泥の海を渡る⑤

入院部屋へ入る前に大きな扉がある。
関係者以外立ち入り禁止。
大きく書かれた張り紙。
このコロナ禍の中、入院治療できる病院があっただけ、ありがたかった。

でも
歩行も困難になった彼を車椅子に乗せて病室へ向かう。
涙が溢れてきた。
彼の表情を見る。
床を見つめたまま。
声も出せず
筆談用のスケッチブックを手にしているが
記入しようとすることもない。
ただ床を向いている。

精神科病棟の入院部屋を見たことがありますか。
入ったことはありますか。
入院したことはありますか。

固定器具のついたベット。
蓋のないトイレ。
鍵の開かない窓。
硬くて開けることができない鍵のついた扉。
匂いがする。
鍵のついた窓。
もちろん自分の意思で開くことはできない扉、窓。
Wi-Fiの通じない環境。
最初に入院したのは山に囲まれた小さい病院。
秋の入り口を感じさせるようにトンボが飛んでいた。

これが彼の15歳の秋の始まりだった。
最初は摂食障害の治療から始まった。
朝から晩までずっと点滴を受ける。

看護師さん、担当医の先生からも連絡をもらう時もあった。
「水分も食べ物も一切受け付けなくて、何か好きな物を持ってきてもらっても良いですか。」
職場を早退し、買い物へ向かう。
お菓子、ジュース、ゼリー、一つひとつ選んで籠に入れていく。
考えてみたら、彼に私は何ひとつしてあげてなかったのではないか。
13年前に亡くなった父との約束を守って日々、一生懸命だった。
今考えて見ると、ただの言い訳だった。

差し入れと手紙を持って看護師さんへ渡す。
きっと治る。
私が信じていれば元気になる。
願いを込めて病院を見つめた。

父との約束を守る続けた私が間違っていたのだろう。
いろいろ考えながら眠りについた。
夢の中では海が広がってきた。
黒く沈んだ海。
波打ち際にいたのに、いつの間にか膝までの浸かっていた。
彼を背中に背負っているので
立ち止まることも
転ぶことも
できない。
何も見えない。
叫ぶことすらできず
息苦しく
呼吸ができない。

目が覚めた。
朝だ。
また笑顔になろう。
良い妻、良き母親、良き娘、良き社会人として。
鏡を見た。
大丈夫。
まだ頑張れる。
私が信じてあげなければ。

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加賀屋  寛子
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