雑感記録(92)
【"リアリティ"って何だろう】
ここ数日、割かし時間が取れており、読書もさることながら映画もじっくり見ることが出来ている。今まで忙しいこともあり何かの片手間で映画を垂れ流していることが多かった。また読書をする時に、僕は静かな空間で読むのが苦手なので、過去に何回も見た映画をBGMとして垂れ流すこともしばしばある。映画にのみ集中する時間というのは僕にとっては本当に久々で有意義な時間である。
とは言え、映画を見続けていると正直飽きが来ることがある。結構ヘビーな内容の作品だったり、深い内容で色々と考えてしまう作品なんかは1日2作品見るのが限界である。そもそも1日にそんなに詰め込む必要があるのかは置いておくとしてもだ。そうすると僕は息抜き(といっては失礼かもしれないが…)としてアニメを見ることが多い。
それで最近久々に『空白』を見た。
この映画は何というか、結構心苦しくなる内容でどちらの状況もどちらで辛いということがよく描かれている作品だなと思う。と簡単に書けてしまえる程の内容では決してない。正しく、言葉で何でも表現すればいいってものではない、言葉では表現し得ない映画である。現在、Netflixにて配信中である。もし登録している方が居れば1度は見ておいても損はない映画ではないだろうか。
僕はあまり邦画を見ない質だが、この作品の他に『佐々木、イン、マイマイン』は好きでよく見る。Netflixでの配信が今月の確か16日までだった気がする。これもオススメなので見てみて欲しい。というか、『空白』も『佐々木、イン、マイマイン』も藤原季節さんが出演している。僕は彼の演技が好きなのかもしれない。
『空白』を見終わった後、何か心がモヤモヤしてしまうので気分転換でアニメを見ようとNetflixを漁っていたら、ちょうど先日Netflixのオリジナルアニメ『ULTRAMAN』の第3シーズンが配信になっていたらしいことが判明。僕はこのアニメが好きなので早速見始めることにした。
ストーリー的にはウルトラマンがかつて存在していた世界での話だ。『ウルトラマン』(テレビシリーズ)を見ている、あるいは見たことがある人はお分かりかもしれないが、科学特捜隊を中心に話が描かれる。主人公は早田隊員の息子だ。要はウルトラマンの直系の血を引く息子が主人公となる訳だ。
恐らくだが、『ウルトラマン』(テレビシリーズ)を知っている若年層ならばこのアニメは結構受けるんじゃないかと思う。現に、僕も若年層と言って差し支えないのであれば、僕はめちゃくちゃハマっている。現代版のフォルムというか、ストーリー展開も今風で、筋は単純明快なんだけれどもそこに付随するストーリーが色々面白いというようなものだ。
正直なことを言えば、『ウルトラマン』(テレビシリーズ)を見ていない人がいきなりこれから入ってしまうのはよろしくないかなとは思う。無論、初期の『ウルトラマン』でなくても、例えば『ウルトラマンダイナ』だったり『ウルトラマンティガ』『ウルトラマンガイア』『ウルトラマンコスモス』とか…要はウルトラマンの世界観に触れた経験がないと中々躓いてしまうかもしれないし、面白さが分かりにくいかもしれない。
そうして、このシリーズを見ていた時に僕は気になったことがある。それはテレビシリーズからアニメへの転換という点である。特撮作品、有名どころで行けば『仮面ライダー』が正しくそうだ。これは石ノ森章太郎の原作漫画が元で実写化された作品である訳だ。しかし、『ウルトラマン』に原作があるかと言われたら、思い浮かばない。無論、漫画は確かあったはずだが、それはテレビシリーズが元で作成されているはずだ。(ごめんなさい、詳細はよく分かっていません…)
昨今の作品も基本的には原作漫画や小説があって実写化するとかアニメ化するという流れがある。
・漫画→アニメ化→実写化(あるいは漫画→実写化→アニメ化)
・小説→アニメ化→実写化(あるいは小説→実写化→アニメ化)
こんな順序で作品化されるのがある意味では一般的なものなのかもしれない。ところが、この『ULTRAMAN』に至っては
・実写化→漫画→アニメ化
となっており、前段階で既に実写化されているものが漫画でリメイクされ、アニメ化されるという状態である。
順序は正直どうでもいいっちゃどうでもいい。どこがスタート地点になろうが、その作品がそれ自身で成立しているのなら問題はない。ただ僕が不思議だなと思ったのは、この『ULTRAMAN』を見た時に「やけにリアルな作品だな…あのウルトラマンが…」と感じたことだ。
凄く雑駁に言うとすれば、そもそも実写版、まあテレビシリーズが先にあってその作品では生身の人間が演じている訳だ。物質的観点であったり、僕と同じ人間という生物が演じているという点に於いてはこちらの方がよっぽどリアルである。しかし、何故だろう。アニメの方が余程リアルと感じてしまうのは。
リアリティとは何だろうか。
よく我々は何か芸術作品に触れた時、「うわこれめっちゃリアル」と思うことがある。しかし、それはその作品のどこに対してどうリアルなのかをしっかりと考えたことがあるだろうか。何だか僕らは口癖のよう虚構作品を見ると「めっちゃリアル」と言ってしまう訳だが、その人にとって何がリアルなのか。
僕の場合はだが、どこか自分の生活に近しい部分を感じ取ると「リアルだ」と感じる傾向にある。その作品に於ける登場人物の表情であったり、顔つき、輪郭。映像作品で言えば、その時の心情描写であったり行動様式であったり。そういった所に触れたりすると「リアル」と感じるようだ。
僕は以前、上記の記録で中野重治の引用をした。所謂、作品はどこから出発すべきであるかということを説いている。中野重治から言わせれば生活に直に接触する姿勢が大事であるということである。生活に直に触れているからこそ、そこに我々のリアリティが存在する訳であると。
そう考えてみると、この『ULTRAMAN』も生活感溢れている作品なのではないかと思われて仕方がない。作品の内容は置いておくとしても、そこに流れる心情描写であったり声の感じであったり、そういったものが我々の生活に近しい部分がある。怪人と共生しているところはあり得ない訳だけれども、怪人が考えていることやウルトラマンたちの思考性は人間と相通じるものがある。
昔のテレビシリーズの『ウルトラマン』は何というか、突拍子のなさというか…。我々と同じ人間が演じていはするが、主軸が置かれているのはあくまでもウルトラマンが怪獣を倒すことなのである。勿論、隊員たちとのやり取りも重要になるが、しかしウルトラマンがどう怪獣から人々を救うかが話の主題にある訳で、そこに寄与する人間模様は正直雑に扱っても問題はない。
さらに補足をするならば、僕は以前に中平卓馬の記録で「真のリアリズム」とは何ぞということを書いた。所謂、「真のリアリズム」とは当たり前だとされている概念を崩壊させることこそが「真のリアリズム」であると。そう考えると『ULTRAMAN』は正しくそれなのではないかと思う訳だ。
つまり、テレビシリーズの『ウルトラマン』で確立された"ウルトラマン"というヒーローの概念を崩壊させる訳だ。実際にこの『ULTRAMAN』はヒーローとされながらも、街を破壊するものであるという認識があり、一般大衆から忌み嫌われる場面がちょこちょこ存在する。僕もそういった場面を見て、「確かにヒーローに街を壊されちゃかなわんな…」と思ってしまった訳だ。
そう、そうなのだ!ヒーローというものは大概我々の味方であり、我々を助ける存在であるのだが、街がどれだけ壊されようが何人一般市民が死のうが大勢の大多数を救えればそれでいいのだ。僕はこれがいつも心の中のしこりとして存在していたことは間違いがない。あの巨大なウルトラマンに踏まれた街は?車は?逃げ遅れた人は?考えるとキリがないが、そういったことはあるように思われる。
そう考えるとこの『ULTRAMAN』はサイズ的にも通常の人間サイズのウルトラマンたちが出る訳で、特殊能力の獲得の仕方もまだ納得が出来る。ヒーローものは特に突飛な設定が多い訳だが、この作品に関しては不思議と「こういうのもしかしたらあり得る…?」みたいな要素が多いのでリアリティを感じやすいのかもしれない。
僕が想定しているリアリティを感じる瞬間は2つだ。
①自身の生活に近いものを感じる作品に触れた時。
②当たり前であることを崩壊させた作品に触れた時。
しかし、何に対してリアリティを感じるかは人それぞれな訳だ。一概に同じ作品に対して全員が全員リアリティを感じる訳ではないし、感じる部分にもそれなりに差異はある訳なのだ。
うーん、難しい…。芸術に於けるリアリティ、リアリズム。色々と考える余地はある。
よしなに。