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ご機嫌で生きたいよ~トホホ
最近特に「独りで死んでいくしかなさそう」という思いが強まる日々だ、と再三申し上げている。
そう思う第一の理由は己が生まれつき持つ攻撃性の強さなのだが、そういう社不特性をあげつらって自己否定を繰り返すばかりだとなんだかどん詰まりな気がするので、一度ネガティブではない方向で一人で生きていくということについて改めて考えてみようと思い立った。
この間「パートナーを持たずに生きていく」というテーマを前向きに取り扱っているドラマを観た影響も大きい。
まず、自分で言うのもなんだが私という人間はかなり気難しい。合理的判断とは別に「これは絶対こうしなければならない」「これだけは嫌だ」といったマイルールが山ほどあるし、そういうのを逐一行動の度に考え続けているために、四六時中脳内音声が頭の中に流れ続けている。私にとって「思考」とは明確に文字の形をしている。音読をするように、起きてから寝るまでノンストップで頭の中の文字を読み上げる声が聞こえる。
文字情報優位思考なのだ。空間が文字で敷き詰められていると安心する。何でもかんでも文字の型に押し込めたい。学生の頃は授業中思った言葉をでっかいゴシック体にして黒板の前に浮かべる想像をよくしていた。
インスタグラムのアカウントを作ってもう5年ぐらい経つが、Twitterみたいに数十分~数時間眺め続けたことはなく、アプリを開くこと自体かなり少ない。たとえ推しのストーリーやスタライを見逃していたとしても。利用が習慣づかない。やはり画像メインなのが物足りなく感じているのだと思う。文字が少ないと「情報が薄い」と感じてしまう。「文字が読みたい」と欲する思いが常にある。かといって本を読む習慣があるかと言われると、多動特性っぽいのでつい140字以内の短い情報のザッピングばかりになってしまう。
私の内面には、無数の文字で構築された宇宙が存在する。
「文字の数が多い自分は、人間集団の中でも賢い方なのだ」と信じ込んでいるし、文字の密度が薄そうな人間に出くわすと、自分より知能が劣っていると思って見下す。
閉じたプライドを拗らせた、怠惰な恥ずべき虎である。
そんな気難しさを持つ一方で、「こんな自分の内面を誰かに知ってほしい」という承認欲求もまだまだどうやら強いらしい、というのが厄介である。
たまに友達と遊んでは「今日もあまり自己開示できなかった」と、「他者といる時にこそ際立つ孤独」みたいなものを勝手に感じている。
仮に己の奥底で後生大事に温めていた人生哲学をうまく言語化して人前で披露できたとしても、共感はおろか意味を理解してもらえる確率すら低いことは理屈ではわかっているはずなのに。
そう、理論的には「人と人が本質的に分かり合えることはない」という文脈に同意している。だから、大して仲が深くない人と喋る時は自己開示したい気持ちをぐっとこらえて相手の気持ちに共感するような返事・反応を返すことに集中する。それはそれでゲームみたいな楽しさがある。私の返しに相手が安堵したような笑みを漏らす時、「正解」を出せたような、相手を自分の思い通りに操れたような満足感・優越感を得られるから(またそんな露悪的なこと言うて!)。
人と一緒にいると、私の体の中にため込んだこの大量の文字を読んでもらいたいという感情と、どうせわかってもらえない、という寂しさの折り合いをつけられない。いちいち人に期待するのもしんどいから一人でいる方が楽、という結論に至る。
元々一人遊びは得意だし好きな方である。
お笑いを好きになり、年3~4回のスローペースでお笑いライブにも行くようになって2年が経つが、基本的には一人で行くし、同じ芸人を推しているファンで交流がある人も全くと言っていいほどいない。一人でもそのコンテンツで得られる「楽しさ」は十分に享受できていると感じているので、ファン同士の交流でその「楽しさ」を増やさなくてもこれ以上はもう大丈夫、という考え方だ。フォローせずにファンの人たちの投稿を勝手に読む、とかはするけど。
だから今のところ「一人でも楽しい」というのは噓ではない、本心だ。
しかし、このまま何十年も壁打ちを続けていたら誰にも啓蒙されないまま独りよがりな考えをこじらせて、極端なことを言えば陰謀論のようなものに走っていくのではないかという恐怖がある。
自分が少しずつ壊れていくのは自分では気づけない。ましてや「己は通り魔殺人犯と同じ思考回路の社不だ」と日常的にのたまっている奴など、いつ崖から足を踏み外すかわからない。一寸先の闇の中にロープの輪が見える。
そんな中で、自分の生活の中に誰かから聞いた情報を取り入れる時、酸素の薄い部屋の窓を開けたときのような、新鮮な風にスッと目が覚まされるような、そんな感覚を覚える。例えば「あの人が良いって言ってたサービス、使ったことないけど使ってみようかな」「あの人の生活習慣、ちょっと真似してみようかな」とかそういう時。
今のところ、「誰かと交流すること」の一番のうまみはここだと思っている。
逆に「この点を鑑みれば、たとえ分かり合えないとしても人と交流する意義はある」まで言える。
今の、友達と年に何回か遊ぶ生活で新しい風を取り入れることと、それを誰かと暮らす段階にまでレベルアップさせるかどうかはまた別の話だけど。
そうなってくると、「ヘドロのような内面を吐き出せないストレスをどこで解消するか」が、人付き合いのハードルを下げてくれる大きなカギになると思う。
結論から言うと、やはり「創作活動をする」しかないと思っている。
「説教臭くなりそうなことでも、フィクションの皮をかぶせて投げつければみんな案外見てくれるものだな」というのは常々思っていることであった。
「いくら対面で言葉を尽くしてもわかってもらえないときはわかってもらえない」という問答はもうさんざん自分の中で繰り返して納得できている。
それならば他人を直接付き合わせずに済むガス抜きは、もはや漫画をちゃんと描くことしかない。今はそれが最適解ということになった。
長々書いてきたが、要するに「文字だらけの内面世界を捨てたくないし、これからも楽しく一人遊びを続けたいけど、気難しい老人になるのは嫌だし暗く思い詰めるのも嫌」ということだ。
ご機嫌で生きる、ただそれだけのことにすらどうやら努力が必要とはね。
トホホ。