どこまでも清潔で明るい家

10. どこまでも清潔で明るい家

 ミキシングドラムを積んだミキサー車が来たのは、九月の一日のことだ。僕はその日の朝、朝食をとりながら回転するドラムをずっと眺めていた。その気になれば、いつまでも見ていられる。洗濯機と一緒だ。
 地面には基礎の形に合わせて、石が敷き詰められていた。割に粗い石だ。そのすき間を埋めるため、あるいは地面を平らにするために砂利が入れられている。上に被せてあるのはたぶん、防湿シートか何かだろう。そこにまず、高低差をなくすための捨てコンが流し込まれた。
 コンクリートが固まると、それを受け台として鋼製の型枠が組まれた。アンカーボルトを打ちつける音が晴れ空の下に響き渡る。時折、雲が過客のようにやって来ては、職人たちの頭上にとどまり、陰をつくる。その束の間の涼しさの下、職人たちは手作業で鉄筋を配置していった。気長な作業だ。でも欠くわけにいかない、大事な作業なのだ。それは彼らの焼けた横顔からも見てとることができた。
 基礎の上に底板となる板材が敷かれたのは、打設工事が終わった二十八日後のことだった。その日は足場屋のトラックも朝早くから駐車場に乗り入れ、待機していた。トラックの荷台には足場の構造部材がたんまりと積まれている。建わく、筋かい、足場板、ジャッキベースにクランプ、ブラケット……。運転席と助手席にいる若い男ふたりはまだ高校生のような、あどけない顔をしていた。もしかすると本当に高校を卒業したばかりなのかもしれない。一人の顔にはまだにきびの跡が残っていた。
 仕事の方は実に手慣れたものだった。まず木製の四角い敷板を一定の間隔で地面に落としていく。そして、そこにジャッキベースを置いた。建わくの脚をそれに差し込み、両端の建わくが立ったところで、つかみ金具の付いた足場板を掛ける。側面には、筋かいが取り付けられた。
 地上にいる者が、上にいるもう一人に対してクランプやらブラケットやらを投げ渡していくその様は、僕の目には大道芸のように映った。足場が上に上にと高くなっていく。階段が設けられ、二層目からは足元に幅木が、なまし番線で固定された。手摺りや桟も次々に設置されていく。それは素人目に見ても、遅滞のない、本当に手際の良い仕事ぶりだった。見事だ、と思わず口から漏れた。
「何か言った?」母親が怪訝そうに訊ねる。母親は鶏肉にフォークで無数の細かな穴をあけているところだった。寸胴鍋が出ているから、チキンカレーかもしれない。
「いや何でもない」と僕は言った。「木材はいつ入って来るんだろう?柱とか梁の」
 今度は母親は手を止めて、僕の方を振り返って言った。「入って来ないわよ、そんなの」
「入って来ない?」
「うん。ユニットごとに出来上がったものをクレーンで吊って、据え付けておしまいみたいよ、今は。昔みたく、大工さんがぞろぞろ集まって柱を立てたり、梁を掛けたりは現場でしないんだって」
「それで、そのクレーンが入るのがこの週末だってのか」僕は新聞の束の上に置いてあった工程表を手に取りながらそう言った。「でも一日しか見てないね」
「うん。何もなければ丸一日はかからないんじゃないかって」
「ふうん」
 でもその何かはちゃんと起きた。台風が発生したのだ。

 二日後の朝、家の固定電話が鳴った。僕らはまだ出勤前で、朝食もすんでいなかった。ちょうど朝食の用意をしていた母親は「誰よ、こんな朝っぱらから」と言いつつも、自分の手で受話器をとった。ただ不機嫌さを隠す気はさらさらないようだった。
「はい。星名ですが。あ、どうもお世話になっております。はい。大丈夫です。………はい、………あー、そうですか、はい、来週の月曜日に。わかりました。こちらは大丈夫かと思いますので。いえいえ、ご連絡ありがとうございました」
 母は電話を切るなり、「テレビつけて」と僕に言った。僕は言われるがままに、リモコンの電源ボタンを押した。テレビはどこもかしこも台風中継一色だ。画面に映し出された列島の南では巨大な渦が発達している。
「五日に発生した台風十四号は現在、南西諸島を通過し、ゆったりとした速度で北北西へと進んでいます。あす以降、列島に接近し、十日から十一日にかけて東日本に接近、上陸するおそれがあります。太平洋側沿岸、内陸部でも強い雨、強風に警戒して下さい」
 進路予想図によれば、十二日には東北沖の海上で温帯低気圧に変わるようだ。そこに、身支度を終えた父親が入って来た。ずいぶん肥えたなと、そのとき、なぜか思った。父が太り始めたのは、九年前からだ。震災の年、お気に入りだった銘柄の煙草が手に入らなくなったのを理由に、禁煙した。禁煙に成功すると、その副作用として、男は肥えだすというのはよくある話らしい。父もご多分に洩れず、その流れをたどった。おかげで毎年のように作業着のズボンのサイズアップをせがんでは、自分の妻をうんざりさせている。余談だ。
「誰からだ?」父は朝刊をテーブルの上に広げながら、そう訊ねた。
「ううん。棟上げを延期させてくれっていう話。十二日に」
「あー、台風でか?風速が十メーター超すと、クレーン作業は中止だからな。まあ、しゃあないわな」
「足場は大丈夫かな?」僕は遠慮がちに訊いてみた。
「んー、大丈夫だろ?」父はまだ朝露に濡れている足場の方を一瞥してから、そう言った。そしてまた朝刊の方に視線を落とし、「メッシュシートもたたんである」とだけぽつんと言った。

 遠くの空で、熱帯低気圧が温帯低気圧に変わったころ、棟上げも完了した。たしかに始まってしまえば、早い。あっという間だった。二階が据付き、屋根材や断熱材がクレーンで吊り上げられたところまで見届けてから、僕はカーテンを閉めた。網戸から入った風がカーテンの裾を優しく揺らす。
 家の内装工事については、多くを見ることがかなわなかった。メッシュシートで建物が覆われてしまったこともあるし、僕らが帰って来るころには業者がすでに出払っていることも多かった。工事の進捗状況を自分の目で見られたのは、日中しきりに家の中を覗いていた母親だけであった。ここでも母は、女の特権を存分に活用したらしい。現場で指揮を執る棒芯に取り入り、内覧の許可を直接得たのだ。そういうわけで太陽光パネルの説明もなぜか、家主である弟よりも先に受けることになった。「あんまり出しゃばってくのはよしなさいよ。作業の邪魔にもなるから」と父はよくたしなめていたものだが、母は聞かなかった。相変わらず母は、「今日はバスが入ったの」とか「床は仕上がって養生してあったけど、キッチンはまだみたい…」とか僕らに話して聞かせた。そんな風にして、二十年の秋から冬にかけての二か月が過ぎていった。僕にとっては、二十代最後の年だった。

 年が明けて最初の月の、最初の月曜日、星名家は正月風景を絵に描いたようなありさまだった。テーブルの上には残ったお節料理が段になって重なっていて、床には飲み干したコカ・コーラやジュースのペットボトル、飲みかけの日本酒の瓶などが転がっている。テレビはまだついていなかった。妹は右半身に原因不明の怠さを訴えて、ソファーに横になっている。
 道路も静かだった。人通りも車の往来もほとんどない。配電線の上に止まっている尾長でさえ、この時期ばかりは鳴くのをためらっているように見える。僕は窓を開けて、新鮮な空気を肺いっぱいに吸い込んだ。無性に煙草が吸いたかった。
 ほどなくして、弟夫妻がベビーカーを押して帰って来た。ここからほど近い神社に初詣に出掛けていたらしい。ベビーカーの中にいるココは何も言わずに(というか、まだ何も言えずに)その大きな、くりっとした目でこちらを見上げている。弟がそのすぐそばで父親と何事か話している。
「今日の午後、家にいるよね?」
「んあ?何で?」
「いや、住宅ローンの契約の説明があるから。リモートで。って前から言ってあったよね?」
「そうだっけか?でも別に俺は要らねぇんだろ?」
「いや、要るよ。土地提供者ってことで一緒に本人確認されるから」
「パチンコにでも行っちゃおうかな」
「……」
「冗談だよ。いるよ。年始早々、負けて帰って来るのも嫌だしな」
 父はそう言いながら、蛇口をひねって水を止めた。研ぎ終えたばかりの包丁をまじまじと眺めて、おもむろに立ち上がる。そして、戸外から家の中にいる自分の妻に向かって、「新聞紙くれ」と叫んだ。「自分で取りに来りゃいいでしょうが」と愚痴る母の声があとに続く。砥石の浸かった桶の中の水はしばらくのあいだ、そのままになっていた。

 正月気分が明けて街に人が戻り出したころ、家は完成した。それはどこまでも清潔で明るい家だった。ハウスメーカーのロゴとネームがさりげなく配われた家の基礎部分は水害対策のため、地面より三十七センチ高くなっている。そしてそこから道路の側溝に向かって緩やかに勾配がつくように舗装がされていた。むろん、水捌けを良くするためだ。南西の方角に向いた屋根には太陽光パネルが設置され、家の中はすべて電力でまかなえる。目の前の道路は交通量が多く、近くに線路もあることから、家の窓はすべて防音になっていた。レンガ塀や植栽も元通りで、父親が暴れだす心配もなかった。駐車場には今さっき弟夫妻が乗ってきたホンダのフリードがとまっている。
「家の受け渡しはいつなんだ?鍵がもらえるのは」と僕は隣にいた弟に訊ねた。
「二月五日」と弟は簡潔に答える。
「二十九の誕生日か。ずいぶんでかい誕生日プレゼントだな」
「うん。とうぶん誕生日プレゼントは要らないね」
「それにしても、何でそんなに受け渡しが遅いんだ?もうすぐにでも入れそうなもんだけど」
「いや、無理でしょ。だって表札も呼び鈴も付いてないじゃん、まだ。見ればわかるでしょ」
 僕は昔から、この「見ればわかるでしょ」という文句が苦手だった。おそらく空間認識能力が人と比べて著しく低いのだろう。自分が抱えている欠落を指差し呼称されているような気がしたものだ。おまけに世の男は何の造作もなくできているのだから、余計に疎外感や劣等感を感じる。「空間認識能力、欠如!」被害妄想だ。
 新築ラッシュなのだろうか、隣の歯医者の裏手にも家が建ちはじめていた。一月のひんやりとした外気の中、木材を打ちつける音が響く。踏切音が鳴って、遮断機が下りた。太陽はほぼ南中に昇っていた。

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