【人間の本性を暴き出す恐怖】映画『コンクリート・ユートピア』
こんばんは。ムララボです。
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怖い映画のお話です。実は、この映画の直後に「死霊館」という、実際の事件をもとにした怖い映画をみたのですが、『コンクリート・ユートピア』の怖さは、格別と思いましたね。その理由をご説明します。
ざっくりストーリー
映画『コンクリート・ユートピア』は韓国映画です。
物語は、ソウルを襲った大地震の後、生き残った人々が唯一安全な高層アパートに集まるところから始まります。外部からの侵入者との対立や、内部での権力闘争など、サバイバルの極限状態における人間ドラマを中心に展開します。(ざっくりしぎてネタバレしようのないストーリー)
人間の本当の姿が露わになる恐怖
映画の中で、住民たちが外部からの侵入者に対してどのように対応するかは、非常に重要なテーマとなっています。自分たちの生存を守るために、他者を排除しなければならない状況に置かれた時、道徳や倫理観が揺らぎます。通常の社会では善良で理性的に振る舞っていた人々が、極限状態でどのように変わってしまうのか。その変貌がリアルに描かれることで、観客は自分自身の中にも潜むかもしれない恐ろしい一面を想像せずにはいられません。
権力闘争と人間関係の崩壊
リーダーシップの争奪や権力の集中も、極限状況下での人間の醜い部分が露呈します。映画では、リーダーシップを巡る対立や、権力を握るための裏切り、陰謀が描かれます。これらは単なるサバイバルの問題に留まらず、人間関係の崩壊や信頼の失墜といった深刻な問題を引き起こします。この過程で人々がどのように変わり果てていくのか、その過程が恐怖を伴って観客に伝わります。
集団心理と暴力の正当化
集団の心理が暴力を正当化してプロセスが描かれています。安全を確保するためには手段を選ばないという考えが広まり、集団の中での暴力や非人道的な行為が次第に正当化されていく様子は、非常にショッキングです。これが実際の社会で起こり得る現実の延長線上にあると考えると、暴力と戦争がなくならない現代社会にあって、心底、恐怖を感じる要因です。
ホラー映画よりも”怖い”人間の本性
一般的なホラーやスリラー映画では、恐怖の源泉は多くの場合、外部の脅威や超自然的な要素にあります。しかし、『コンクリート・ユートピア』では、恐怖の源泉は人間自身の内部にあります。私たちが最も信頼し、愛するはずの人々が、極限状態でどのように変わってしまうのか。その不確実性と裏切りの可能性に、恐ろしい恐怖を覚えるのです。
自分にもその本能があるはずだという恐怖
映画を通して感じたもう一つの恐怖は、自分自身も同じ状況に置かれた時、同じように振る舞ってしまうかもしれないという可能性です。人間は、普段は理性と社会的規範によって行動を制御していますが、極限状態ではその制御が効かなくなり、本能的な行動が表面化します。『コンクリート・ユートピア』の登場人物たちは、生存のために道徳や倫理を犠牲にし、時に暴力的な手段を取ります。映画を見終わった後、自分も同じように変わってしまうのではないかという恐怖に直面します。
人間がいる限り続く終わりのない恐怖
ホラー映画は、ある種のファンタジーなので、種明かしや終わりが必ずあります。しかし、この映画が描く恐怖には救いがありません。人間が存在する限り、極限状態においては本能が表に出てしまうという現実は変わりません。『コンクリート・ユートピア』が示唆するのは、人間が存在する限り、この恐怖が続くということです。人間の本能的な部分は、どんなに文明が発展しても、どれだけ教育や文化が進んでも根本的には変わりません。つまり、この恐怖は永遠に続くのです。この映画は、観客に対してこの永続的な恐怖を認識させ、人間の本質について深く考えさせます。
AI社会になっても人の本能は変わらない?
『コンクリート・ユートピア』が描く恐怖は、スリラー映画の一時的な驚きや興奮とは異なり、人間の本質に根ざした深い恐怖です。自分自身の中に潜む本能が露わになり、それが他人にも同様に存在するという認識は、観客に強烈な不安と恐怖をもたらします。
AI社会になって、いろいろな技術が社会問題を解決したとしても、人間の本能も変わるのでしょうか?
映画は、こちらからご覧いただけます。
怖い映画がおスキな方のみ、ぜひどうぞ。
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