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雑感記録(336)

【日本語と向き合う】


この記録は以下の2つの記録の続編のつもりで書く。

とは書きつつも、果たして大したことが書けるかどうかは僕の言葉任せである訳で。言葉が言葉を呼ぶ。言葉というのは本当に不思議なものである。何か手触りを掴めたと思った瞬間にスルスルと零れ落ちていく。僕は言葉に対して常にそういうイメジを持っている。僕は「人間の思考は流動的である」と常々書いている訳だが、やはりそれは言葉によるところが大きいのではないだろうか。

東京に来てからというものの、僕は言葉、とりわけ僕自身が話す言葉について考える時がある。それは非常に単純な理由から来るものだ。僕が地方出身で所謂「方言」を話すからである。今ではあまり気にならなくなった訳だが、最初はやはり違和感を覚えていた。どうも冷たい言葉が空中を舞っているような、そんな印象があった。それは東京という土地柄ももしかしたら関係しているかもしれないが、どうも話される言葉が冷気を纏っている。

今ではもうその言葉に慣れてしまっている訳だが、やはりどこかで慣れたくない自分自身も心の片隅には存在している。「方言」というのはある種心の拠り所であると言っても過言ではない。大学生時代に深沢七郎の『甲州子守唄』を読んだ時の感覚が僕の心を揺さぶる。言葉にはリズムがある筈だ。音でも文字としての日本語だとしても。時たまそういう部分で地元が恋しくなることがある。

僕は自然と方言が出てしまうことがある。とりわけ「〇〇しちょし」とか「ほうずら」そして会社では時たま「なるほど、ほういうこんですね」と言ってしまうことがある。生まれつき備わっていると言うとチャキチャキの甲州弁を話す人に申し訳ないのだが、何と言うか染みついている言語感というものは場所が変わろうが時を経ようが変わらないものである。こういう言語感は大切にしたいと思っている。


さて、そんな余談は置いといて…。

この記録を書こうと思ったのにはキッカケがある。それは昨日に書いた記録の最後でも触れたが、『日本語と日本人の心』という本を読んで感銘を受けたからである。昼休み、僕は毎日神保町の古本屋を物色している訳だが、そこでたまたま見つけた本である。谷川俊太郎の詩集があればなと思いながら本を物色し、これまた偶然にも『手紙』という詩集を見付け、その隣に置いてあった本である。

実際僕は両方購入した訳だが、この両方とも素晴らしかった。谷川俊太郎の詩はやはり良い。谷川俊太郎の詩は不思議とスルスル落ちる言葉が上手く掬い上げられている。そんな感覚になる。僕等が普段使っている日本語が実は大したものではなく、結局僕もただの伝達手段としての日本語しか使っていないのではないかと態度を改めさせられるのである。

この『手紙』の中で好きな詩を引用したい。

あなた

 あなたは私の好きなひと
 あなたの着るものが変って
 いつか夏の来ているのを知った
 老いた犬がものうげに私たちをみつめる午后
 ひとっ子ひとりいない美術館へ
 古いインドの細密画を見にいこう
 菩提樹の下で抱き合う恋人たちはきっと
 私たちと同じくらい幸福で不幸だ

 あなたは私の好きなひと
 死ぬまで私はあなたが好きだろう
 愛とちがって好きということには
 どんな誓いの言葉も要らないから
 私たちは七月の太陽のもと
 美術館を出て冷い紅茶で渇きをいやそう

谷川俊太郎「あなた」『手紙』
(集英社 1984年)P.10,11

ちょうど7月ぐらいに僕はこういう感覚になったことを思い出した。言葉というのは不思議なもので、どこへでも僕等を連れて行ってくれる。過去、現在、未来。唯一、時空を超えることの出来る存在はやはり言葉なのではないか。日毎にそれを感じる。そしてこういう自分の感覚を呼び起こす様な言葉に出会う瞬間、僕の世界は開かれるものになる。その時だけ僕は時空間を移動できる、いわばタイムトラベラーになれる。

科学の進歩が進めばタイムマシンの発明も可能であると言う。理論上、未来には行けても過去には行けないらしい。また、名作『バック・トゥ・ザ・フューチャー2』にもある通り、仮に過去に戻れても所謂「タイムパラドックス」みたいなことも起きる訳だ。そう考えてみると、タイムマシンに頼って過去や未来に行くのにはロマンはあるが、その代償は大きい。そう考えるとやはり言葉というのは素晴らしいものではないか。

だが、そうは言っても限界がある。先に書いた通り、言葉は「掴めた!」と思った途端にスルスルと零れ落ちてしまうものである。そして、それを辿る側の人間、つまりここでは僕になる。僕がそれをしっかり掴めるグリップ力が無いとそれは一瞬にして消え去ってしまう。僕はいつもそれが悩ましくてこうしてnoteにダラダラと長ったらしい文章を書いてしまうのだが、それでも取りこぼしてしまっている部分は少なからずある。

文学作品を読むことの良いことは、そういう僕等が日常で取りこぼしてしまう部分を作家の技量、グリップ力の技術によって僕等に提示してくれることにある。言葉に出来なかった「あの時の」感情、「これから」起こるであろうことへの感情。そういったものを言葉を駆使して提示してくれる。言ってしまえば、日常の僕等が見落としてしまったことを再現してくれる。読む側の僕等に求められるのは、そんな又とないチャンスを今度こそ取りこぼしはしまいという気概とグリップ力である。

だが、今の読者は僕を含めてもそうだが、どうもその意識が希薄であるような気がしてならない。提出されたものをただ素直に受け取り「ああ、良いわ」で終わってしまう。勿論、それはそれで1つの読書の愉しみであることは言うまでもない。しかし、それだけでは肝心な事、自分自身が大切にしたい何かをいざという時に取りこぼしてしまうことがあるのではないだろうか。与えられたものをただ受け取ることは誰にだって出来る。それを大切に心で受け止めるという、謂わば「全身的読書」が必要なのではないかと僕には思われて仕方がない。

些か話は脱線するが、僕は散歩をすることが大好きである。

それは単純に日常に在る何かを再発見するという意味合いも当然ある訳だが、僕の場合は加えて今まで読んだ作品を受け止める為に散歩をしている部分もある。例えば、僕は神田川沿いを散歩するのが大好きなのだが、歩いていると季節ごとに雰囲気みたいなものは変化している。当然と言えば当然かもしれない。同じ道でも様相は異なって来る。その時にふっと頭の中に現れる言葉、作品というものがある。過去に読んだ作品の部分、あるいは全てが思い浮かぶことがある。

それによってはじめて作品は作品として成り立つものだと僕は考えている。何も自室に籠って本を開いて読むことだけが読書の愉しみではない。自分が経験することの中にふっと現れる言葉や作品を大切にすることも読書の1つであると僕には思われて仕方がないのである。僕が散歩時に必ず本を持って歩くことにはこういう意味合いもある訳だ。言葉は何も言葉だけで独立するものではない。

改めて書く必要も無い訳だが、言葉は言葉だけで自立しない。それは書く側と読む側が居て初めて成立する存在である。言葉が勝手に生きていると思ったら大間違いである。同じ言葉を使っていても、それを使う人間によってその語感や音は当たり前だが異なって来る。何も言葉は通り一辺倒の物では決してないはずだ。だからこそ、僕は「全身的読書」をしたいと常々考えているのだが、これが中々難しいものである。


はてさて、話が脱線しすぎてもあれなので戻ろう。

それで『日本語と日本人の心』を読んだ訳なのだが、これが物凄く良かった。年に数回はこういう作品に出会う訳だが、恐らく今年1番ぐらいと言っても過言ではないだろう。これは文学を知らない人や、本を読まない人でもぜひ読んで欲しい1冊である。言ってしまえば「日本語が母語である人間はぜひ読んで欲しい」というところである。

この本の概要を簡単に書いておくと、この本はシンポジウムの記録である。河合隼雄、谷川俊太郎、大江健三郎の3人によって行なわれたものである。3部構成になっており、1部は河合隼雄の講演、2部は3人による座談会、そして3部は谷川俊太郎による講演である。特に2部の所がかなり濃密で、文学をやっている身からすると「あの大江健三郎と谷川俊太郎!?」となるはずだ。河合隼雄も精神分析の観点から様々に語る部分は興味深い所があった。

以下、僕が興味深いと思ったところを引用したい。

そこで基本的に、私は文学表現はすべて個人の独創ではないと考えているのです。共通の言葉のなかからあるものをつくりだしてくる。それが読み手と書き手との出会いとでもいいますか、いま河合さんがおっしゃったような人間と人間の話し合いのなかで、ある言葉が、しっかりきまる瞬間があるのです。そういう出会いが、つまり独創性である。
 そういう出会いをいろいろな人がつくり上げてきた、ドストエフスキーがつくり上げてきた、トルストイがつくり上げた、ゲーテが、芭蕉がというふうに私は思っています。
 ですから、文学の創造性ということを、神が最初にものをつくった創造性となぞらえて考えることは、私はまちがいじゃないだろうかと思う。言葉という共通のものを用いながら、しかも個人の輝き、この人だけのものという輝きがあるものをつくりだすのが文学で、それは無意識とかいうことよりは、共通の言葉をどのように磨いていくかということに問題がある。共通の言葉にどのように耳をすますかということに、カギがあると私は思っています。

谷川俊太郎・河合隼雄・大江健三郎「日本語と創造性」
『日本語と日本人の心』(岩波書店 1996年)P.96,97

これは大江健三郎が話していたことなのだが、非常に染みる言葉である。言葉というものは既に使われている訳だ。僕等は当たり前のように日本語を話し、当たり前のように日本語で読み書きをしているのである。つまりは使い古された言葉である。言葉は言葉自体で既に存在している。新しい言葉を作るのではなく、それを如何に自分らしく表現するのか。ここが肝要であるのだ。

「共通の言葉にどのように耳をすますか」

再三に渡って書く訳だが、僕等は日本語を使って話す。それは日本に居るし、僕にとっての母語は日本語である。僕等は伝達手段としての日本語を使用している訳だが、その言葉の中にはもしかしたら同じ日本語でもその人独特の日本語が存在するはずである。しかし、とかくそういうものは僕等も意識として「伝達」ということに主眼が置かれているために聞き逃してしまうことが多い。

やはり、読むことと書くことが両輪のように、聞くことと話すことも両輪である。そして聞くことは同時に読むことを孕み、書くことと両輪となる。しばしば「傾聴力」とビジネスシーンなどでは声高に叫ばれる訳だが、それは相手の言葉に耳をすますことの1歩目でしかない。何故ならそれは「聞く」ということに終始しているからである。表現はその先にある筈だ。何か自分が言いたいことを伝えるにしろ、まず聞いてからでなければならない筈だ。だからこそ、聞くことにも注力したいなと思った。

 創造というのは、新しいものをつくること、いままでになかったことをつくることというふうについ思いがちですが、いま大江さんのお話をうかがっていても、そういうふうなものではない。つまり人間の長い歴史、あるいはもっと宇宙全体の歴史からみれば、ほんとうにくり返されているようなことでも、一人の個人にとってはつまり非常に新しい創造になりうるという気がぼくはするのです。
 先ほども河合さんが、『源氏物語』を生まれて初めて読んでたいへん感銘したとおっしゃっていましたが、あれは『源氏物語』という女性によって描かれた優れた物語が、いつまでも古びないのであるというふうに考えるよりも、それを読む人、受け取る人のその感じ方によって、何度でも甦るというふうに考えたほうがいいという気がするのです。
 だから、どんな小説も詩も、それを読んでくれる人がいなければ、たぶん音楽の楽譜みたいなものですよね。楽譜はそのままだったらぜんぜん音になっていないから。だから、読まれたときにその読んだ人が感じるものによってそこに音楽が鳴り響くように、やはりその作品が創造される。

谷川俊太郎・河合隼雄・大江健三郎「日本語と創造性」
『日本語と日本人の心』(岩波書店 1996年)P.118,119

これは谷川俊太郎の発言である訳だが、僕はこの作品の中でここが1番心にグッと来た。特に「それを読む人、受け取る人のその感じ方によって、何度でも甦る」というところである。作品は、ひいては言葉はそれ自体で自立していると思いがちだが、それは受け取る側によって生命を与えられるものである。僕はこの1文を読んで、やはり読者側の素養であったり、あるいは批評の重要性について改めて考えたくなってしまう。

僕は過去に批評の重要性を説いてきている。簡単に言ってしまえば、そこに在る作品を新たな視点を以て現出させるという効力を持つ訳である。今まで通り一辺倒な読みしか出来なかった部分に新たな視点を以て「こういう読み方もあるよね」と提出してくれる。そして作品そのものを更に高次元に引き上げる効果がある。僕はそういうことを考えている。

しかし、批評というものが効力を失い、ただ名前だけ「文芸評論家」として面白くもない文章を書いている人ばかりの本が書店には陳列され、ただ消費されている感が否めない。とにかく「分かりやすく」が先行し、せいぜいSNSだかでバズって勢いで本を出しましたというようなものばかりが並ぶ。勿論、分かりやすさは重要である。何も小難しいことばかりを書いている本が偉いとは僕は思わない。だが、そればかりが溢れている現状には危機感を抱かざるを得ない。

作品の創造。これは何も1人で出来る訳ではない。無論、制作という現場に於いては1人で出来るかもしれない。現に僕はこれを1人クーラーの効いた自室で書いているのだから。だけれども、これが作品として成立するにはやはり読んでくれる人が初めて居て、僕のこのnoteは作品として成立する訳だ。だから何も僕は1人でnoteを書いているつもりは実は微塵も無くて、僕を支えてくれる多くの人の上に成り立っていると考えているのである。

そして、僕も一読者として読む力、先の自分で書いた言葉で言えば「グリップ力」を身に着けたいと考えているのだ。だが、こう簡単に書いてみても中々難しいことではある。日々自分が如何に言葉に対して意識的に読書が出来るかということが肝心になってくるはずだ。言葉に耳をすまし、そして何度でも甦らせるような読書を僕は求めて読み続けるのかもしれない。


はてさて、長ったらしくなってしまった。

実は書いている途中で煮詰まったので、少し散歩して来ようと思って外に出た。しばらく歩いていると、「あ、これ書こう」と思ってものの数分で引き返しこれを書き上げた。我ながら書くことにとりつかれているんだなと可笑しくなってしまう。考え事を持ち込んで散歩をするのは良くない。

最後にこの部分を引用してこの記録を締めよう。

 簡単に言うと、日常会話であれ、短歌を書くにしろ俳句を書くにしろ、あるいはほかのものを書くにしろ、やはり本音を書かなきゃ創造的にはなれない。説教じみて言えば、みんなが本音をもっと語れば日本語はいきいきしてくる、創造的になってくるのではないか。これは日常会話も、論文も芸術作品も問わないという気がします。ただその本音をつかむということがまた極めて難しい。

谷川俊太郎「日本語を生きること」
『日本語と日本人の心』(岩波書店 1996年)P.199

よしなに。


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