神激の歌詞、ここがいい!#17「生まれ変わっても自分になりたい」
#17 生まれ変わっても自分になりたい(フルレビュー)
https://youtube.com/watch?v=jndL3eAX18g&si=bKB0IYtXiTvotZyn
久しぶりに。10/29の2部、開幕『黎明ジャンヌダルク』、ラストことのさんMCからの『不器用HERO』→『生まれ変わっても自分になりたい』の流れが良すぎて、なんて俺得。
ということで。
吐き出す言葉今はただ
Message 君に届けと願う
Go ahead! さらに先を目指す
無謀とかNo way
最近聞き慣れているからあまり思わなかったけれど、冷静に考えると言葉を「吐き出す」というのは意外と見かけない表現のように思う。言葉は本来、誰かに伝えるためにある。しかし、それは伝える相手がいることが条件であって、向ける相手がわからないときは「吐き出す」のである。私の今の行為がまさにそれで、見えぬ相手に、届こうと届くまいと気持ちを言葉にしている。ただ、結局誰かには届けたいから言葉にするのだ。
そんな虚しさを励ましてくれる、無謀なんてことないよ(No way)から始まる。
マンネリしてる日常を
暗いニュースばかりの日々を
煩わしすぎるあれこれも 忘れたいからここにいるんだろ?
日常にはそれなりに満足しているが、やはりそれはある意味で妥協であり、精神的にバランスを取っているに過ぎない。日常というのは少なからず負荷のかかるものであって、義務とともに送らねばならないものだ。だからこそ、義務ではない、自ら選んで立てる場所、それが神激のフロアだとよくわかるようになった。
ツーステしたりミックス打ったりしない私でも、明日の活力になる。そういう空間を謳い、実際にそれを作り上げる。神激メンバーにはそういう力がある。
無関心が溢れたフロア
否定ばっかりのシーンさえも
ひっくり返し辿りついた
いや、まだここ通過点
チクタク 時は止まらず進む
チクタク 安定捨て去り
チクタク 驚きと進化選んで今
最近、Xや現場を見ていると、対バンなどのいわゆる「本命」ではないときに神激に惹かれて好きになってワンマンに来た、というものをよく見かける。
これは想像にすぎないが、初期はなかなかそうもいかなかったのだろう。色モノ扱いされたり、いわゆる「アイドルファン」には馴染まないグループとして見られたり。
そういったものを少しずつ「ひっくり返し」、今の立ち位置に「進化」してきたのだろう。
余談だが、ひとつ論争になるものとして、「バンドユニット」という肩書きがあろうかと思う。「アイドル」なのかそうでないのかは、いろんな立場の人のいろんな思いがあるのではなかろうかと思う。
ただ、正直おそらくそれを気にしているのは「外」の人であって、もはや神激は神激であると神者のみなさんは思っているのではなかろうかと思う。まさにジャンルを超えた進化。
ほらね点と点つなぎ合わせ
点を線変える中で
気づけた事がリリック生き様と化す また
様々なことにおいて、わかるのは「点」ばかりである。瞬間瞬間、ひとつひとつわかっていくだけで、その点はどこに繋がっていて、どういう順番で結んでいったらいいのか、すぐにはわからない。しかし、一生懸命に点を探す人は、そこから線を伸ばしていくことができる。その線は、いつか探した点を通る。そうやって点は少しずつ繋がっていき、強い形を作っていくのである。レーダーチャートのイメージが近いだろうか。そうやって点を結んだ線は、点がしっかりしているので、ぐらついたり切れたりしにくい。それが「生き様と化す」のであろう。カッコいいぞ。
自分の事が好きじゃなくて
愛だなんだって言ってくる人達さえも苦手で
何も変えれない何も変わらない
諦めが日々に張り付く
多くの人間が、自分を手放しでは好きではいられないものだろう。だから、自分を大切に、人とは仲良く、という世界がどうにも馴染めない、そんなの綺麗事じゃないかと思う。それを口にすれば、なんだか怒られて。そうした「諦め」が「日々に張り付く」と言う。
この「張り付く」というのはなかなか絶妙な表現で、よく使われる「まとわりつく」よりも弱いイメージがあるが、「張り付く」のほうが実はより身体の近くにあり、直接的に身動きがとれなくなるものとして描かれている。
少し話が戻るが、誰もが少なからず自分のことを好きでないことを前提として、私は人と話していることに気づいた。「あなたはこういうところが良いところだよ」と伝えると「そんなことない」と受け入れにくくなりがちだが、「あなたのこういうところ、私は好きだよ」と伝えると、自己評価とは別に、誰かが認めてくれることになる。そうすると、自分を好きになることを強要されずに、少し自分を認めやすくなるのではないかと思う。これからも意識してみよう。
誰より汗にまみれ頑張る事すらも
ダサい恥ずかしいからと目を背けて立ち止まる
本当にダサいのは挑む前に逃げを選ぶ事だろ
それに気づけた人生を誇りに思うよ
いま自分は「気づけた人生」を送っているだろうか。それなりに仕事もうまくできて、それなりに人からも好かれて生きていると思う。いろいろチャレンジもしている。けれど、何か自分ができることしかしていないような気もする。自分の人生の意味のようなものを常に考えさせてくれる。そんな存在としての神激をよく体現した歌詞だなぁと、いつ聴いても感じる部分である。
誰も理解できない(Hell yeah)
そう未開拓地(Hell yeah)
やりたくない勉強学校全部強制だったろ?
ならやりたい事やらずに死ねない
強制されることは世の中多い。多すぎて、やりたいことはほとんどやる隙がない。そうしているうちに、やりたいことはなんだか強制から逃げることばかりになっている気がして。
「未開拓地」に挑むことは怖い。しかしそれほど楽しいことはない。そういう余裕を、いまどれだけの人が持てているだろうか。日常を振り返るとそう思う。一方、神激のフロアに行くと、誰もが満たされた表情をしている。それは、実際にはなかなか進めない「未開拓地」「やりたい事」への可能性や希望を見せてくれるからであり、誰からも「強制」されない世界がそこにあるからであろう。それは決して逃げではなく、「強制」を「やりたい事」に変える方法をメンバーから受け取っているということなのではないかと思う。少なくとも、だから私は行けるときは彼女たちに会いに行きたいと思うし、そこから日々を生きる力を間違いなくもらっている。
振り返れば霞むスタート
随分遠くまで来たみたいだ
荒れ果てた地に着けた一歩が誰かの道に変わる
私は初期の神激を知らない。ただ、本当にいろんなことがあったのだろうと思う。不安になることもたくさんあっただろう。そこを乗り越えてきてくれたからこそ私は神激に出会えたし、微力ながら少しでも彼女たちを取り巻く何かをより良いものにしたい。作ってくれた「道」を歩いているにすぎないけれど、その「道」をより歩きたい「道」にして、「荒れ果てた地」がより魅力的な場所になるように。
こんな姿にマイクを選ぶ奴もいてさ
それすらも背負って証明 まだ終わってねえぞ
誰かの為になんて恩着せがましいけど
本気で価値観塗り変えてやるってそう思うの
「こんな姿」というのは意外と強い表現である。アイドル衣装的なものを指しているのだとは思うが、これは自己評価としての自虐などではなく、いわゆる「外野」の関係のない人間から見たときの評価としての表現だろう。「そんなカッコして男の前で歌って踊って何が楽しいの?」のような。
これは応援しているほうに対しても向けられるもので、女性が集まったグループを応援していると、少なからず批判的な目を向けられる。「アイドル好きな男とか無理だわ」のような。(これに関しては話し出すとキリがないのでやめよう笑)
「こんな姿にマイクを選ぶ」こと「すらも」「背負って証明」しようとするということは、きっとこの形はひとつの手段であり、成し遂げたい、果たしたいことを感じるための方法なのだろう。そんな姿がとてつもなく好きである。
生まれた時は最弱装備の不条理人生を
弱音吐きながらも強く生きようじゃないか
何ができる? 無力だよね? わかってる
雨足が頬濡らす 臆病なまま手を引くよほら もう独りにはさせない
世界が不条理であると聞いて腑に落ちたのは、高校生の時だった。カミュの『異邦人』と『シジフォスの神話』を読んだ時だ。カミュは『ペスト』がコロナ禍の到来で最近少し話題になっていた、フランスの詩人である。
不条理である、ということはマイナスに捉えるものではないと私は思う。不条理だということを前提にすれば、それは誰もが同じ条件であり、実は平等ではないかと思う。もちろん、生育環境や社会的な環境の違いはあるけれども、恵まれていることが幸せでもなければ、恵まれていないことが不幸なわけでもない。結局、自らに訪れない幸福はすべて妬ましく思えるのが人間なのである。それこそが不条理の正体であり、不条理は人間に必ずやってくるものなのである。であれば、その受け入れ方次第で不条理の意味も変わる。不条理から何を学ぶか、そして何を為すか、が人生を送るうえでの課題なのだ。
「無力」なのが「わかって」いながら、「臆病なまま」「手を引く」これこそが不条理との向き合い方であり、真の「強さ」を持った人の姿なのだと私は強く主張したい。
夜明けをただじっと待つより
自ら東を目指し歩いてく
自分が生きてることに意味がある
強がりに似た宣誓を
いもこの書く歌詞の「東」の使い方が好きだ。東京という街を指した「東」であったり、日の出の方向を指した「東」であったり。直接的に使わなくても、この「東」に向かう意識はいろんなところに見えて、前向きなもの、挑戦的なものの象徴として生きているのだろう。
そして、「宣誓」する。「自分が生きてることに意味がある」と。それは次の「いつか生まれ変わるとしても自分がいいよ」に続く。私はこれを「強がりに似た」何か、これは「願い」なのだと思っている。「願い」を口にすれば、それははっきりと存在を認識することになる。それは自分にとっても相手にとっても、逃れられない現実になるのである。
いつか生まれ変わるとしても自分がいいよ
君と共に夢を追い続けているこの道を
もっと試練 困難よこしてみろよ
その度に乗り越えて無理なんてないって魅せるから
「生まれ変わっても自分がいいよ」に関しては、1度詳しく書いた。この言葉の強さは、この歌の象徴と言える。こうやって言える人生であるかは、常にいろんな人に大切にしてほしい考え方だ。
「もっと試練困難よこしてみろよ」というのもカッコいい。私自身も、緊急事態とやったことないことは大好きなので、こういうスタンスでいたい。何かを「乗り越えて」いったときの達成感は、もはや快感である。それを味わうための「試練困難」であると考えると、直面したとき楽しいからね。
過去の悔しさも傷跡も薄れちゃうけど
見つめ直す度に自信や強さに変わってく
忘れないで確かに今感じている胸の熱さを
きっとこの先だって辛い事も 苦しい事もあるけれど 乗り越えられる勇気を歌うから
ここまでのすべてを総括するような部分。辛い記憶に向き合うことは避けがちである。しかし、うまくいかなかった時にこそ人は成長するし、楽しもうとするべきである。そうして向き合うことで「自信や強さ」が得られる。
そうは言っても、それは決して楽なことではない。その楽ではない道のりを「乗り越えられる勇気を歌うから」と励ましてくれる。この姿こそが神激であり、私たちにくれる「胸の熱さ」がこの言葉を証明している。あのフロアの笑顔と真剣さ、それが彼女たちの持っている力の証明と言えるだろう。
We are マイナスからの使者
We are 一人ぼっち達の群れ
We are コンプレックス武器
We are 臆病者のスタート
We are 共に見たい景色
We are 共に叶えに行く夢
We are その全てを乗せて
We are 進み続けるよ ボロボロの自分を誇れ
私たちは。その言葉と共にこの歌は終わる。
うまくいかないことから始まり。
人とのつながりも感じられない中でも。
劣等感を武器にして。
怖くても進み始める。
ひとりで見えないものを見るために。
一緒なら見えるものがあるかもしれない。
そんなものをすべて背負って。
傷つきながらも進む、そんな自分はすばらしいのである。
「いつか生まれ変わるとしても自分がいいよ」