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2023年、夏から秋 ②

 もう一本、映画の話。この週は立てつづけに二本、映画を見た。そのもうひとつがピーター・ヘッジズの同名小説が原作で、一九九三年に封切られた『ギルバート・グレイプ』。これが十月十三日の金曜から一週間限定でリバイバル上映されると聞いて、急遽観に行ったのだ。
 映画を観ればおのずとお分かりになるのだが、『ギルバート・グレイプ』というタイトルは「グレイプ家のギルバート」ぐらいの意味である。舞台はアイオワ州の小さな町エンドーラ。アメリカの片田舎が舞台の作品だから、さぞ牧歌的でのほほんとした仕上がりになっているのかと思いきや、これがとんでもない。なんせ知的障害を持つ弟と、夫の自殺をきっかけに過食症になって家から一歩も出られずにいる母という二大面倒の種をかかえた一家の話なので、家の中といえどもまあうるさい。おもに一家の安寧を乱すのは弟役を演じた若き日のレオナルド・ディカプリオなのだが、これが知的障害者よろしく、片時もじっとしていない。イナゴを殺して感極まったり、兄ギルバートに奇声を上げながらちょっかいをだしたり、町の鉄塔に無断でよじ登って警察沙汰になったりする。その演技が実に真に迫るものなので、見ているこちらまでついいらいらしてしまうのだ。
 さて、かくさようにして我々の視線、そして感情は自然とその弟に振り回される兄ギルバートの方に向くことになる。少なくとも僕はそうだった。ギルバート―こちらはジョニー・デップが演じた―が時折見せる衝動的な振る舞いから、彼の人間臭さと葛藤が見て取れるからだ。例えば、風呂嫌いの弟アーニーを入浴させる場面。弟のからだを洗い終えたところで、ギルバートは気になる女のもとに会いに行ってしまう。彼からすれば、『からだは洗ってやったんだ。あとは自分のからだくらい自分で拭けるよな。タオルも用意してあるんだから』と軽い気持ちで弟をバスタブの中に置いていったのだと思う。しかし、知的障害者であるアーニーはそれすらできない。翌日朝帰りしたギルバートはバスタブの中でぶるぶる震えている弟を発見して、顔面蒼白になる。
 もちろんすぐさま謝り、許しを請うのだけれど、あなたはここまで読んでこの男を断罪する気になれますか?申し訳ないけれど、僕はあまりそういう気にはなれなかった。いや、彼にも明白な落ち度はあるのだ。中途半端なところで放りださずに、せめて適当な服にでも着がえさせてから女に会いに行けば済む話だったのだから。でも―、と僕は同時にこうも思う。兄とはいえ、ギルバートもまだ二十四なのだと。誰が二十四歳の青年に完璧な父親代わりみたいなことを要求できるだろう?人としての器を大きくするというのは、もっとずっと迂遠な行為であるはずだし、迂遠な行為であるべきなのだ。それを性急に成し遂げようとすることは、下手をすれば命にも関わってくるのだから。
 いずれにせよこの映画は見る年齢によって、わかる/わからない・共感できる/共感できないがはっきり分かれるのではなかろうか。僕にしたところで二十代のときにこれを見ても、上手く物語の芯みたいなものが掴めなかったんじゃないかという気がする(あるいは興味さえそそられなかったかもしれない)。そういう意味では、年を取るのもそこまで悪いものではない。まあ飽くまで「悪いものではない」という程度で、心愉しいものではもちろんないんですけどね。

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