「やおい」に対して、ゲイ当事者から抗議が起こらなかったのは、「彼らが男性特権を持っていたから」なのか・・・『BL進化論 対話篇』 作家 C・Sパキャット氏との対話

溝口彰子さんの『BL進化論 対話篇』の、オーストリアの「M/M」(メール・メール・ロマンス、男性同士の恋愛を中心に描く小説)作家、C・Sパキャット氏との対話の中で、同氏は以下のように述べている。

ところで、ここ一~二年、「M/M」が主流文化で認知されるにつれて、LGBTコミュニティ、というか主にゲイ男性から、こんな膨大な小説群が「我々についての物語なのに、我々によって書かれていない」「ゲイ男性の姿を搾取しているのでは」という話が出てきています。きわめて政治的なトピックです。

溝口彰子「BL進化論 対話篇」

これに応じて、溝口さんは、1990年代初頭の日本でのいわゆる「やおい論争」について、以下のように説明している。

そういった論争は日本でも一九九〇年代前半からなかばにかけて、ありました。「やおい論争」とよばれるものですが、二次創作の同人誌が増えて、さらに、商業BL本がどっと増え、BLが可視化された時期に、ゲイ男性から、「ここで描かれているニセゲイ男性たちによるラブとセックスは、実際のゲイ男性を搾取している」という苦情が出たのです。・・・中略・・・
「やおい論争」戻ると、多くの人は、大々的なゲイ・コミュニティからの抗議であるように誤解していたのですが、実際には一人のゲイ男性が、とあるフェミニストのミニコミに過激な抗議文を載せたところから、複数の女性たちが応答した論争だったんです。・・・(中略)・・・当時の一般のゲイたちは気にもしていなかった。なぜなら、彼らは男性特権を持っているので、たまたまBLをーー当時の言葉としては「やおい」でしたがーー目にして不愉快になったとしても、実際にそれらの表現物を脅威に思う事はなく、無視すればよかったのですから。

溝口彰子『BL進化論 対話篇』

当時(90年代初頭)に、ゲイの側から、「やおい」に対する目立った抗議がなかったのは事実である。いわゆる「やおい論争」が、ミニコミという、限られた場で行われたのも事実だ。しかし、当時、ゲイから大きな抗議がなかったのは、「彼らが男性特権を持っていたから」だとは私は思わない。抗議することが難しかったからだと思う。当時は、ゲイに対するもっと直接的な差別な表現や嫌がらせに対して抗議することも難しかったのだ。(今も簡単なことだとは思わない。)

東京都が市民団体「動くゲイとレズビアンの会」(アカー)による「府中青年の家」の利用を拒否したことに対し、1991年、アカーが後に「東京都青年の家事件」と呼ばれる訴訟を東京都に対して起こした。それは本当に画期的なことだったし、アカーの人たちには本当に勇気があった。(アカーと「東京都青年の家事件」については、溝口さんの前著『BL進化論 ボーイズラブが世界を変える」でも「やおい論争」の時代的背景として、紹介されている。)

アカーが裁判を起こしたことは、今ならば当然と思うが、当時の自分は、かえって同性愛者の立場を危うくするもののように感じていた。「もし、裁判で勝てなかったら、同性愛者は公共の施設を使えなくなってしまうのではないか」、とも思っていた。少なくとも、私の周りでは、多くのゲイ当事者が裁判を積極的に支援しているとは思えなかった。また、一般のメディアの多くがアカーに対して同情的だったも思わない。いわゆる識者といわれる人たちで、アカーの裁判を支援した人も非常に少なかった。当時、同性愛者が社会の中で抗議するということは、とても難しかったと思う。

1991年3月30日、東京地裁は東京都の処分は不当なものであったと認定したが、東京都は不服として東京高等裁判所に控訴した。控訴趣意書では、同性愛という性的指向を、性的自己決定能力を十分にもたない小学生や青少年に知らせ混乱をもたらすため、秩序を乱すことになるのが問題であると述べられていた。1997年9月16日、東京高裁は都の控訴を棄却。東京都は上告しなかった。

「やおい」に対して抗議するには、ゲイ以外の人々に対して、自分がゲイであることをカムアウトしなければならない。当時、それは今よりも更に難しかった。

そのような状況に何も触れず「なぜなら、彼らは男性特権を持っているので、脅威に思わず無視できた」と海外の作家に対して説明することに、大きな怒りを覚える。

もし、「やおい」やBLに対するゲイ当事者からの抗議が起きないのが、ゲイ当事者が「男性特権」をもっているからだとしたら、英語圏のゲイ当事者からM/Mに対する批判が起きていることの説明がつかない。彼にも「男性特権」はあるのではないか。むしろ、英語圏のゲイ当事者の方が、(日本よりは)社会において抗議しやすいので、M/Mに対する批判が激しいのではないだろうか。

そのような日本の状況の中で、『やおい論争』がなぜおこり、そして記録されているかといえば、当時(1992~1994年)、「やおい論争」の舞台となった、フェミニストのミニコミ誌である『CHOISIR(ショワジール』が、ゲイ当事者の声を取り上げ、それに対して、女性から真摯な反応があったからである。

それから20年以上経って近年出版されたBLについての研究書が、ゲイ当事者からの抗議や批判を正面から取り上げているとは私は思わない。

そのことを思うと、『CHOISIR』がいかに公平な立場をとっていたかを強く感じる。

この対話の中では、その後もパキャット氏からゲイ当事者による批判の話が出てくる。

パキャット そうです。「Shojo(少女漫画)」の伝統がない。だから、「見るという行為」はいまだに男性的だとされています。そのなかで、「M/M」は英語圏の女性にとって斬新なんです。「私たちが性的に見る人(セクシュアル・ルッカーsexuallooker)になれたのはこれが初めて」という女性がたくさんいます。女性のセクシュアリティを探索する場として「M/M」が機能している。これは革命的なことです。一方で、ゲイ男性側から「『M/M』で描かれているのは本物のゲイじゃないつもりかもしれないが、『ゲイ男性みたいなキャラクター』なのだから、我々ゲイを搾取している」と言われてしまい、それにも一理ある。非常に白熱した論争です。
溝口 なるほど。『BL進化論』で論じたことのひとつに、女性作者と女性読者は、BLの「受」キャラだけに同一化/感情移入しているのではなく「攻」にも同一化しているし、また、ふたりの関係性と物語宇宙全体を目撃するポジションも持っていて、その三つが常に同時進行している、ということがあります。

溝口彰子『BL進化論 対話篇』

パキャット氏が、『M/M』が英語圏の女性がセクシュアリティを探索する画期的な場になっている一方、ゲイ男性からの批判があり、それにも一理ある、と言っているのに対し、溝口さんは「なるほど」といった後は、ゲイ当事者からの批判については全く触れずに、女性作家と読者にとっての意義のみを語っている。

パキャット氏は、ゲイ当事者からの批判も一理あるとし、この「白熱した論争」に関心をもっているの対し(この対談の中で何度もゲイ当事者からの批判の話を自ら触れている)、溝口さんはできるだけ触れないで済ませようとしている。パキャット氏の問題提起に対し、溝口さんは90年代の「やおい論争」の話を持ち出し「あれは例外。一般のゲイは男性特権を持っているので、たまたまBLを脅威に思う事はなく、無視すればよかった」とまとめている。少なくとも、この対談の中では。

私自身は、「やおい」もBLも、ファンタジーとしては、表現の自由だと思っている。でも、その中に、ゲイに対する差別的な表現があれば、文脈等も考えた上で、抗議すべき時もあると思う。でも、そうしなかったのは、根性がないからかもしれない。でも、家族にも友達にも職場にもカムアウトしていない人がほとんどのゲイ当事者が、BLに抗議なんてそうそうできるだろうか。ゲイとして色々な問題に直面する中、時間やエネルギーのリソースをBL批判に割くことができるだろうか。なぜ、「抗議をしなかったのは、彼らは男性特権を持っているから」といわれなければならないのだろうか。

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