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雑感記録(284)
【小説を断つ】
この手のタイトルには自分でもほとほと愛想が尽きそうなのだが、最近はめっきり小説を読まなくなったなと思う。
過去にあれやこれやとこの手のことについては書いてきた。別に今更それと同じことを再び書こうとは思わない。結局書いたところで、僕のスタンスは変わらないのである。だが、変わらないとは言うものの、その奥底的な部分は多少なりとも変化がある。それは純粋に小説に対する信頼みたいなものが消え失せてしまっている。どことなくそんな雰囲気がある。
というよりも、僕は日本近代文学を読んできて、今までもそういった文学を中心に据えながら、現代文学や海外文学などを好んで読んでいた。ここで言う「現代」というのはどこまでを指すのかは幾分、考えなければならないのだろう。具体的な作家の名前を挙げた方が早いのかもしれない。僕がよく読んでいるのは大江健三郎、古井由吉、後藤明生…金井美恵子…。後は時代が下れば、保坂和志…ぐらいだ。文学を学んで来た人間としては怠慢である。
では、その一方で近代小説と呼ばれるものは?
それは結構読んでいるとは思う。ウェイトとしてはやはり大正後期から戦前ぐらいまでが多いかもしれない。中野重治は今でも何度も読み返すし、葉山嘉樹は『セメント樽の中の手紙』と『淫売婦』だけ何故かやたら繰り返し読んでいる。横光利一もこの間久々に『機械』を読んで感動したものだが…。とこうして書いてみると読んでいるには読んでいるらしい。だが、こうして文章に書くとその遠近感が分からない。
正直に言うと、これらの話はおよそ1ヶ月半前の出来事である。
今現在は、冒頭にもある通り小説はめっきり読まなくなった。
別に小説が嫌いになった訳でもないし、読むこと自体が嫌になった訳でもない。ただ、何というか…。これは自分で言っていて、自分自身をある種どこかで否定していることになるのだが、「今この現在に於いて小説を読むことの意味や、小説から何かを考えるということに面白さを感じなくなった」ということが1番にあるのかもしれない。
厳密に言うと、小説そのもの、存在そのものを考えることは好きだが、そこにある内容について考えることに面白味を見出せなくなってしまった。勿論、小説を読むことは愉しい。そこに描かれていることとその同時代性を考えるのは愉しい。例えば、その作品の発売当時に何が起きていて、その作品が発売されたその事象を考えるのは好きである。僕にとってはこの間書いたゴジラの覚書が広く浅くではある訳だが、ああいうことをするのが好きである。
「過去の事象から現在を語る」ということが僕は好きなんだけれども、結構これが苦労する。一筋縄ではいかない。でも、愉しい。だから最近は小説を読むよりも、その背景を知るために社会学や哲学を中心に作品を読んでいる。それで小説を読むと少し世界観が広がる。実際に僕はプロレタリア文学を知らなかった訳だけれども、卒論というお題目の元であったにしろ、しっかり背景を学べたことによって面白く読むことが出来た。特にあの時代は雑誌というメディアについて考えなければならない。とまあ、ここでは書きはしまい。
小説単体で読むことは面白いのだけれども、少なくとも小説というものは政治性を孕んでしまうと個人的には思っている。
それで、また、この「政治性」っていう言葉も厄介なんだと思う。
だが、1つ確実に言えることは、少なくとも僕等の生活を反映せずには小説は書け得ないということだ。当然と言われれば当然かもしれない。僕たちは毎日話す言葉と同じ言葉で小説を書いているのだから、引っ張られることぐらいは多少あるだろう。それに自身の生活は、大局的に見ればある意味で政治の上に成り立っている訳だ。あまりにも短絡的な考え方ではある。
それで、近代小説や現代小説を振り返ってみた時に、僕が純粋に感じたのは「文学から政治を語ることが出来る」というのはついぞ村上春樹あたりで終わったんじゃないかという印象である。つまりは、表層を考えて消費的快楽に移行していったような。そんな印象を僕は勝手に持っている。
だからと言って積極的に文学から政治を語ろうと今は全く思っていないし、別に僕も政治家になりたいとか、日本の政治をどうにかしてやろうとは思ってもいない。そもそも自分のことで手一杯なのに、そんなことだけを専門に考えている暇はない。やりたいことも沢山ある。だが、そういう政治に関してある種ドライな感覚でいる若者たちが小説を介して政治を語るということが出来なくなっているんじゃないか。とただそう思うだけである。
それで、「じゃあ、今更近代小説から政治を語ってみたところで、それは唯の理想論に過ぎない」と言われるのがオチである。それはそうだ。冷静に考えれば良く分かる。近代小説やらが現在に於いて読まれないというのは、このご時世にそぐわないからである。文化、風俗、政治状況。似通った状況はあるかもしれないけれども、そこから語るのは回顧主義者みたいな印象を受けてしまう。正しく、センチメンタル・ジャーニーである。
1番良いのは、現在の小説を読んでみて、そこから色々と自身の生活について振返ってみること、自分と向き合うこと。政治とか云々とかはどうでも良い。とにかく自己と向き合うことが大切なんだと僕には思われて仕方がない。それがそういうものに自然と繋がって行くのだと思うし、それが小説の本来的な姿のような気がしなくもない。
ところが、昨今の小説と言うのはどうもあまりよろしくない。
どの書店に行っても自己啓発本やビジネス書がまず店頭に並ぶ。そして文芸のコーナーに行けば、何だかやけにケバケバした装丁の本が並び、何だか個人的に「うっ」となるような感じである。文庫も文庫で、ミステリー系が数多く並ぶ。帯には「大どんでん返し」のような紋切型の言葉が大文字で刷ってあり、毎度毎度僕は辟易としてしまう。
これはマッチングアプリをやっていると読書傾向が掴めて面白い。
大概、読書好きと謳っている人の殆どが、僕の記憶なのであまり信頼性は無いけれども、8割ぐらいがミステリー小説が好きである。別に人の好きに僕がとやかく言う権利なぞ1ミリもない訳だが、まあ、しかし、小説を読む意味というのがどんどん失われているようなことをこういう場からもヒシヒシと感じているのである。
そう考えると、何だか僕がこうして「近代文学、めっちゃ好き」とか「現代文学、めっちゃ好き」とか「社会学、哲学、めっちゃ面白い」と言っていること自体が馬鹿らしく思えてくるのである。それで真面目に考えてみたところで彼らにとっては「難しい話だね」で終わってしまう。というよりも、事実そういう経験はマッチングアプリでも対面でも沢山経験してきた。
だから、僕は1人で踊っているみたいで恥ずかしい。
この現在に於いて、小説を読むことが本当に実りあるものになるのか。そういった意味で、現在の小説も、そして近代文学も含めてだが、小説を読むことに面白味を感じなくなってしまったのかもしれない。だから、「もう絶対に読まない」とかでは全くなくて、「気が向いたら読もうかな」ぐらいの感覚であり、積極的に読むことは恐らく当分はしないだろうと思う。
そう考えると、やはり僕は小説よりもどちらかと言うと詩の方が好きなんだなということが分かる。
それは言葉そのものへの探究だから面白い。時代性も反映しつつ、言葉について深く沈んでいく感じがいい。やはり、言葉について考えることは重要なんじゃないかなと思う。そういえば、友人と話をしていた時に「結局、何だかんだで言語学に辿り着く気がする」ということを言っていた。今の僕には物凄くその言葉の重みが分かる。そんな気がしてならない。
だから、この記録は僕の今後の方向性というか、それは散々書いているのだけれども、読む本の方向性については触れていないと思う。少しそれを書いてこの記録を締めよう。
まず以て、これからも小説は読んでいく。これは間違いはない。だが、積極的に読むことはしないだろう。その時々で何が起こるか分からないが、今のところは小説を断とうと思っている。僕は詩に傾倒していきたい。そう思っている。また、社会学や哲学系についてはこれまでもこれからも同様に、多岐に渡り学んでいきたいなと思う。まだまだ名著と呼ばれる作品を読めていないのだから、尽きることはない。
そんな感じである。
そういえば、先日から再び、所沢古本まつりが開催されている。今週の土曜に参戦予定である。色々な詩集や社会学、哲学関係の本が見られると良いなと思い、今日の昼休みはあまり購入せずに帰社した。偉い、自分。
よしなに。