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雑感記録(282)

【名前と意味】


しばしば、「季節外れの」という枕詞が使用される。僕はその言葉を見たり、聞いたりすると「何だかな」と思う。「季節外れ」と言うのならば人間はいつでも、「季節外れ」の存在ではないのかといつも思ってしまう。そもそも「季節」という概念、「四季」を考えだしたのは我々人間である。そこに既にあるのは事実であって、それをどう呼称化するかというだけの問題である。そう考えると、何か物が存在するということに季節性などは無く、その殆どが「季節外れ」なのである。

台風1号が近づいているらしい。

名前はEWINIAR(イーウィニャ)と言うらしい。デジタル大辞泉によると、ミクロネシアによる命名で「嵐の神」を意味するらしい。とここまで普通に書いている訳だが、少し待って欲しい。既にこのEWINIARは西暦2,000年に台風に使用されているというではないか。2,000年に付けられた名前が再びこの2024年に名付けられるという事態が僕にはよく分からない。今回の台風は過去からやって来たとでも言うのだろうか。

インターネットで調べてみると、気象庁がご丁寧に「台風の番号とアジア名の付け方」と言うものを掲載しているではないか。なるほど、面白い。

このサイトによれば2,000年の第1号台風から140個のリストを1から順につけているとのことだった。詳細についてはこのサイトを見てもらうとして、僕は何だか面白いなと思った。別にその時に観測された台風と同規模で似ているから同じような名前を付けたのかと思っていたら、それは大間違いだったらしい。ただ、各国で出した140個のリストを順番に名付けている。ただそれだけだった。


とかく、何かに「名前」を付けられると僕等は何かを意識せざるを得なくなる。例えば、先に書いた通り、僕は「EWINIAR」を検索したら2,000年にも同様の「名前」があった。そして今回の台風と2,000年に発生した台風をそのせいぜい数文字の「EWINIAR」と同じであるということから「きっと何か繋がりがある」と勝手に思い違いをして、調べて行った訳である。だが、現実はそんな意味などなくて、ただ単純に140個の文字列から順番に割り振り、たまたま2,000年に同名の台風があった。それが24年の時を経て、たまたま重なったということに過ぎない。

どうということは無くて、たまたま、偶然。

何だか人はえらくその偶然性に対して各種論じている。「偶然が重なれば、それは必然だ」とか何とか言って恰好を付ける人も存在する。だが、僕からすると…考えものである。つまり、これは自分の力でどうすることも出来ないことを無理矢理「どうにか出来ること」に変換しようとすることな訳でしょう。これは正しく「意味」を与えるということに他ならない気がするんだなと激しい頭痛の中で考える。

別にそれはそれで構わない。何かの事物に対して積極的に自らを没入させることは、物事を考える上では大切なことだと思う。しかし、そればかりというのは、どうも疲弊してしまって仕方がない。何と表現したらいいか分からないのだけれども、その偶然を偶然として捉えることって出来ないのかなと思ってみたりするのね。

だから、僕が詩に可能性があると思ったのはこういう側面もあるからなのかな…とふと思って見る。


僕は常々、「詩を朗読する」ことが好きであると書いている。

実際にやってみると分かるが、これが果たして作者が意図しているかあるいはそうでないかはどうでも良い。だが時たま、音で読む時のリズムの韻みたいなものが偶然響き合って、その詩が文面だけでは分からないような感触を以てこちらにやってくることがある。本当に一遍で良いから、大人になった今だからこそ、こういう文章を朗読してみると面白い発見がある。

まあ、そんなことはさておいてだ…。

とにかく、詩を声に出して読むと、偶発的なものに気づくことが出来る。特に音と文字の齟齬みたいな部分。音の出し方1つでも哀しい詩がどこか明るい側面を持っていることに気づくし、文字やその意味だけ捉えると如何にも明るい印象の詩だが、声に出して読んでみるとその節々に悲哀さが滲んでいたり…こうした偶然な出会いが数多く存在している。

僕はこれを純粋に愉しんでいる。

だが、それ以上のことはしない。ここに僕が「いや、この偶然と言うのはだね…」と説明してしまったら面白くないだろう。無論、それを言葉にすること、つまりは自分がその偶然に対して何を感じてどう愉しかったのかということについて考えることは重要である。だが、終局的な行きつく先として「色々と書いてみたけど、やっぱこりゃ偶然だよ。」というように僕は持っていきたいと思っている。

つまり、僕は意味から逃げたいのだということであり、いつだったかの記録の反復を台風に見たというだけの話である。

僕は逃げたいんだな…。


最近、凄く考えるようになったんだけれども、考えるって何か手放しにするものなのかなと。つまり、考えることを「なんで」「どうして」という言葉で逆に僕らの脳みそを縛り付けている。そんな気がしてならないのである。この「なんで」「どうして」という言葉の後には「それは…だから…で、それで…だ。」というような、一見すると上手く道筋を辿っているようには見えるが、言葉の上ではゆとりが無いなと思う。所謂「あそび」がないと思う。

だから、如何に言葉そのものから逸脱するかということを僕は考えている。言葉を書き、言葉を話すということは少なくとも、伝達する人間が届かせたい相手に意味を付与するし、言葉自体も意味があり、二重の意味が重なり合う。それに加えて、音声や環境も加えれば意味のミルフィーユの出来上がりである。だが、僕もいくら甘いものが好きだとは言え、毎日ミルフィーユばかり食べていたら飽きるし、それこそ糖尿病になりかねない。つまり身体に悪い。

そうすると必然的に、量を減らす訳だ。だけれども、僕はミルフィーユを食べたい。そして僕は気付いた!そうだ!1枚1枚、剥がして食えばいいんじゃないか?しかも、1日1枚とか、食べる間隔を開けておけば問題ない。僕がやろうとしていることはその作業である。1枚1枚剥がし、食べる。それが僕がやりたいこと、やろうとしていること。

捲っている間に偶然にもクリームが沢山入っている箇所見つけたら嬉しいでしょ?それを「いや、ここにクリームが大量にあるのは、記事の薄さからして○ミリで、ここにホイップクリームを入れるから…。いや、しかしこれは既に切られている訳で、扇形でなくて、円で考えなければならない…。」とかって言ったら面白くないでしょ。そんな意味なんて持たせない方が愉しいし、より「あそび」を以て考えられると思うんだ。

そう、「あそび」これが肝心だ。

昨日の『ことばを中心に』を読んでから少し言葉に対する考え方が変わってきたのかもしれないなと思ってみる。

よしなに。

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