雑感記録(292)
【ガンダムSEEDシリーズ覚書③】
さて、これまでの記録の最後である。だが疲弊してしまって、あまり言葉が乗らない感じだ。読んで貰えば一目瞭然だが、『ガンダムSEED DESTINY』を書いている言葉が浮足立って、自分自身でも途中から本気で「何を書いているんだ、俺は!」となりながら、半ば強引に書いた感は否めない。しかし、それでも既に破綻しているものでも「考え続ける姿勢」というのは大切な気がする。そんな言い訳から書いてみる。
これについては最初の段階で色々とやいのやいの言い続けてきた訳だが、今回は「あそび」という観点から見ていく。これは何というか、実は自分でもまだ纏まり切れていない部分が沢山あるので、ある意味で見切り発車で書き始める。どうなるか知ったことではない。
3.『ガンダムSEED FREEDOM』(2024年)
結論から述べると、先で示した「あそび」の脆弱性と限界性をどう超えていくかという問題に対してこの『ガンダムSEED FREEDOM』では「愛」そして「エロゲ的ハーレム」で乗り越えようとしている。ある意味で言ってしまえば「疑似恋愛要素」による乗り越えみたいなものである。ここに来てそれかよとも思う訳だが、それこそが乗り越え可能な方法提示の1つだったような気がしなくもない。少し詳しく見て行こう。
まず以て、このストーリーは『ガンダムSEED DESTINY』の1年後の世界を描くものである。その世界では「あそび」の脆弱性と限界性が示される中で、キラ・ヤマトは一貫して「弱さを圧倒的に肯定する」という姿勢で以て立ち向かい、それにアーク・エンジェルという弱い繋がりの中で団結し、モビルスーツという共通言語を利用し二項対立に「あそび」を作ろうと闘うその困難が描かれた。ここで重要なのは、アーク・エンジェルが有象無象の集団であるということである。先の記録にも書いたが「野郎集団」な訳である。
だが、この『ガンダムSEED FREEDOM』はアーク・エンジェルが「コンパス」という組織と化してしまっている。しかも、基本的にはラクス・クラインはこの段階ではザフト軍に存在しており、世界平和監視機構コンパスの総帥として存在している。ある意味でコンパスという組織は、地球軍(主に大西洋連邦)とザフト軍(クライン派)による構成であり、一見するとオーブ的なポジションかと思いきや、ラクス・クラインが支配しており、結局二項対立の中に組み込まれるのだ。
結局、アーク・エンジェルは「あそび」の場ではいられなくなった。それにキラ・ヤマトも一定の地位を与えられ、キラ・ヤマトは今までのキラ・ヤマトではなくなり、ヤマト中尉という存在になってしまった。役職を与えられ、組織化したコンパスで部下、それもシン・アスカやルナマリアだったり…前作でザフト軍だった(いや、主人公か…)存在がキラ・ヤマトの部下として存在するのである。
これまでのアーク・エンジェルは先程から何回も述べているように「野郎集団」という弱い繋がりであったからこそ、時には連帯しそしてその人を人として見るという機能が存在していた。例えばそれは呼称に現れる訳だ。ムウ・ラ・フラガのことを役職で呼ぶ人も居れば、キラ・ヤマトのように「ムウさん」、マリュー・ラミアスのように「ムウ」と呼び捨てで読んでおり、呼び方が様々である訳だ。だが、それでも誰1人して役職で彼を判断している訳ではない。かつて「エンデミオンの鷹」と呼ばれ、そして「レオ・ロアノーク」として存在していたが、彼を彼そのものとして扱う場がアーク・エンジェルだった。
ところが、それがコンパスという組織として編成されるということは、二項対立の渦中に巻き込まれることになる訳だ。先にも書いたが、一応この組織はラクス・クラインが総帥を務めており、ラクス・クラインはこの段階ではザフト軍の人間である訳だ。既に、この「ザフト軍」に所属している段階で「地球軍/ザフト軍」という二項対立が過去から不可避的に導き出されてしまう。結局、僕からすれば「野郎集団」も「ザフト軍」側に付くのか…と思いながら見ていた訳だが、それは置いておくとしよう。
そんな中で1人その限界を抱えていたのが、キラ・ヤマトである。彼は作中の中で「いつになったら終わるのだろうか」というような悩みを抱えながら戦っている。これは恐らくだが、キラ・ヤマト自身が「あそび」で居るのに疲弊してしまっているその証左ではないか。彼は言ってしまえばこれまで何のしがらみもなく(と書くと語弊がある訳だが)闘ってきた。このしがらみというのは言ってしまえば「地球軍/ザフト軍」と言った後ろ盾を指す。単体ではなく、その二項対立という現象そのものがキラ・ヤマトを支えてきた訳ではない。そのアーク・エンジェルという弱い繋がりの「あそび」という場によってこれまで支えられてきた。
ところが、組織化され、自分もその一因となり、二項対立の中に不可避的に巻き込まれる。しかも、役職が与えられる訳だ。部下が出来る。ラクス・クラインも存在する。彼女も守らねばならない。部下も守らねばならない。この「~ねばならない」という呪縛に襲われ、キラ・ヤマトの最大の強みである「弱さを全面的に肯定する強さ」が次第にシフトチェンジしていく。この劇中で僕が感じた違和感はここだ。言ってしまえば「弱いが故に強い」キラ・ヤマトがその「弱さ」を棄て、強さに走っていくそれが僕には不思議だった。
僕は先日の記録でこの「弱さ」=「あそび」というような表現をした。
つまり、『ガンダムSEED FREEDOM』では「あそび」を棄て強さを求めたキラ・ヤマトの限界性が見える。これは言ってしまえば、アスラン・ザラは『ガンダムSEED DESTINY』で既に経験済みである。今度はキラ・ヤマトがそれに対峙する番である。ちなみに、劇中ではどこか偉そうなアスラン・ザラが出てきてキラ・ヤマトに説教し、殴り合いの喧嘩をする場面もあった訳だが…。僕からすれば、お前もだろと思ってしまった。とまあ、そんなことはさておき。
この『ガンダムSEED FREEDOM』は主人公であるキラ・ヤマトが「あそび」を手放し、そして「あそび」を再び恢復していく物語に他ならない。そしてこの恢復の中心にあるのが、「愛」であり「エロゲ的ハーレム」なのである。断っておくが、別に僕は馬鹿にしている訳ではない。そこで回収するならばそれはそれで良いだろう。しかし、何というかそれに重きが置かれていることに僕は疑義を感じているというそれだけの話で、それがあまり納得が出来なくて書き始めたという節もある訳だ。
まず以て、これは些か卑怯な物言いだが、ビジュアルそのものが何だかエロゲみたいだった。唇どしたん?というぐらいに肉厚な描写がされている訳だ。また、これは僕の個人的なこともあるだろうからあまり声を大にして言えないが乳房の揺れが凄かった。……うん、凄かった。しかも、それがフリーダムガンダムとのドッキング場面だったこともあり、卑猥さはMAXである。
特に、敵国のファウンデーションと戦闘する時にはまあ、女性の裸が散見される。露骨に描いていたのは、アスラン・ザラがカガリ・ユラ・アスハの裸を想像して、それをファウンデーションのシュラ・サーペンタインは戦闘中に読み「お前、戦闘中に女の裸を想像しているんじゃねえ!」という場面が実際にある訳だが、これはもうエロゲというより、チープなラブコメアニメを彷彿とさせるようなやり取りだった訳だ。
極めつけは映画の終わり方だ。
最後、海辺にキラ・ヤマトとラクス・クラインが2人で居り、2人のシルエットがキスをして終わる。こう書くと「純愛なんだな~」と思うのだろうけれども、海辺の2人にクローズアップする手前に脱いだ服が無造作に置かれている。おっと…。つまり、2人は…素っ裸…?となる訳だ。これこそエロゲ的、ラブコメ的エンディングの最たるものでは無かったか。僕はこれを見てガッカリしたことは言うまでもない。
とにかくだ、こういう描写が随所随所にあった訳で、実際これらのエロゲ的ハーレムの要素だったり、ラクス・クラインとの「愛」という問題でキラ・ヤマトは「あそび」の場を恢復できるのだから凄い。しかし、これが何故「あそび」の恢復へと繋がっていくのだろうか。
僕は先程から何度も書いているが「弱さを全面的に肯定する強さ」がキラ・ヤマトの強さであるということであり、またこの弱さというのが「あそび」でもあると述べた。だが、そのキラ・ヤマト自身が「弱さ」を肯定することの意味が分からなくなってしまった訳だ。それとこの映画で特筆すべきことを忘れてしまっていたが、思い出したついでに何の脈絡もなく付け足しておこう。
この物語は僕は先程から「エロゲ的ハーレム」といている訳だが、ラクス・クラインがある意味で寝取られるのだ。この作中ではファウンデーション王国のオルフェ・ラム・タオによってラクス・クラインを寝取られる。何な、ラクス・クラインにキラ・ヤマトを殺せと命令させるほどの策略家である訳だ。ある意味で、「愛」の奪い合いの物語でもある訳だ。しかし、ここで重要なのは1度、ラクス・クラインの手によってキラ・ヤマトが殺されそうになるという点にある。
今まで、手放しでラクス・クラインはキラ・ヤマトのことを愛していたし、同様にしてキラ・ヤマトもラクス・クラインを愛していた。だが、それが突然、二項対立の体制側になった途端にキラ・ヤマトはある意味で絶縁宣言としての命令を下される。実際は仕方がない事だった訳だが、キラ・ヤマトはどんどん落ち込んでいく訳だ。その一方でラクス・クラインに会いたくなる訳だ。つまり、これは言ってしまえば「愛」というものはどうやら(?)そういう弱さも無償で肯定してしまえるものらしい。
人間、嫌なことがあったり、辛いことがあったり、それこそ弱いことから目を背けがちである。しかし、その「愛」とやらはそれすら無条件に肯定してしまうのである(…僕にはよく分かっていないが…)。キラ・ヤマトはこれまでアーク・エンジェルという弱い繋がりの野郎集団の中で「弱さ」を肯定できる人間だった訳だが、ここに来ていざ1人になった時に「あそび」を肯定する場が存在しない訳で、それとなく根拠づけられていた弱い繋がりが無く、どうしていいか分からなくなる。そんな時に外部からのその人自身の肯定により恢復する。
ここまでを簡単に纏めると、キラ・ヤマトはこれまで無根拠な上=「あそび」の場=「野郎集団」としてのアーク・エンジェルで「弱さを全面的に肯定する強さ」があり、その「弱さ」=「あそび」が存在できていた。ところが、二項対立にラクス・クラインが不可避的に巻き込まれ、自身もコンパスという組織に巻込まれてしまった。その中で彼は場をなくした「あそび」を保持し路頭に迷っていた。そしてその中でラクス・クラインによる攻撃命令。それにより完全に「あそび」を失ったキラ・ヤマト。
そこにアスラン・ザラが「ウジウジしてるんじゃねえ!」と喝を入れる。その中で自分自身が「弱さを全面的に肯定」出来るのは何故かと考えた時に、ラクス・クラインが存在した訳だ。彼女は手放しにキラ・ヤマトのことを愛しているのだ。そしてその強大な「愛」により、再びキラ・ヤマトは「あそび」を取り戻していく。
という感じになるだろう。
だが、これはあくまで『ガンダムSEED FREEDOM』の話であり、我々の世界で考えるとどういうことなのか。
勿論、二項対立の中で「あそび」を保持することは難しい。ガンダムSEEDシリーズからも見るように、どちらかに組してしまうことも簡単に出来るし、組織化することだって、ある意味で選択肢は自由である。しかし、そこで自分自身がそこにまず「無根拠の上にこれをやっている」ということを認められるかどうか。何物の後ろ盾がない状態でそれをやり続けること。
そしてその中でキラ・ヤマトのように「あそび」が無くなってしまう事だって可能性としては存在する。「あそび」あるいは「あそび」の場というものが無くなりそうな時、孤独である。二項対立という空間では「あそび」という場というものは酷く弱い繋がりである。解体する可能性は大きく、砕ける可能性も非常に高い。
そこで、僕らが「あそび」の空間に存在する時、如何にその「あそび」に愛を持てるか。無根拠な上に立っている自分自身を愛せるかどうかが重要なのだと僕は思う。『ガンダムSEED FREEDOM』の場合には、キラ・ヤマトの存在が元々「弱い」ということもあり、結局ラクス・クラインというある種外部の「愛」による「弱さの全面的な肯定」があった。これは別に外部からでもなく、自分自身の中で向き合っていること、無根拠の上に立っている物をどれだけ自分自身で愛せるかということ。これが肝心なのではないかと思われて仕方がない。
と些か纏まりのつかない終わり方をする。
以上。もうそろそろ、ガンダム以外のこと書きたい。
よしなに。