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雑感記録(342)

【夜の戯言集9】


 しかし、これがうまくいった場合でも、どうしても避けることのできない過失をひとつ犯すごとに、たやすいことむずかしいことを含めた全体が、進行をとどめ、わたしはまたしてもぐるぐる廻りなおさねばならないであろう。
 それゆえ最善の策は、すべてを受け入れること、重い物体としてふるまうこと、吹き飛ばされそうになっても、不必要な歩みは一歩たりとも踏み出さぬこと、ほかの人間をけだものの眼で眺めること、後悔を感じないこと、である、つまり、生活のなかに幽霊として残存するものを自分自身の手で圧殺すること、すなわち、いちばんおしまいの、墓場にひとしい安息を、ますますのさばらせ、この安息以外のなにものにも存在を許さぬこと。
 このような状態を示す特徴的な動作のひとつ、小指で眉毛をこすっている人物。

本野亨一訳 フランツ・カフカ「観察」
『ある流刑地の話』(角川文庫 1963年)P.34,35

眉がかゆい。偶然にも眉毛を小指で擦った訳だが、しかしカフカのようにこんな意味を以てしてやった訳ではない。ただ、他の指が塞がっていたに過ぎない。人間とは面白いもので、何かに触発されてそれに意味を持たせようと無意識に働くように出来ているのかもしれない。そこにある事物や言葉には自分の為にあると、自分特有の意味を持たせてしまうものである。

言葉を使うことも大きな要因としてある訳だけれども、例えばある物に触れて「これは自分の為にある」「これは今の自分の状況と同じだ」という人間が居る訳だが、僕はどうも違和感を覚えてしまう。厳密には「これは自分にとって必要だった」という表現が正しい訳で、そこに自分と同一性を引き出そうとするのは何だか奇妙な物言いであるなと僕には思えて仕方がないのである。

僕は常々感じる訳だが、「自分にとって意味がある」というのは「自分にとって必要である」ということと同義なのではないだろうか。と書いてみたものの、中々難しいところではある。意味=必要と言ってしまうのは些か短絡的な気がしている。僕の中で「意味」という言葉は難しいものである。「意味」というのは主体的な言葉であって、客観性を孕んだ言葉ではないのかなとも思っている。

こうして僕は今、言葉の主観と客観みたいな話を書いている訳だが、言葉にはそういうものが少なくとも存在するだろう。僕等は当たり前のように日本語を使っているから意識が薄くなっているだけに過ぎないのだろう。英語や外国語では文法として学ぶ訳だから、主語の段階で主観と客観がある程度は分かる訳だ。日本語は主語が省略される場合が多いからそういうのを意識することも薄いのかなと考えてみたりもする。

そう言えば、三島由紀夫も東大全共斗との論争の中で「君の言う日本語は主語が…」みたいなことを言っていた気がする。断片的なので何とも言えない訳だが、しかしそんなことを思い出さなくても、日本の古典文学に慣れ親しんでいれば何となく肌感で感じるのではないだろうか。僕は経験としてそういうことをこれを書きながら思い出した。

高校時代に『源氏物語』を授業で読んだ時に、あまりの主語の無さに読みにくかったことを思い出す。国語の古典の教科書に「誰が」ということを書きまくった。しかし、何故主語が少ないのだろう。考えてみるのだが、如何せん、夜に考え事をすると中々良いことも思い浮かばない。書けば何とかなるだろうかとこうして見切り発車で書き出した訳だが、全く以て思い浮かばない。

ただ、言えることとしては言葉や文字そのものとして考えた時に、美しいイメジがある。英語で考えてみた時に毎回毎回「I」だの「She」だの出てくるとくどい。それは文字として見た時にくどい。「ああ、もう分かった、分かった」となってしまう。勿論、そうやって提示してくれることで誰が何を言っているのかが分かるので、文章構造的に理路整然として伝わりやすいという点に於いては確かに優位性がある。そう考えるとアルファベットは徹頭徹尾、記号なのである。

日本語で考えてみると、そもそもかな文字というのは漢字を崩して生まれたものである。そして崩し字という形で書かれる。大学時代に個人的に崩し字を勉強していた訳だが、中々読むのが難しい。しかし、面白いことに崩し字は見ているとどこか画の様相を呈しているのである。言葉が文字としての記号よりも芸術的な何かがあるのではないか。日本語そのものが画なのではないか。最近はそう考えている。

それでこれまた大学時代に少し戻る訳だが、水墨画に漢詩を描くという、江戸時代の作品について授業で学んだことを思い出す。水墨画もそれ単体で作品として存在する訳だが、そこに漢詩が加わることで水墨画が引き立つ。そして面白いことにそこに書かれる漢詩も1つの画としてそこに存在して、所謂「渾然として一」である。日本語も画としてそこに存在している。

仮にだが、そこにアルファベットで漢詩が書かれたとしたらどうだろう。もしかしたらそれはそれで良いのかもしれないが、果たしてそれで「渾然として一」となるのだろうか。それで、僕はヨルク・シュマイサーの銅版画を思い出す。銅版画に文字が刻まれている作品が数多く存在しているのである。

ヨルク・シュマイサー『日記とピルバラ』(1980年)

ヨルク・シュマイサーの銅版画には『日記と〇〇』というタイトルの作品が多くあり、銅板画の中にアルファベットで日記が刻まれる。この作品以外にも文字がビッシリ刻まれた作品もある。どうもそれを見ると画として見ればいいのか、言葉として見ればいいのかよく分からない。タイトルとして「日記」としてつけるのも何となくだが頷ける。そういう体裁を取れば言葉も1つの画として成立することが出来るからではないかと考えたのである。

話は些か脱線している訳だが、日本語は記号という要素だけでなく、それだけで画としても成立するのであって、そこに同じ言葉を連ねる、主語を何回も登場させるのはくどいのではないか。そういうことが前提にあって、主語の省略があったのではないかと変なことを想像してしまう。僕の書くことは適当だからあてにしないで欲しい所ではあるが。

やはり言葉というものは声に出すというのがアプリオリに存在するのではなくて、書くことがアプリオリにある訳だ。音に言葉を与えた。たまたま日本人は音に漢字を当てはめて、そこから日本独自の記号としてかな文字が成立したのかなと勝手な想像をする。そう考えてみると、日本語というのはやはり他の言語に比べて豊饒な何かを持っているのではないだろうかと僕には思えて仕方が無いのである。

伝達する為だけの手段としての言葉ではなく、視覚的な部分で愉しませるというか、それ単体で作品足り得る何かを秘めている。そんな印象を抱くのである。だが、それが僕が最初に書いた日本語に於ける主語の省略や言葉の主観性、客観性との話に繋がるかどうかはさっぱり分からない。ただ、何となく書き始めたらここまで来てしまった。まあ、そういうことがあってもいいだろう。

いずれにしろ、僕はその物自体に何か意味があるとは思わない。それはあくまでそれを見ている主体側が言葉によって付与しているに過ぎない。言ってしまえば、言葉による呪術である。占いなんかもきっと、言葉で意味を与えるという行為の典型なのだろうと思う。誰かに「貴方の人生はこれこれこうなる」と手相を見ながら話をする訳だが、言葉によって縛る行為に他ならないのではないだろうか。お経なんかも典型的なそれではないだろうか。

占いなどが力を持ったのは結局言葉の呪術であり、言葉を持たない人間を言葉で縛ることに他ならない行為だったからではないだろうか。自分に分からない未来の事、こうした方が良いということのアドバイスなどは結局それが分からない、先のことは分からないという状況を自分では言葉に出来ないから言葉にして見せてあげるということが本質ではないだろうかと安直に考えてしまう。

 具体的に言えば、われわれがたとえば家庭内で話をするにしろ、友人と話をするにしろ、あるいは公的に何か話したり書いたりするにしろ、そういう観念語を並べることは避けて、その観念がよって立つところの日常の感覚みたいなものにできるだけ近づいた言葉を使うというのが必要だという気がする。そういう意味でぼくはやはり日本語の殻を破る、破壊するということを考えてしまうんです。
 だから、われわれの中にいまだに残っている本来のやまとことば的な母語の、質感とかやわらかさとか感覚とか、それからそこでの歴史に根ざした意味というようなものを、まだある程度取り返すことが可能であると思います。それはたぶん深層意識の中に沈んだものであるとは思うんだけれども、それを意識化して、日本語に反映していくべきじゃないかというふうに思うんです。

谷川俊太郎「日本語を生きること」
『日本語と日本人の心』(岩波書店 1996年)
P.184,185

さて、書いていたらお腹が減って来た。白米が食べたくなってきた。深夜2:00である。ワサビ味のふりかけが食べたい。人間、腹が減ってはなんとやら…という夜の戯言集。

よしなに。

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