行動である。言い方を変えれば、それは形はどうあれ「求められている」ということだ。とすると、「あなた」が「ワガママ」を言うことは、すなわち誰かを求め、それに応える相手がいるということである。「その権利を持っているのは私だけじゃないの?」「私だけがあなたに求められるんじゃないの?」と尋ねる「私だけ、ねぇそうだよね?」である。
『セリフ部分(省略)』
セリフ、いもこソロバージョン、ぜひ語りたいのだが、いちおう限定CD収録ということで、歌詞を載せるのはあれかなあと思うのでやめておく。とりあえず、大好きである。目覚ましアラームにセットして、毎朝セリフ部分まで聴いてから起きるぐらいには。
『伝わらない私の魅力 承認欲求炸裂する 辛いの』
承認欲求は怖い。日々自覚しようと努め続けないとあっという間に「炸裂」してしまう。
「炸裂」は砲弾や爆弾がぶつかることによる爆発をあらわす。承認欲求は相手(見える見えないに関わらず)に向けて放つ。つまり、この承認欲求は受け入れられ満たされるものではなく、ついぶつけてしまい、消化できずに終わってしまうものだということだ。
「辛いの」はどちらとも切り離せないのだろうと思う。「私の魅力」が「伝わらない」のも「辛い」し、「承認欲求炸裂する」のもまた「辛い」のだろう。
『私といないあなたなんて ネオンレスな歌舞伎町 あるのはその強かさだけ 綺麗にしてあげるわ()』
もともと大好きないもこパート。
とても綺麗な隠喩である。「歌舞伎町」を成り立たせるのは夜のネオンであり、「ネオンレス」になればそれは「歌舞伎町」ではない。それと同じように、「私」という「ネオン」のない「あなた」は成り立たない、輝けないということである。ひとつ付け加えておきたいのは、この隠喩が「歌舞伎町」であることによって、「私」と「あなた」の関係性は決して単純に輝き・輝かせられるものではなく、どこか歪んだ鈍い関係性であることが見えてくるということだ。「歌舞伎町」のネオンは、闇の中にある闇を照らす光であって、希望の光ではないはずである。
さて、後半がとにかく見えて来ずたいそう悩んだ。「黎明ジャンヌダルク」の「我がで使命にかせて死命へ」ぐらい悩んだ。(伝わらない説明)1週間書くのやめるぐらい悩んだ。
まず、「あるのは~だけ」なので「ネオンレス」に対して出てくると考えてみる。そうすると、「私といないあなた」にあるのは「強かさ」だということだ。主体をはっきりさせると、「あなた」にあるのは「強かさ」で、「私」が「(あなたを)綺麗にしてあげる」ということになる。
そして「()」だ。これはネット用語のひとつで、嘲笑や苦笑をあらわすそうだ。今回の場合、自嘲としての「()」と見たい。この「さよならネガティブ」のヒロインは決して清廉ではあり得ず、「私といないあなた」を「綺麗にする」というのは一種の破滅的な衝動でなかろうかと。その衝動と「綺麗にする」という表現のギャップに対して自戒と自嘲の「()」ではないかと見る。
なお、補足として戻ると、「強かさ」は漢字を当てると印象が少し変わる。「したたか」とは確かに字の如く強さを表すが、その強さの中には「ずるさ」を感じる人が多いだろう。しかし、「ずるさ」もまた「強さ」になり得ることを「強かさ」の言葉は教えてくれる。「私といないあなた」は、やはり「したたか」であったのだろう。
『嫌よ嫌よも好きのうちじゃ 好きよ好きよはどうなの? あなたとの経験知識 過去の恋とかリハーサル』
シンプルに「確かに」と言いたくなる表現である。表に出てくるのは「嫌よ嫌よ」ぐらいがきっとちょうどよくて、そうやって自分にも相手にも聞かせられるぐらいの温度感がちょうどよいのだろうと思う。「好きよ好きよ」と言わなければいけない心情というのは、一過性の流行り病のようなもので、相手も感染することはあるだろうけれども、いつかは過ぎ去ってしまう感情なのだろう。そういう激しさ、キラキラした恋をどう受け止め、好むか好まざるかによって、世界の見え方は変わってくる。まさに「過去の恋」が「リハーサル」に見えるほどに。でも、やはりそれは一種の劇薬であり、頼れば抜け出せなくなってしまうのだろう。その抜け出せぬ状態こそがおそらくこの歌で言うところの「ネガティブ」なのではないかと思う。
『吸い寄せられ翻弄され 後天的遺伝異常引き起こってるみたい』
「後天的遺伝異常」はなんだか中二心をくすぐる言葉だ。いちおう調べてみると少々興味深かった。
細胞の変異そのものはどの細胞でも常に起こっているけれども、細胞には通常、変異を認識する機能が備わっており、次の細胞に受け継がれる前に修復されるようになっている。しかし、細胞のDNA損傷の修復メカニズムが破綻していたり、弱っていたりすることによって、その変異が蓄積されてしまうことがあるそうだ。
つまり、「後天的遺伝異常」は正常の機能を超えた「異常」であり、機能以上の負荷をかけることによって引き起こされるものだということだ。こう考えてくると、思い浮かぶのが「オキシバギー」で言うところの「バグ」であり「エラー」である。とすると、その負荷は正しきものではなくても、望ましいものであるといもこ自身は捉えているということがわかる。だからこそ、先ほどの「過去の恋」が「リハーサル」となり、一見危うく思える「好きよ好きよ」状態が「本番」であることになる。同じように、この「後天的遺伝異常」も肯定的なものとして考えることが必要であることがわかってくる。
ついに見えてきました、「さよならネガティブ」。
『服装ネイル髪型気になる 映画この身に投影された嗜好はあなただもん』
相手の姿は、自分の写し鏡である。自分の姿は、相手の写し鏡である。好きな相手の好きなものは知りたくなる。好きな相手の好きな自分になりたくなる。極めて自然な感情であるが、その感情を描くときに使った言葉が「嗜好はあなた」は本当に手放しですごいと思う。生々しさと、「投影された」自分こそが「あなた」であるという、ある意味錯綜した表現。しかしながら、これは大いに真実である。盲目的に人を好くときに最後に行き着くのは、自分が相手になりたい、という感情だと私は思う。相手の好む自分になれればなれるほど、相手を理解できているということであり、「嗜好」のような本質的な部分に辿り着くことができれば、それはもう、私はあなたが本質的に持っている願望(内面)の具現化だと言っていいよね?ということなのではなかろうかと。よくわかる。(わかってもらえなさそう笑)
『さよなら清純 魔法少女になれる権利を捨てて あなた選んだのだから後悔はもうしない』
「あなた選んだのだから後悔させないでね」から、「あなた選んだのだから後悔はもうしない」となる。そうか、「あなた」は「神激」なのか。と気づく。(え、遅い?)
男女の姿を描きつつ、紡ぐ歌詞すべてに通底する「神激・生牡蠣いもこ」としての姿勢。「与えられるものを求める自分」から「選んだものを信じつかみとる自分」へ。
『さよならネガティブ 簡単安易な自己防衛には騙せない 私の感情 ベクトルはもう動かない』
つまり、だ。「さよならネガティブ」は「ネガティブとさよならしてポジティブになろう」ということではなく、「ネガティブ(とされている)なものをネガティブにそのまま捉えるのはやめよう」という意味の「さよなら」なのだと、そう考えた。「それってやめたほうがいいんじゃないの?」という「簡単安易な自己防衛」に動かされない、自分の感情の動き・方向(=「ベクトル」)を貫いていく。神激を選んだ自分を貫いていく。そうか、そういうことなのだろう。(違ったらイタいな…まあ今さらか)
そしてライブではみんなで拍手をするソロパート。え?みなさんわかっているということ?私今さら?え?笑
『満身創痍 熱中 指先からつま先まで襲うノスタルジー あなたのワガママを聞いていいのも私だけ、ねぇそうだよね?』
繰り返し部分。今度はだいぶ違って見える。「私」から「あなた」へのメッセージだと思っていたものが、今度は「単推し」心理に見えてくる。どちらを神激側ととっても成立する。
私=メンバー、だとすれば「何かを求めるのは私にだけじゃないの?」という「ワガママ」にも見えるし、あなた=メンバーだとすれば「自分が特別でいたい」というひとつのファン心理にも見える。
お互いに全力で向き合う結果の「満身創痍」こそが神激のフロアの1つの醍醐味であり、魅力の1つである。こんな仕掛けがあったとは、まさに脱帽である。
『全部やりなおしたいよ 全部戻ることはない でもこの先の未来は手の中にあるまだ』
あの時に戻りたい。そうして失ったものに手を伸ばすことはある。それが届くこともある。けれども、やはりそれはあの時の「それ」ではない。過去は取り戻すことはできない。過去は現在にはならないし、ましてや未来になることもない。だからこそ美しく見える。
「でも」その美しく見える嫌いな過去を、嫌いだと思うこと、過去にすがらないことこそが、「未来」を「手の中に」収めておく方法である。しかしそれは「まだ」あるのであって、永遠には続かない。いつかは「手の中」からこぼれ落ちてしまう。手のひらで掬った水がいつかはこぼれ落ちてしまうように。そうならないためには、こぼれ落ちる前にその水を飲むしかない。いま得ようとしなければ、その水は2度と飲めないのである。ならば、飲んでみせよう。
「ネガティブ」なものを「ネガティブ」なまま終わらせないように。
「さよならネガティブ」
(終わりに)
書き始めてから25日も経ってしまいました。
難しかった。忙しいのもあったけれど、それ以上に読み解くことの難しさがあり、なかなか進まなかった。それでも、この「さよならネガティブ」と向き合いながら過ごしていくうちに、自分自身が前向きになれることを感じておりました。もともと楽観的で、ネガティブではないのだけれど、周りから見た自分には慎重になってしまう。だからこそ、周りから見たらよくないかな、という思考に陥りがちでしたが、そういうネガティブは「さよなら」してよいのだと、何かが少し変わった気がします。
言葉は、時が経っても生き続け、人の心に影響を与えます。自分もそうした存在を目指したいと思うと同時に、そうした言葉を世に出し続けてきた、「生牡蠣いもこ」という人をいっそうリスペクトせずにはやはりいられないなあと、またまた改めて思いました。