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事情を知りたい
あんなに声高に相手をやり込めたらさぞかし気持ちがいいだろう、と思うことがある。
我こそが正しい、非は相手にありという血相で、早口になにかを主張する。
できそうで、できないことだ。
「あなた、会社でじゅうぶん言いたいことを言っているじゃないの」
という同僚の声が聞こえそうだが、それはちょっと違う。私が言いたいことを言うのは、自分より目上の人間にだけだ。上司、そのまた上司、彼らと同じ階層にいる他部署のマネージャーやディレクター達には言いたいことを言い、聞きたいことを聞いて構わないと思う。
多くの社員が自分より明らかに年下になってしまった今、
「弱い者いじめをするな。言いたいことを言っていいのは上の人間にだけだ」
という父の言葉を守ろうとすると、派遣社員や業務委託先の他社の社員にはかなり遠慮してモノを言わなくてはならない。
「マニュアルと違うやり方をしてミスしたんだね?マニュアルがここにあることは知っていた?」
と聞いても、パワハラになるかもしれない。
先日、劇場で映画を見ていたら、右斜め後ろの方でうゎーっという声が上がった。
その時見ていたのはWBCのドキュメンタリー「憧れを超えた侍たち」だ。スクリーンの中の歓声につられて思わず自分も喜びの声を発したのか、なんという純真な人か、とちょっと感動する。
ところがいつまでも、わぁわぁ言う声が止まらない。正確に言うと、わめきたいのを抑えて静か話しているために、より耳障りになっている声で何かをしゃべり続けている。
今のシーンに感動したのはわかるが、それをお連れの方と共有するのはあと1時間待ってもらえないかなと考えていると、声の主が一言大声で何かを言った。びっくりして振り返ると、その人が席をたって私の後ろを左から右に動き、通路にぴょんと出た。
私の席は通路から2つ目なのでその物体が良く見える。
小腰を屈めて階段を下りていく後ろ姿は、60代後半から70代の女性に見えた。痩せた背中は丸いが足が速い。小走りでスクリーンの前を走り去った。邪魔にならないように体を低くしてはいるのだが、首がひょこひょことして、かなり目障りな動きだ。
たぶんお手洗いが我慢できなかったのだ。私も長いスカートを穿いているのにふくらはぎが冷えてきた。膝も冷たい気がする。隣の女性はビールなんか飲んで、よくトイレに行きたくならないな、などと考え始めたのは、今の韋駄天のせいで私の集中力が削がれたからだ。
と、2分もしないうちにスクリーンの右脇にさっきの女性が現れた。用を足したにしてはずいぶん早いなとみていると、また体を低くしてスクリーン前を左に横切り、階段をあがってくる。ヘアスタイルはショートで少しだぶついたカットソーからしわのある首がのぞく。スリムパンツの裾はかなり短く、ショートソックスの上に足が3センチほど見える。スニーカーインのソックスにすればスッキリするだろうけれど、足首を冷やすと本当に体が冷えるからなぁと同情する。首にもなにか巻いた方がいい。
彼女は席に戻らず、私の列の一段上の階段に腰を下ろした。席に戻るのに他の観客に邪魔にならないタイミングを計っているのだなと思っていると、すぐにまた取って返して階段を降り、スクリーンの前を走って行った。さっきより少し目障り度合いが上がった気がする。
また戻ってきて一つ上の階段に腰を下ろした彼女は、相変わらず席には戻らない。
ふと、話し声がする。振り返るといつの間にか劇場係員が彼女のそばに来ていた。そうか、お連れの方が具合を悪くして係員を呼びに行っていたのか。それにしてもこの係の方はすごい。いつどうやって現れたのかまったく気づかなかった。誰の邪魔にもならない身のこなしを教えてほしいくらいだ。
低い声で何かを話している。係員は若い男性のようだ。件の女性も低い声で話そうとするのだが、ケンケンと語尾が響く。なにかにクレームをつけているのか。
階段を二回も降りて登って、冷えた劇場の階段に座り、声高に言いたいことを小声で訴えなくてはならない事情はなんだろう?わからない。が、係員が一人で話を聞いていることから見て、どうやら誰も体調を崩してはいないことはハッキリした。
係員は宥めるような口調で話し続ける。彼女が何かをキーキーと言い返す。私はもう、そちらの事情を知りたくて仕方ない。侍ジャパンは世界一になることはどうせわかっているのだ。
右斜め後ろを振り返る。劇場はほぼ満席だが、彼女の居たあたりには彼女よりも若い女性ばかりが座っているように見える。痴漢行為があったとは考えにくいが……いやいや、こういう決めつけが数十年にわたる性加害を生んだのだ。もしかしたら若い女性が中高年の女性に不埒なふるまいをしたのかもしれない、と考えたのは、画面に書類送検されたばかりの性加害者がちらりと映ったからだ。この部分、上映前にちょっとカットできなかったのか、と思ったのは私もクレームモードになってきたからだろう。
低い声がもう一度何か言い、白いシャツの係員が頭をさげる気配がした。女性は席に戻ろうと私の後ろの列に入ってきた。私はあわてて背もたれから背中を離す。後ろを通る人のカバンで頭を殴られたことが何度もあるのだ。案の定、彼女も私の列の背もたれをグッ、グッと握りながら、真ん中の席まで戻っていった。階段に座っていたのだから足もしびれているかもしれないし、たぶん彼女の敵はまだ退治されてはいないのだから腹も立っているだろう。
劇場には静寂が戻ったが、私の集中力はなかなかスクリーンには戻らない。その後も、後ろの列で何があったのかを考え、一試合の半分ほど見逃した。
画面はメキシコとの準決勝になっていた。これも勝つことはわかっているから早送りにして、さっきの経緯と結論を知りたい。
村上が打った。ハッとして画面を見る。周東のベースランニングをホームベース方向から映している。二塁を蹴って、ぐんぐん大谷に迫っていく。ニュースで使われていない映像だ。これを見られただけで2200円の価値がある。巻き戻してもう一度見たい。
決勝戦に入っても私は気もそぞろだった。ダルビッシュの美しい胸鎖乳突筋を見た時にやっと、次のWBCにこの千両役者はいないかもしれない、じっくり目に焼き付けなければと、集中力が戻る。
大谷が帽子を投げマウンドで飛び上がる。もっと涙が出るかと思ったが、意に反してそうでもない。本戦の録画やニュース映像で見慣れすぎたか。いや、さっきのクレームの事情を知りたすぎて、映画がどうでも良くなっているのだ。
エンドロールが流れ、数名が席を立った。エンドロールも作品の一部だと思って作っている人達がいるのに、それを分かって楽しみにしている観客もいるのに。
座っている人間は邪魔だ、というようにバタバタと立ち去る人たちを引き留めて、一人一人にクレームをつけたいと心から思う。
がタイミングが難しいので、いつも黙って身をよじりスクリーンに集中する。
真っ黒な画面から一転、場面が転換してとある選手のとある一言で映画は終わる。劇場の空気がふわっと和らいだところで、灯りが点いた。
さて、あのお婆さんはと見回すと、彼女と思しき人が「すみませんでした、すみませんでした」と周りの人に頭を下げながら階段を下りて行った。居たたまれない空気だったのか、誰よりも動きが速い。その後から、高校生か大学生くらいの女の子と年配の女性が続く。年上の方が女の子を慰めていた。どうやら彼女たちにすれば理不尽な言いがかりをつけられたようだ。
何があったのか事情を知りたくて仕方ない。引き留めて事情を聴いてみるか。
と、私の左隣の女性が立ち上がり、私に向かって
「どうもありがとうございました。本当に助かりました」
と言った。一瞬ぽかんとするが、上映前のことを言っているのだと思いあたり、私も挨拶をする。
私より少し年上に見えるその方は麻の和服を着て、ビールをドリンクホルダーに、ポップコーンのトレイを私の席に置いていた。私がそこに座ろうとチケットを見せると、あわててトレイを自分の膝の上に置きなおしたが、山盛りのポップコーンがこぼれそうにトレイが傾いだ。このままだと、ビールかポップコーンか、どちらかが着物を汚す。おばさんがおばさんに注意してあげるのは、何ハラにもならないだろう。私は声をかけた。
「あの、失礼ですが……トレイはホルダーに刺さりますけれど」
「え!?」
目を丸くしている女性に、身振りでトレイの小さい方の穴にドリンクを入れて、その部分を座席のドリンクホルダーに刺すのだと説明した。
「あら~、知りませんでした。良かったわ~、これじゃこぼしそうだと思っていたんです」
と恥ずかしそうに笑った。映画館に長く来ていなかったのか、ポップコーンまで買うのが久しぶりなのかもしれない。
劇場が暗くなる直前、若い男の子が右奥の席に入ろうと彼女をまたいだ時に、後ろ足でポップコーンの底を蹴った。数粒のポップコーンが弾け飛び通路に転がる。後ろ足に何かが触った感覚があったと思うのだが、彼は振り返りも、ましてや謝りもしなかった。蹴られた彼女も黙っていた。
彼が無理に彼女をまたいだのは、傘ホルダーに刺してあった彼女の日傘の柄がかなり通路に飛び出していたからだ。彼女は膝は引いたが、高価そうなその日傘は通路をふさいだままだった。私も指摘はしなかった。若者もよけてくださいとは言わず、彼女の膝と日傘をまたいだ。容器を蹴ったのは誤りだが、謝らなかったのはざま見ろと思ったからかもしれない。
少し間があり、連れの若者が列に入ってこようとした。今度は彼女も日傘を体に寄せた。彼は彼女と私の膝の前の空いたスペースをカニ歩きで通って行った。
先に席に着いた若者が慣れた口調で言った。
「よくこんな映画にこれだけ人が入っているよなぁ。結果がわかっているのになぁ。日本人ってこんなに野球が好きだったのかね。だいたいさぁ……」
へらへらと持論をぶち続ける若者に、
「うるさいんだよ!偉そうなことを言う前に他人様の召し上がり物を蹴り上げたことを謝りやがれ!」
と言いたかったが言えなかった。まだ上映前なのに言えなかった。
あのお婆さんには暗がりの映画館を駆け抜けるほどの、何があったのだろう。
上映後のお手洗いの列には、あのお婆さんの姿も女の子の姿もなかった。
洗面所の鏡で髪の毛を直しながら、女の子の頼りない首ががっくりうなだれていた様子を思い出した。隣で慰めていた年配の女性も、連れがひどい目にあったと怒りに震えるでもなく、一緒に肩を落としていたから、ごく大人しいまともな二人なのだろう。
もしかすると、お婆さんの手荷物がこちらに当たっているので、すこし除けて欲しいとでも言ったのかもしれない。映画に夢中になっているのに水を差されて、お婆さんはなにか言い返したのかもしれない。
あの時、聞こえた声は一人分だった。自分の反論に興奮してさらに大声を出したお婆さんは、やり込めるだけでは収まらず、どちらが悪いか判定してもらおうと係員を呼びに走ったのではないだろうか。
結局、事情はわからない。はっきりしているのは、私が映画の一部を見逃したということだけだ。
まあ、いいか。思い出に残らない映画も多いが、今日の出来事はWBCの映画を記憶に刻んでくれたに違いない。