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いつの間に私たちは日本人化したのか〜映画『小学校〜それは小さな社会〜』を鑑賞して
今回は、映画『小学校〜それは小さな社会〜』を観た、元小学校教員である私が映画から気づいた公立の小学校のリアルな教育について整理していきます。
※尚、この記事で表現している内容は全て、現行の公教育や社会に対する率直な思いであり、決して本映画に出てくる教師や子供、保護者に対する私的な感情ではないことをご理解いただけますと幸いです。
どんな映画か?
この映画は、全国の小学校でもよく見られるような東京都内のごく普通の公立小学校の日々に密着して出来たドキュメンタリー映画です。
この映画を見れば、小学生の1年間の主な流れや教師の年間を通した働き方がよく分かります。また、この映画は、ある児童数名をクローズアップして、連続的にカメラで追いながら映画が進行していくことで、大小様々な壁を乗り越える1人の児童の人間的変化や成熟の姿も垣間見ることができる映画となっています。児童の家庭での顔と、学校での顔を両方見ることができるのもこの映画の興味深いポイントです。
ルールの細かさに翻弄される子どもたち・止まらない先生の注意
この映画の始まりでは、新しく小学校に入学してきた新1年生の密着から始まります。学校に入学してきたばかりの子どもたちは、学校に無数にあるルールを知り、そのルールの細かさに少々居心地の悪さを覚え始めているようでした。
子供達が廊下に出て整列するだけのことに対して、「静かに並びましょう」、「廊下に出たらしゃべりません」、「前を向いて歩きましょう」「フラフラしません」、と先生の注意の声掛けが止まらない様子も本当にリアルでした。。。
子供の成すことに対して過剰とも思える声掛けをしないと気が済まない先生が多いのは、担任1人が見届けられる子供の数を遥かに超えていること、クラスの子どもたちの素行の悪さは担任の力量不足という同僚や管理職からの評価の目が少なからずあるからだと映画を見ていて感じました。
教員を辞めた今当時を振り返ると、ただ廊下を歩く、階段を登る、靴を履き替える、などの一つの行為に対して必要以上な声掛けをするのが公教育での当たり前になっていました。そこには、子供達への信頼が大きく欠如していることが色濃く現れています。過干渉・過保護とも表現できるかと思います。そんな言わば“おせっかい”にも聞こえる指導のシャワーを浴びて育っていく子どもたちは1年後どうなっているのでしょうか。
入学当時子供らしさ全開だったAさん
私が特に映画を見て印象に残った子ども(以下、Aさんと呼ぶ)は、1年生の頃、廊下を歩くときクルクル回転しながら歩いて、先生に指導されているシーンがありました。授業を受ける時も、まっすぐ手をあげたり、大きな声で返事をしたりすることに恥ずかしさやと惑いを見せていた一面を持ち、また一方では先述したようにどこを見て歩いているか、何を考えているのか大人からすると一見読み取りにくい一面を持ち合わせていました。余計なこだわりや尖った考え方はもたず、人としての柔らかさを兼ね備えたAさんを私は良い意味で子供らしい子だと微笑ましく見ていました。
変わり果てたAさんの姿
そんなAさんが2年生になった姿に私は唖然としました。その目つきは鋭く、正義こそ全てというような厳しい発言をクラスの人に対して行うAさんの姿がそこにはありました。印象的なシーンがいくつかあります。
Aさん「みんな静かにして!!!」
先生「注意してくれてるの誰?ありがとう」
Aさん「(すかさず自分が注意をした人だと手を挙げて主張する)はい!!!」
また給食準備のシーンでは、姿勢のいい人から給食を取りに行くシステムのようで、教壇に立ってクラスの人を教師のように見渡して、誰が姿勢が良いか見定めて給食をとりに行くよう指示を出す様子が見られました。
その姿は、まるで小さな教員でした。子ども同士の中で上下関係が生まれてしまっていることを如実に物語っているシーンでした。
「先生に認められたい」「そのために、友達を注意して、友達を悪者にして認めてもらおう」という歪んだ承認欲求の満たし方を子供達が覚えてしまう仕組みが公教育にはあるのかもしれないと思えてきます。そしてそれは、勉強や運動といった公教育で評価してもらえる部分において、自信が持てるものがないと感じている子どもに多いように感じるのは、私だけでしょうか。そういう意味で、多面的な存在である子供たちを学習と運動能力の2観点で評価することなどもはや不可能だと感じます。そもそも大人が子供を数値によって評価することは子どもに対して誠に失礼だと私は思います。
私たちはいつ日本人になってしまったのだろうか
教育活動に意欲を見出せない子供達のやる気をなんとか出すために、先生たちは苦肉の策で、子どもたちを競争させ、それが子どもたちを結果的に「煽る」ことになり、子どもたちは隣の席の人でさえ、仲間ではなく学級で生き抜くための競争相手になってしまう、という構造が浮き彫りになってきました。
「先生に認められたい」「大人に認められたい」一心で、教師の言いつけを漏らすことなく守り抜くことで教師に忠誠を誓い、自分の中の本音は決して外に漏らさない、忍耐力を身につけている子どもたち。
でも、我慢の限界が来てどこかでパンクし、登校拒否になったり、表ではとても優等生なのだけど裏ではSNS等で人を罵倒することで自尊心をなんとか保とうとしたりする子供もいます。そういう教育を受けて大人になった世代が、SNSや言葉の使い方を誤って人の命を奪う事件も頻繁に耳にするようになりました。
言葉にすると過激で嫌な気持ちにもなってくるこうした人間像に、子どもたちを近づけさせているのは、紛れもなく現行の公教育であると私は思うのです。
今、小学校を考え直すことの重要性
子供達の基礎的な人格を形成する上で大切な時期である小学校段階を考え直さないでいい理由がこの映画を見たことで無くなったように私は思います。
全ての子どもたちが社会に出た時、自らの人生に人とのつながりを求め、自分自身の生きがいを求めて健やかに生きていけるようにするには、小学校という場所を、「競争」ではなく「共同」の感覚を持った人間を育てていける場所にしなければならない、と強く思います。そう願うならば、小学校という場所で本当に大切なのは、自分の思いを相手にぶつけて終わりの「話し合い」では無く、どんなに小さなつぶやきも拾い上げる優しさを持った「聴き合い」の関係性が必要不可欠ではないでしょうか。
今回は、その温かな「聴き合い」の関係性を体現した学校こそ、私が将来真に実現したい学校の姿であることに気付かされる貴重な映画体験となりました。
ここまで読んでくださり、本当にありがとうございました。