神激の歌詞、ここがいい!#16「暁光センチメンタル」

#16 暁光センチメンタル
(フルレビュー)

https://youtu.be/7Ob23cOgg5I?si=951hkKvuPZKM24oR

少し調べましたが、卒業メンバーの発表と共に配信された楽曲だそうですね。新規の私にはそこの部分はわからないので、そうした部分は極力外しながら考えます。自分の目で見てないものはあまり語らないほうがいいと思うので。

『水溜りに写り込む池袋駅と灰空 心の声遮断する湿度と群衆達 』

神激に出会って、池袋駅の西口という場所を初めて歩いた。都会の雑然とした風景だけがあり、きれいに整えられた「都心」とは違い、その「きれいさ」に入れなかった「はみ出したもの」ばかりが集まったような街。
そんな中で『水溜まり』に写り込む『池袋駅と灰空』。都心の風景を見て、「情報量が多すぎて気持ち悪い」と表現していた人がいたが、それはとても的を射ている。人にしろ景色にしろ、すべてを抱えられるようなものではない。だから『心の声』を『遮断』せずにはいられないのだろう。

『なんでなんで?絶対そうじゃない 自分に言い聞かせやり過ごした 取り繕った今までが僕を臆病にするんだ 目が合う度に言いかける 本音を何度も飲み込んだ 今左胸に耳を当てないで全て流れ出てしまいそうだから』

自分を「取り繕う」ことにはいろんな種類があって、強く見せる、弱く見せる、言い訳をする…など自分を守るための手段であって、決して否定されるものではないと私は思う。けれど、「取り繕う」とは応急処置、いわば「つぎはぎ」である。それを積み重ねれば、弱くなる。つまり『僕を臆病にする』のである。
そうなってしまったことは、決して自分の理想ではなく『絶対そうじゃない』のだ。しかし、『そうじゃない』自分は『取り繕った今まで』に否定され、『言いかける本音を飲み込』まざるを得ない。
そんなときの心境の表現が、とても秀逸で好きだ。
『今左胸に耳を当てないで全て流れ出てしまいそうだから』
人生経験不足でパッと意味を取れなかったが、『(私の)左胸』だと気づいて、生牡蠣いもこという人の深さを見たような気持ちになった。
自分が暴かれること、見せたくない自分に気づかれること、その不安を心臓の鼓動の「音」ではなく『流れ出てしまいそう』と表現したことで、リアリティを1つ増しているよう感じる。
それと同時に、ふと書きながら感じたのは、いもこの書く歌詞にはいつも「人」が近くにいるということだ。『耳を当て』る人がいるという意味だけではなく、実際に人といれば、人に触れれば、自分の内面は簡単に漏れてしまう。そう、まさに『流れ出てしま』うように。
本当に丁寧に描かれた部分だと感嘆する。

『いつか終わりが来てしまうなら 始めなければ楽だなんてさ バッドエンドしか浮かんでこないのは 見た映画のせいかな?』

終わりは来る。それは当たり前だが、神激の曲は一貫して、どう生き抜くか(某アニメ映画会社とかぶらないように少し言い方を変えてみる)がテーマとしてあるように感じる。それは言い換えれば、どう終わりを迎えるか、とも同じ意味だと私は考えている。
それと同時に、『バッドエンド』とは実は人によって変わるものであると思う。あるストーリーを見るとき、人には「ハッピーエンド」を願う心が生まれる。ただ、登場人物たちに与えられた、用意された結末が、外から見た私たちの価値基準に照らした「ハッピーエンド」『バッドエンド』とは必ずしも一致しない。つまり、どんな「エンド」なのかは登場人物である当事者が決めるものだということだ。
ここの歌詞で描かれている『終わり』『始め』『バッドエンド』とは果たしてどんな物語なのだろうか。『いつか』『かな?』とあるように、まだまだはっきりとした形を持たない漠然とした思いを抱えながら、何かを始めることも終わらせることもできない。そんな姿が浮かんでくるようである。

『一人夢から目覚め君想う 胸の痛み 微炭酸ほどの刺激 繋いだ手と手は数センチの距離 心だけは遠くに』


ここは非常に難しい部分だが、素直に解釈すると、思いの通じなかった『君』を『夢』に見て、その中では『数センチ』の距離にいた『君』はそこにはおらず、その事実が『微炭酸ほどの刺激』となって『胸の痛み』を引き起こしている、という情景だろう。
少し拡大解釈的な余談になるが、夢の中でなくとも、物理的に近くにいるのに心を遠くに感じる瞬間というのはあるものだ。そうしたこともきっとこの2人にはあって、その感覚に経験があったからこそ、そんな夢を見た、そう考えてもまた1つ切なさを増すのではなかろうか。

『ホットコーヒー踊る湯気 苦い味ブラックコーヒー 優しくしたのは君の好きな人工甘味』

ここは『ホットコーヒー』は自分の隠喩だと考えたほうが自然だろうか。『苦い味』だった自分の人生、生活もしくは自分自身が、『君の好きな人工甘味』によって『優しく』彩られていたのだろう。
ところで、なぜ『人工甘味』なのだろうか。本来はコーヒーに入れるのは砂糖であるところだ。言葉の響きとして選んだのかもしれないが、それでは何だか味気ない。そこで1つ気づくのは、『人工甘味』はコーヒーに入れるものではなく、一緒に食べるお菓子や違う飲み物のことである可能性だ。であるならば、砂糖でない理由も納得がいく。
そもそも『人工甘味』とは何か調べてみたところ、気になるものが1つあった。『人工甘味』は種類にもよるが、砂糖の200~600倍の甘さを感じるものらしい。そこを知ってあえて『人工甘味』を選んだという説を採用すれば、また一段と深みが出てくる。
まず、『君』という存在の深みである。『人工甘味』が好き、というのはなかなか個性的な嗜好で、結果的にそれを使った食べ物が好きでそう表現しているのかはわからないが、なんにせよ、思い描く『君』の姿が圧倒的にリアリティを帯びてくる。
そして、自分が感じる『君』の存在の深みである。『人工甘味』そのものがあまりに「強い」ものであるということ。決して大きな害はないのが『人工甘味』だが、砂糖より遥かに強いその甘味は、『僕』には甘すぎたのではないかとも思うのだ。それを描くための『人工甘味』だったようにも感じられる。
なんにせよ、この『人工甘味』ひとつで多くの可能性が考えられる表現であり、やはりいもこの言葉選びはおもしろい。
(ところで長すぎないか、この記事…笑)

『僕らはきっと似てるから 些細な事もぶつかってしまう だけどだから些細な事にも 気付き合えるそう思える 見つめられればこれは診察? レントゲンのよう僕を見透かす 誰も気づかなかった僕の脆さを君は最初から見抜いてた』

出てくるフレーズが常に単純にはいかない。だからなかなか終わりが見えないが、楽しんでやっていこう。
人との付き合いにおいて、似てるほうがいいのか、似てないほうがいいのか、というのは永遠のテーマであると思う。今回のように、似ていることで得られるものは、自分を理解してもらいやすいということが挙げられる。『脆さ』を抱えているときは、やはり理解され、側にいてくれていると感じられることはとても大切なことだろう。

『ひどく静かな終電のホーム 知っている場所違って見える 変わったのは僕この街じゃない そんな事は知ってる』

風景というものは、人の心によって変わって見える。それは考えるまでもなく当然のことであり、『そんな事』なのである。しかし、冒頭の『池袋駅と灰空』のように、時に心に迫ってくる。
終電を待つ、という情景を聞くと、私の大好きな「僕は明日、昨日のきみとデートする」という映画のシーンを思い出す。大きな意味をもつ場面で、とても好きである。終電、というのはその日の終わりを告げる役割をすることが多い。その終電を待つとき、1日を思い出す。その日過ごした1日は、『終電のホーム』の景色を変える。時に、終電はすべての別れを告げる瞬間であることもある。そういえば、ずいぶん終電乗ってないな…

『喉に詰まって吐き出せない 膨らむ想い逃げ道を作る自我 偶然じゃなくて 選んだ必然 手繰り寄せた』

いつでも声を出す直前には喉を通る。自然と声が出ているときにはあまり意識しないけれど、なかなか言葉にならないとき、声に出すか迷うとき、その瞬間は間違いなく『詰まって吐き出せない』感覚に陥る。しかしそれは「苦しさ」と捉えるべきものではなくて、『膨らむ想い』を形にするチャンスなのだろう。
『逃げ道』を作ろうとしてしまうのは心の自然な働きではあるけれど、作った逃げ道に進むかは自らの選択である。そこで逃げ道に進んで出会うものもあるだろう。しかしそれは『偶然』であり、自らの意志ではないところで出会ったもの、いわば「幸運」であろう。その「幸運」には意志がない。それをどう受け止めるかはわからないが、少なくとも「神激」としての生き方においては、自らの意志によって得た『必然』こそが手繰り寄せた「幸福」なのだろう。
今、意図せず使い分けることになったが、「幸運」は単純にもたらされた結果である。しかしながら、それを実際に自分の人生が充実するように動かさなければ「幸福」にはならない。陳腐な例しか出てこないが、「宝くじで1億円当たった」これは「幸運」である。しかし、それによって自分自身をダメにすればそれは「幸福」にはならない。
つまりは、『選んだ必然』として自らが『手繰り寄せた』ということを大切にすべきだということを改めて感じたということだ。


『朝露浴びた 眠そうな街並み 流れる雲に 鼓動感じる 幼い頃から 否定主義 読む空気 期待しすぎ もう二度ととか その発想が 脳の中ずっと Noを出す ただ一つだけ 言える事 君の笑顔は僕の正解だ』


人が前に進めるときは、ほんの少しのきっかけでいい。逆に言うとそのほんの少しに気づける力が前に進むためには大切なのだと伝えてくれる部分である。
目の前の景色に『鼓動』を感じ、これまでの『否定主義』を覆す『正解』は『君の笑顔』から得る。
相手の笑顔で報われる。自分もそうありたいものだ。


何もかも信じなくてもいい 誰からも理解されず一人でいればいい 「リアリストなんだね」 冷え切った心も受け入れてくれた いつか終わりが来てしまうなら 始めなければ楽だなんてさ ありふれたラブソングには当てはまらない  億分の二ストーリー スクランブルな交差点では 誰より先に君を見つけだせるよ ベランダが赤く染まり部屋を出る その前に言わなくちゃ 灰雨雲も風が吹かなきゃ 太陽は顔 出さないだろ 自分一人じゃ変われなかった 幸せに慣れていこう


『暁光センチメンタル』は改めて聴くと、人間性がはっきりと見えてくるラブストーリーでありつつ、ある人の成長物語のようでもあった。

生牡蠣いもこという人の書く歌詞は、まっすぐでありながら、深みがあると改めて感じた。
世の中で流行るものは、まっすぐすぎて安直であったり、深いことを言おうとしすぎて心を感じなかったりするものが多くなってきていると感じる。少なくとも、歌詞に関して言えば、部分的に聞かれて消費されるのが、最近の音楽の消費のされ方であり、なかなか向き合われる機会も少なくなってきているだろう。
それでも1つ1つの言葉と向き合っているのが、今回の作業を通じて、今まで以上に改めて感じることができた。

もし、全部読んでくれた方がいたら、ありがとうございます。

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