どこまでも清潔で明るい家
3. 祖母、詐欺に遭う
家の固定電話が鳴ったのは夜の11時過ぎだった。受話器をとったのは母親だ。風呂からあがって、ソファーでくつろぎながら録りためていたテレビドラマを観ている最中だったらしい。電話をかけてきたのは、祖母と同じ階に住む、永井さんというご高齢の女性だった。受話器越しの彼女の声は、少しくぐもって聞こえた。
「星名さんのお電話番号でお間違いないでしょうか?」
「はい、そうですが」
「私、保子さんと同じ都営住宅に住んでいる永井という者ですが、夜分遅くにすみませんね、少しお耳に入れておきたいことがあって、お電話しました」
「母が、どうかしましたか?」
「保子さんにはお孫さんがいましたよね、とてもたくさん。それで、ごめんなさいね、名前は忘れてしまったのだけれど、つい最近ご結婚された男のお孫さんがいると」
「……のこと、でしょうか?」
「そうです、そうです。その……くんがこないだ遊びに来たと、保子さんが話すんです。それで言うんです、その子から『新車を買いたいから百万円を貸してくれ』って言われたって。これって最近流行りの詐欺じゃないかしら?」
祖母―ここからはふたたび「大婆」という呼称も併用する―は寡婦だった。夫は、彼女が三十三歳のときに病に倒れた。白血病だった。けれども夫と死に別れるまでの七年間で、三人の子宝に恵まれた。むろん、そのうちの一人は僕の母親で、ちょうど今、濡れ衣を着せられつつある自分の息子に確認の電話を入れている。
「つかぬことをお聞きしますが、ここ最近、大婆に会いに行ったり…した?」
「行ってないよ。ここ最近って、十一月中にってこと?」
「うん。十一月、もっと前でもいいんだけど、たとえば十一月」
「行ってない。何かあったの?」
「それがね、あなたが遊びに来て『新車を買いたいから百万、貸してくれ。でもこれは母さんには秘密だよ』って言って帰ったって、大婆は話してるらしいの。自分のお友達に。あなた、そんなこと言った?」
「そもそも行ってないから言いようないけど、車は買ったね」
「ん?」
「ホンダのフリード。八十万で売りに出てたから、月払いで。大婆の方は、詐欺じゃない?」
「違うわよ。ほんとにあの子が来たのよ」
祖母は、急に押しかけてきて問いただす娘に向かって、そう答えた。祖母は勤務先から帰ってきたばかりなのか、まだ身なりを崩していなかった。短く切り揃えられた真っ白い髪は不自然なほど頭に撫で付けてあって、毛一本立っていない。近頃はあまり目にしないが、矍鑠と言えなくもなかった。
「でも、電話で確認したら『大婆のところには行ってない』って言ってたわ。いつ来たのよ?」
「いつって、ここ最近よ」
「だからその最近っていつなのよ?だいたい、何の用件があって来たの?」
「知らないわよ、そんなこと」
「知らない?知らないわけないでしょう。何か用があって来るんだろうから。それ、最初に伝えられなかったの?」
「伝えられてない」
「ちなみに、どこで会ったんだ?」僕は訊いてみた。
「駅」
「えっ、家に来たんじゃないの?」母親が素っ頓狂な声を上げる。
「違うわよ。『駅で待ってるね』って言うから、私、バスに乗って駅まで行ったもの。そうしたら、あの子が、あそこ……あれは何て言うんだっけ?タクシーの乗合場所。カタカナで」
「ロータリー」
「それよ。ロータリー。そこにあの子が待ってて、一緒に家まで歩いたわ。しょうがないでしょう、『運動不足だから歩きたい』って言われたら。で、あなたは知ってるでしょ?坂道を下ったところにある公園。そこまで行って―」
「で、どうしたのよ?」母親が話をさえぎって質問した。
「『俺、ここで待ってるから』って言うのよ。だからしょうがない、私、家まで急いで。あわててたから、ポーチのなかの鍵探すのにも手間取っちゃったわよ。それで扉開けて、靴も脱がずに仏壇まで駆け寄ったわ。それで御父さんに『ごめんねぇ、堪忍してねぇ』って手を合わせて。なかに隠してあった白い封筒だけ手にして、公園まで戻ったのよ」
「何も疑わずに?」僕らは思わず口をそろえた。
「疑っちゃ悪いじゃない、自分の孫だもの。だいたい、さっきから何なのよ?詐欺だ、詐欺だってうるさいわね、ったく。ほんとにあの子が来たのよ」
僕はここで序盤からずっと気になっていたことを思い切って聞いてみることにした。嫌われ役を買うのは気が進まなかったが、まあここはいいだろう。言葉だけ慎重に選べばいい。
「あの、大婆さ、さっきからずっと『あの子、あの子』って呼んでるけど、『あの子』ってだれのこと言ってる?名前、言える?」
祖母は聞かれていることの意味がわからないというような、きょとんとした顔を見せた。それからゆっくり時間をかけて目つきが遠くなり、結局、何も言わなくなってしまった。口のなかに罪悪感が広がる。
「お母さん、タクシーの乗合場所は何て言う?カタカナで」
母親が追加の質問を自分の母親に浴びせる。しかし、それに対しても祖母は目をぱちくりさせるだけで、何も答えようとしない。僕と母には嫌な既視感があった。
「きくの婆さんのときも、たしかこんな感じだったよね?脳梗塞で倒れた直後。意識は戻ったけど、元の目つきは戻らなかった」
「うん。時折、攻撃的なことも言うようになって。それまでは口数の少ない人だったんだけど。よその家のことにまで頼まれてもないのに、首突っ込んだり、しょうもない嫌がらせして回ったり、散々な目にあってたもんな」
「何を二人でこそこそ話してんのよ」しばらく黙りこくっていた祖母が唐突に口を開いたことに僕らはひどく驚いた。
「何でもない。それで渡しちゃったお金、あれはもういいから。一応、警察に届け出はしてあるから、運が良ければ受け子が捕まって、お金も戻ってくるかもしれない」
「ウケコ?ウケコってだれよ?私はヤスコよ。ヤ・ス・コ」
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