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雑感記録(298)

【何者かで在りたいという弱さ】


朝、玄関を開けると雨が僕に向かって降ってくる。雨というのは僕ら人間のことなど考えていない訳だ。雨は容赦なく降り続ける。例えばここで僕が「お願いだよ~。会社に行くから止んでくりょ~。」とお願いしたところで無視されるのがオチだ。どうやったって雨は降り続ける。諦めも肝心である。

僕は最近思うのだけれども、皆が皆「何かを諦めない」ことに必死なような気がしてならない。と書いておきながら、これは自分にそのまま帰って来る言葉である訳で…。詳細については以下の記録を参照されたい。

僕は皆が皆、「何かに必死にしがみつく」ようなそんな印象を感じているのね。そこにしか自分が存在しないと勘違いした人が沢山いて…。とこれを書きながらふと、頭の中に「やりがい」「生きがい」というワードが僕の頭の中にポンと浮かんだので書いてみた。ここから少し話を言葉任せに、遠回りをしながら最終的な書きたいことに接続していこうじゃあないかい。

以下、お付き合い願いたい。


自分事で恐縮だが、僕は彼是数か月前に転職している。

それで僕は何の為に転職をしたのか毎度聞かれる訳だ。でも答えというのは非常に簡単である。「愉しそう」ただそれだけのことである。こういう言い方をすると転職活動で上手くいっていない世の方々から鋭い視線で見られてしまうだろう。正直、「年収が上がる」とか「福利厚生が良い」とか、そういうものはどうでも良くて、ただ「愉しそう」それだけだった。

僕の場合は、本当に、偶然にも僕が大学時代に利用していてお世話になっていたサービスを提供している会社を紹介された。この紹介自体は本当に偶然その物で、求人票を渡されて初めて「あれじゃん!」となった訳である。だから「何となく愉しそうだな…自分も知ってるサービスだし」というのが決め手だった。そしてもう1つ受けた会社は全くの別業種だったが、そこも実際の所は「何となく愉しそうだったから」受けた。

僕は過去の記録で、給与がどうのとか、やれることは何かとか様々に言葉を並べているが、今読み返してみると本当に片腹痛い。結局、格好つけたかっただけなんじゃないのというのが顕在化している文章である。本当に赤面である。だけれども、自分の文章を読んで恥ずかしくなれる経験って何か良いよな…と思ってしまう。

恥をかく経験ってしといて損はないよなと思う。そう考えると僕は恥をかくことから逃げてきたのかなとも思う。こんな、自分の文章読んで「きゃー、恥ずかしいー!」なんていうものとは雲泥の差である。それで過去を振り返ってみるのだけれども…中々思い出せない。でも冷静に考えてそうじゃないのか。自分が知らないことから発生する行為によって、周囲の人との感覚がズレていることで恥ずかしさを感じる。ということは、誰にも指摘されることが無ければ、あるいは周囲がそういう雰囲気を醸し出し、それを僕自身が感じることが出来なかったならばそれは「恥をかいている」ことにはならないのではないか。と訳の分からないことを書いている。

何で人は恥ずかしさから逃げるのだろう。

そういえば1つ思い出した。僕は幼稚園の時に、お遊戯会的なもので大勢の観客(とはいえ各人の親な訳だが)の前で楽器演奏を披露した。その時に僕は何を演奏したか全く覚えていないのだが、何かを演奏していたらしい。その時に、これだけは鮮明に覚えているのだが、今まで練習した曲が1小節だか何小節だか抜けて飛ばして演奏していた。その時に僕は咄嗟にデカい声で「チガウヨ!」と叫んだ。と僕の記憶はここで止まっている。

後に両親から聞いた話だが、そこで演奏が止まって会場は大爆笑だったらしい。その後は間違えた所から再度演奏を始め恙なく終えたらしい。僕はやり直した演奏中の記憶が叫んだ辺りで止まっているので、どんな感情でどういう気持ちで続けていたのか一向に思い出せない。そしてここまで書いておいて「ん、これが僕の恥エピソードなの?」と自分で自分が疑わしくなる。

もし(と仮定の話をここで持ってくるのは些か卑怯だが)、今の精神状態で当時の姿に戻って演奏をしていたなら、心の中で「あ、違うじゃん」と思っても黙ってやり過ごすだろう。終わった後で皆とか先生とかと「あそこ抜けてましたよね」と共有するだろう。いや、「だろう」というより確実にそうする。そう考えると、小さい頃の自分って凄かったんだなと思う。自画自賛も甚だしい物言いだが、これもまたご愛敬。


そんな話はさておいて、転職活動の話?だっけ?

仕事を選んだ理由として、最近ってよく「自分自身の働きがいが…」とか「やりがいがある仕事が…」という紋切型の表現が多く散見される。それでこれまた僕は過去の記録にね、某経営者の「若いうちはな、ライフワークバランスなんて考えずに働け!金を稼げ!」っていう物言いを否定した。僕はそこで短絡的に「お金を稼ぐことが正義なんか?」みたいなことで否定してしまった訳だが、これもまた読み返して赤面する。馬鹿だな自分って思う。

そもそも、前提として何で仕事あるいは労働に「働きがい」「やりがい」「ライフワークバランス」という言葉が追随することになったか検証しなければならないはずだ。鈴木大拙じゃないけど、「渾然として一」なんだから分化する前を捉えなきゃならないってことだと思うんだけれども、でもそれは僕がここで書きたい話ではない。いつか気が向いたら書いてみようではないか(と書いているうちは多分書かない)。

僕は昔、野球選手になりたかった。

いつだったかの記録で僕は幼稚園の卒業アルバムに将来の夢をクラス全員が書き記すという場で「野球選手」と書いたのだった。今思うと不思議な話である。僕は野球がそもそも得意ではない。亡くなった祖父とキャッチボールをするのが関の山で、他は全く以て出来ない。何ならこの歳になっても野球のルールについて曖昧な部分が沢山ある。そのお陰でやいのやいの言えるから愉しいのでそれはそれで良いのだけれども…。

それで今は出版社の子会社で働いている。

随分と隔たりがある。サラリーマンをアスリートとするのであれば同じだろうが、とはいえ野球選手とサラリーマンは違う。強いて言えば「球団に雇用されている」みたいな組織的側面ぐらいか。彼らは野球が好きでそれを続けていたら、気が付いたら野球選手になっていた。勿論、本気でプロ野球を目指していた人も居る訳だが、しかし中にはある意味で「なんとなく」という人が居たのかもしれない。「何か、他のことよりわりとうまく出来ちゃうんですよ」と書くと随分と鼻に掛かる物言いではある訳だが、こういう人は面白いなとも思う。

僕は幼稚園児の時に「野球選手」と将来の夢の欄に書いた訳だけれども、その実「野球選手になんて興味がない」という状況で、でも書かなければならないから仕方なく「野球選手」という言葉を選んだというそれだけの話である。そう考えると、僕は幼少期の頃から「何者かになりたい」という精神は希薄だったのかもしれない。今も正直それに変わりはない。


「やりがい」「働きがい」という言葉は危険だ。

それは簡単に言えば「自分が何者かである」ということを探すことから逃れられないようにする罠だからである。自分が何者かでならなければならないという業みたいなものだ。昨今、色々なハラスメントが存在している。もしこれにもハラスメントを名付けるのなら…。と思って辞めた。何でもかんでも「ハラスメント」というたった6文字で表現しようとする魂胆が気に喰わない。最近では「ハラハラ」みたいな?何だっけ?「ハラスメント・ハラスメント」みたいな。阿保らしいな…。自分で考えたことがそこに回収されるのだけは避けたい。

そもそも、僕は前提として「自分が何者であるか」ということを措定する必要があるのかどうかということを考えてしまうのね。僕がいつも思っているのは「どこに居ようと、誰と居ようと、いつ居ようと、どう居ようと自分は自分じゃん」と思っている。何者?俺様だよ。

ジャイアンはそう考えると実はドラえもんの中で1番クレバーなんじゃないのか。ジャイアンの名セリフ「俺の物は俺の物、お前の物も俺の物」というのは一見すると傲慢以外の何物でもない訳だが、しかし彼だけが唯一自分は自分であるということを自覚しているような気がする。のび太はドラえもん、スネ夫はジャイアン、しずかちゃんは…これは特別な立ち位置に存在するので考慮しないが(というズルい逃げだ。逃げたって良いだろ!)、他はこんな形で依存することでしか自己認識できない。いやあ、さすがガキ大将。

これらをアイデンティティクライシスとかいう奴も出てくるんだろうけど、そんな言葉で纏めたくないからこうして長々と書いている。簡単に纏められてたまるかってんだ。だから「やりがい」とか「働きがい」とかいう短い言葉に集約されているのが嫌いなんだ。全くもう!

で、今って短い方が優位的だと思わない?

これ結構自分の中で重要だなって思ってるんだけど、こうして僕は何を書きたいか分からない状況で「やりがい」と「働きがい」というたった数文字を巡って約3,000字も費やしているのね。それで、大概こういうことを書き方をしていると「短く、簡潔に」って言われるんだ。「わかりやすく」っていう文句については、実際に武田砂鉄の『わかりやすさの罪』でも読んでくれると良いだろう。オススメ。

滅茶苦茶長い文章をたった数行で纏めることに価値が置かれている世の中じゃないですか。しかも、凄い腹立たしいのがさ、大体「短く、簡潔に」纏めろと言われたからそぎ落としまくっていたら「意味が分からない」とか言われることある…と思うんです。僕はいつもその時に「バカが!お前がやってみろってんだ。」と思わざるを得ない。

それで今、ふと高校の時を思い出した。

高校とかだと大学受験もあったりするので、やっぱり必死になって暗記をする。恐らく受験生を経験したことがある人なら向き合わねばならない。本当にこういう時にドラえもんがスッとアンキパンを手渡してくれないかなと願った。しかし、排便すると忘れてしまうのならば普通に覚えた方が早いなとも思ってみたりもする。

そんな中で、教科書にやたらとマーカーで線を引いている奴が居た。

おお、すげえカラフルだな。というか目が痛い。と思いながら遠目で眺めていた訳だが、どうもその線が長い。教科書1ページ丸々マーカーが引かれている。そんな光景を思い出した。

だから何か関係がある訳でもない。ただ思い出しただけの話だ。強いて言えば、「ページ1ページ丸々マーカー使うのなら、鉛筆で良くね?」というそれだけである。


会社なんかだとやはり短い文章が優先される傾向だ。

誰かにメールを送る場合には「短く、簡潔に、丁寧に」みたいな形で心の底から湧き上がる言葉を整理し整合性を付け、削除しながら書き進める。「仕事だから」とここで割り切れてしまっている自分が些か怖い訳であるが、誰にも長い文章が必要とされていないのであれば、それは書かれる意味がない訳である。

だが…「書かれる意味」って何だよ。長い文章は駄目なのか。

僕はこのご時世だからこそ、短い言葉を言葉を紡いで長く語ることの重要性を説いていった方がいいと思う。それは「やりがい」とか「働きがい」などが規定する「自分とは何者であるか」を探すことから逃れる突破口になるからだ。そしてここで僕は声を大にして言いたい。

みんな、ドMになれ…!

もう1度言おうか?

みんな、ドMに………………


何も僕はふざけて言っている訳じゃない。かなり大真面目に言っている。Mと聞いて大体想像されるのが性癖に於けるSとMである。しかし、このSとMについてどれぐらい知っているのだろうか。

恐らく、基本的な知識として、Sはサドの略。厳密にはサディズムの略。そしてMはマゾの略。厳密にはマゾヒズムの略。ここぐらいまでは大抵の人は知っている。そして、このSとMは実在する人物から採択した概念であることは…まあ、これもよく知られた話である。Sはフランスのマルキド・サドだし、Mについてはオーストリアのザッヘル・マゾッホである。どちらも読むと中々に描写が凄い訳だが、とりわけサドの描写は凄まじい。

僕はちなみに『ソドムの120日』っていう作品が好きでね、って言うと毎回嫌われるんだよな。内容が内容なので。興味がある人が居ればぜひ手に取ってみて欲しい。

僕はどちらかというと、マゾッホの文章が好きでね。あの遠回りしている感じが何か描写として面白くて。確かね、河出文庫から『毛皮を着たヴィーナス』が出ていた気がするのだけれども、ぜひ読んでみると良いかもしれない。

まあ、そんなこんなでSとMという概念がある訳だよね。それでね、ここからが非常に重要になってくるんだけれども、このサドとマゾッホについて研究した人が居たのよ。って言うともうほぼネタバレみたいな感じなのだけれども…。そうドゥルーズの『マゾッホとサド』、しかも蓮實重彦の翻訳なんですな、これが。

そんなことはさておき、僕はここで何を言わんかとしていると、これはもうそろそろ書くのが疲れてしまったので、結論から先に書く。

つまり、「宙吊りにされる状態」に快楽を覚えるまでは行かなくてもいいけれども、その「宙吊りにされる状態」に耐えることが大事であるということを言いたい。その「宙吊り」を受け入れる為の戦略的手段としてのマゾヒズムであるということを言いたかった。ああ、やっとここまで来た。

もう少し説明を加えたいところだが、僕の記憶が曖昧としているから正確なことは書けない。しかし、「曖昧だ」といって説明しないのはもっと駄目だ。自分で可能性を潰して何とするのかと何故か自分自身を鼓舞しながら書き始めることにしようじゃあないか。

これは1例なんだけれども、例えばAVとかで「ロウソクプレイ」があるでしょう。ロウソクに火をつけてロウを垂らす。あれって何に対して興奮してるかって考えてみると面白い。そのロウの熱さに興奮しているのか。しばしば、Mは痛さに対して興奮すると勘違いされがちな訳だが、実のところはそれだけではない。ということをドゥルーズは指摘している。何かというと、時間的な興奮である。つまりそれを「宙吊り」と表現している。もう少し説明しよう。

ロウソクの火が付けられ、ロウが垂れていく。勿論そこに刺激があり、その痛さに興奮する。しかし、何よりも興奮するのはロウが今か今かと垂れそうで垂れない。そしてゆっくりゆっくり時間を掛けてロウは大きな粒となり皮膚に垂れ、痛さによる興奮がやって来る。つまり、その時間(遅延)に興奮する訳だ。その刺激が来るまでは何もされないけれども、何かが起きそうな瞬間、刺激が来ると待ち遠しい。そこにこそ興奮するとドゥルーズは言う。

例えば、SMプレイでしばしば、目隠しして鞭でひっぱたかれるという光景を目にする。あれこそ宙吊りの典型である訳だ。やられている方は目隠しをしているから、いつその刺激が来るか分からない。急に来るかもしれないし、あるいは焦らされて結局叩かれないかもしれない。その時間性に興奮する。その刺激が来るまでの間は宙吊りの状態にされる訳であり、この宙吊りこそ最大の興奮状態であるというのである。

さて、ここで話を戻そう。……どこまで?


ある意味で、僕らはいつも宙吊り状態だ。

自分は何者であるかも分からないし、どうして生きているかも分からないし、何でこうして飯食っているのかも分からないし、どうしてこうしてくだらない文章を延々と書いているか分からないし、どうしてマッチしないのに彼是5年もマッチングアプリを続けているのか分からないし…。と様々な宙吊り状態に置かれている。もっと平板化して言うならば、意味の与えられていない状態である。

それが人間は嫌だから「やりがい」とか「働きがい」、「生きる意味」とかそういうものをでっち上げて安心しようとしている。別にそれはそれで構わないと思う。何か自分がそこに居る意味みたいなものを見出そうとするのはある種、人間の本能的な部分もあるのではないかなと思われるのだけれども、しかし意味を求めるばかりが良い事だとは僕は思わない。

誰しもが誰かの為の存在でありたいと多分だけれども心の奥底に隠し持っているのではないだろうか。僕もそうありたいと思うけれども、何だかそれは押し付けみたいな感じで嫌だ。それは自分自身に対するものでは無くて、その行為の対象となる相手に対しての押し付けとなり、失礼な気がしてしまうのである。

人は何物にもなれないから、何物にもなれる。

「やりがい」や「働きがい」「生きる意味」を求めるあまり、それが自分の人生だと押し付けてくる人がいる。あるいは直接的に押し付けてこなくても、それが素晴らしい人生だと言わんばかりにキラキラしたSNSなどを展開している。僕はそれを見ると正直気分が悪くなる。無論、何度も言うようだがそういったことを求めたいのであれば求めて生きて行けばいいと思う。それでその人の人生が豊かになるのならばそれはそれで良いと思う。

だが勘違いしてはいけないのは、それを押し付けないでくれという話だが、しかし僕もこうして「それを押し付けるな」という押し付けをやってしまっているのだから結局おあいこである。


最近、僕の検索履歴には「フリーター」「専業主夫」の文字が散見されるのは何故なのだろう。

よしなに。

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