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雑感記録(321)

【手紙の優しさ】


僕は最近、手書きの手紙を貰った。

貰った時には本当に嬉しくて、どう言葉にして良いかよく分からなかった。こういう感情というのは人間誰しもあると思っていて、「よく分からないけど込み上げてくる何か」みたいなものが心の奥底から湧いて出てくる。それを僕自身でも言葉にしようとするんだけれども、上手い具合に言葉が出てこない。何か言いたいのだけれども、その言葉を拾い切れない自分が居る。そういう自分自身にもどかしさを感じながら、格好つけて「ありがとね」としか言えない姿に、僕は僕自身に辟易としてしまう。

そういえば、人から手紙を貰うのはいつぶりだろう。

思い返してみると、手紙、それも手書きの手紙を貰ったのは何年前のことだろうか。僕が知る限りパッと思い出せるのは、大学1年生の時に高校の同級生から貰ったのが最後かもしれない。それ以降は自分の手で手紙を書くことは無かったし、貰うことは無かったように思う。だから、これが10年ぶりぐらいの手書きの手紙である。それにしても手書きの手紙は良いなと思う。

それでハタと、僕にはトドロフが思い出される。

大学生時代に読んだから、内容はもう忘れてしまっている訳だが、確か最初の章で「手紙」かなんかについて書かれていたような気がする。小説に於ける手紙の効果みたいなものだろう。全く以て思い出せない訳だが、その部分だけ覚えているということはかつて僕自身も手紙というものについて真剣に考えていたことの証左なのではないかと思えてくる。

しかし、覚えていなければ書くことは叶うまい。


あ、いや、待てよ。手紙書いたことあるな。

中学の同級生の友人代表スピーチで恐れ多くも選ばれて、話したいことは沢山あったけれど、しっかり伝えようと思ったから「スピーチ」ではなく「手紙」という形態にした。何よりも、「その人に伝えたい」ということを考えた時にはやはり手紙というのはクローズドな関係性である分、密度の濃い言葉が紡がれることになる。僕が最近考える「文学の優しさ」なるものは実は「手紙」というものが根源にあるのではないかと考えている。

そういえば、僕の敬愛している中野重治も、かつて『文学論』(全集版だと『文学談話』)の中でこんなことを言っていた。

要するに、ひろい意味での文學と、せまい意味での文學とをわれわれが考える必要があると私のいつたのは、文學というものは―人間が學問したり働いたり、自分を表現したりすることは、たくさんにあつて、ケンカすることなども自己表現の一つのやり方でしようが、そういうひろい意味での人間の表現の仕方の一つとして、文學があるのであつて、自分を表現するには、言葉、文字を使うやり方としては、新聞記事もあれば法律の條文もあるのですから、そういうすべてをひつくるめて文學というものは考えられ、そのなかでそこから専門的なものとして出來てきたものをせまい意味での文學というという、ことになるでしよう。ですから戯曲とか、叙事詩とか、石坂洋次郎の小説とかいうようなものは、それ一つでポツンとあつたのでもあるものでもなく、それらはだんだんに、一方に法律の條文ができ、一方に何か看板のようなものができ、一方に何か廣告のようなものや、役場からの税金の通知のようなものができ、そういういろんなもののなかから、ちよくせつ法律に關係のないようなもの、そういう部分―なんといいますか、人間がたのしみつつ讀む、あるいは自分の氣持ちを傳えることをもつぱら目的とするような部分がだんだん發達し育つてきて、いまの小説とか詩とかいういわゆる文學が出來てきたということになります。

中野重治「一、ひろい意味での文學とせまい意味での文學」
『文学論』(ナウカ社 1949年)P.5,6

手紙もまた文学の1つであり、優しさそのものであると僕も感じるところがある。しかし、これは僕個人の感想でしかないので、あまり参考にはならないかもしれないだろうが敢えて書く。手書きの手紙と、タイピングで打たれた文字の手紙を比較すると、やはり手書きの手紙の方が嬉しさが増す。僕はそういうタイプの人間だし、むしろそういう人間で居たいとも思っている訳である。

こういう言い方をあまりしたくはないが、実際に僕も手紙を書いたことがある身として言うならば、手紙を書くことってそんな容易い話ではない。こういう僕が書いているようなnoteなんかとは全く以て違う。ここでは僕が好き勝手に、誰に対してでもなく、ただのべつ幕なしに「偶然読まれれば良いんじゃないか」という中で書いている。何なら読まれなくたっていい。自分が満足すればそれでいい。

だが、手紙というのは誰か1人の相手が必ず想定される訳である。言ってしまえば「誰か1人の為に書かれる」文章である。それは書き手が例えば、その誰か1人に対して「興味が無い」とか「この人のことは好きではない」とかマイナスなイメジを持っていたとしても、その前提としてその「誰か1人」のことを考えている時点で、それだけで優しさな訳である。本当にそういうことを考えているのなら、無視するだろうし、連絡すらしないはずである。

それでふと三島由紀夫の『レター教室』が頭を過る。

僕は三島由紀夫の小説があまり得意ではない。あの精緻さが堪らない程苦しくなる瞬間が沢山ある。『仮面の告白』を読んだ時などはどこか苦しさを感じたことは言うまでもない。だが、『文化防衛論』や『太陽と鉄』は中々面白いなとも思いながら読むわけである。とこんな話はただ思い出したから書いただけに過ぎない。


手紙というのは何重かの優しさを以て眼前に現れる。

これは単純な話で、まず「誰か1人の為に」が(受け手にとっては)僕であるという偶然である。そして、そこに紡ぎ出される「僕だけに向けての言葉」という特別感。そういった書き手、贈り手の優しさが何重奏にもなるイメージを僕は手書きの手紙に持っている。様々な身体的なものと言葉が折り重なる感じとでも言えば良いのだろうか。そういうものを感じることが出来る。

ここで「身体性」を引き合いに出したのは、最近から中村雄二郎と鈴木忠志の対談集『劇的言語』を読んでいる影響が大きい。引用はしないけれども、非常に面白いのでお勧めしたい作品である。

言葉を書くこと、とりわけ自分の手を動かして書くという動作は正しく身体性そのものの憑依である。自身の気持ちと言葉が繋がる瞬間としての書かれる文字が描かれる。しかし、パソコンで打ち込む言葉はどうも無機質である。ローマ字で入力、あるいはカナ文字入力でも良い訳だが、漢字も日本のローマ字で入力後、スペースキーで変換し該当する感じを探していく。ここに身体性というのは宿るのだろうか。

僕は以前、「誤解を恐れすぎている」という記録を書いたことがある。

まず、こうしてパソコンで打ち込んでいると誤解することなどほぼない。現在ではシステムもかなり発達し、スペルチェック機能などが働き誤字・脱字はいともたやすく修正されてしまうのである。今僕はこうして文字を打ち込んでいるけれども、それはあくまで記号を打ち込んでいるようなイメージをいつも持ち合わせている。これも前に少し触れたかもしれないが、ちゃんとした(というと語弊がある。いつも変なことしか書いてないけど、その中でもとりわけ真面なことを書きたい時にはということだ)記録を書きたい場合には紙のノートに1度必ず書き起こしてから打ち込んでいく。

紙のメモを見ると誤字・脱字だらけでぐちゃぐちゃになっていることがある。事実、自分でnoteに起こそうとするとき「ん?これなんて書いてある?」となる時がしばしばある。だが、これはこれで面白いなとも僕は思っている。人間の思考や感情というのは何も固定的ではない。流動性を持っている。言葉があるから固定的になってしまうだけの話で、実際はその瞬間瞬間に変わっていくものである。

とはいえ、そんな中でも普遍的な1本の筋みたいなのはある訳だ。要はその木の枝葉が沢山広がって行くような、そんなイメジである。身体を1つの根幹として、思考や感情はその中を流れるエネルギーみたいなもので、そこから枝葉があらゆる方向に向かって放射状に広がりを見せていく。そしてその枝に付く葉が言葉なのではないか。僕はそんなことを考えてしまう。

そう考えると、誤解なんて山のようにある。それは自分が語ってきた言葉の数だけ誤解は生じる。面白いことに、それはいつか忘れ去られる。そして一笑に付されて地へ落ちて行く。それを掬い上げるのが文学ひいては手紙の役割じゃないのかということを何となく考えてみたりする。特に手書きというのは身体性が加わるのだから、その木自身が枝を伸ばして葉を掬い上げるような行為である。第三者が落ち葉を拾うのとは違う。それは小説や詩や哲学の領域である。手紙は木自身が自分で自分の落ち葉を拾う。そんな感じだ。


手書きの手紙というのは僕からすると優しさの極意の1つである。

伝家の宝刀である所のうちの1つである。そういうものだと僕は久々に手紙を貰って感じた所である。そもそも、そこに何が書かれようが、どう書かれようが「手紙を書く」という選択をしてくれた時点で僕は嬉しいのである。僕も大切にしたい人には手紙を送りたいとも思う。しかし、これが…渡すのに勇気が居るんだよな…。だから、それも考えると当たり前のように僕は受け取ってしまったけど、背後にあるそういう優しさを受け取らなければなるまい。

僕は手紙を読んで、何十年ぶりか声を出して泣いた気がする。

最近、涙腺が弱くなってきて、涙もろくなって来てはいるけれども、声を出して泣くことは久々だった。小説や哲学を読んで「面白いな」とか「良い文章だな」というように感じることも愉しいし嬉しいけれども、それとはまた違った別の感情が生まれる。それを「喜び」「嬉しさ」「愉しさ」「面白さ」「感動」等の言葉で表すことも出来るのだろうけれども、僕はそれ以前の言葉になる前の感情、「よく分からないけど込み上げてくる何か」というものを大切にしたい。

僕はお手紙セットを買ってきた。

よしなに。



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