
奇跡
最近自転車のタイヤの空気が抜けやすい気がして、午前中用事を済ませた後に自転車屋に行った。
自転車屋を訪れたときには既に店内に何台か修理待ちの自転車が並んでいて、少し時間がかかるようだった。
U-turnの土田に似ている店員さんが、軽く自転車を一瞥し、また一時間半後に来てください、と言った。
ハイ分かりました、とその場を後にしてハッと気が付いたが、
私は今、時計を持っていない。何ならスマートフォンの充電もない(前日に充電を忘れていたからだ)。
とどのつまり、土田に「一時間半後」と言われたものの、その時の私は時刻を確認する術を一切持っていなかったのである。
しかし私は機転をきかせて、すかさず近くの喫茶店に入った。別に時間を潰すだけなら本屋でも何でも良かったのだが、喫茶店を選んだのには理由があった。
喫茶店でアルバイトをしていた時の経験から、レジの対面には必ず店員が時間を確認するための時計があるはずだと知っていたからだ。
しかも喫茶店なら、座って時間を潰すことができる。
完璧な計画だ。
そして、カフェラテ(480円)を注文し、席に着いた。運よくレジの真向かいのポジションを取ることもできた。
計画は順調だ。
そして私は、満を持して後ろの壁を見上げた。
時計、ぜ~んぜんなかった。もぬけの殻。なしのつぶて。
多分もう今はレジの端末とかで時間くらいいつでも確認できるんでしょうね。
そういえば私がアルバイトをしていた喫茶店は、とにかくあらゆる設備がボロかった記憶がある。
あわててレシートの時刻を確認すると、入店時点で2時半ちょうど位だった。つまり土田の言う一時間半後とは、およそ4時だということになる。
4時ね~
5時のチャイムの一時間前だね~
そっか……
とりあえずどうしようもないので、図書館で借りてきた本でも読んで時間を潰すことにした。
読書を始めてから、ヤブ蚊がぶんぶんと周囲を飛び回っていることに気が付く。
最近急に涼しくなったから、虫もようやく活動を始められたらしい。
何にせよ生き物が生命活動を営めるのはよいことだ。
これまた読書を始めてから気づいたのだが、最高だと思っていたポジションは、大声で電話をするインド人、公衆の面前で無限にチューしてるカップル、マルチ勧誘とそれを論破しようとしている大学生、が織りなす地獄の三角形の中央に位置していた。
つまり、そこはしっかり読書に向かない席であった。げんなり。
とはいえ少々げんなりしながらもページをめくっていると、不思議と喧騒の中でも(少しずつだが)本の世界に入り込むことができる。
7年を共にした愛車からチューブがめりめりと剥ぎ取られ、じゃぶじゃぶと水に浸されていることももはや忘れ、すっかり本の世界に没頭していた私は……
その時だった。無限接吻カップルの男の方がスマホの液晶を眺め、ふとこう呟いたのである。
「もう4時か……」
一本満足バーの草彅剛?
こんなことあるんですね。
運よく目的となる時刻の到来を確認できた私は、すぐにグラスを下げ、土田の待つ自転車屋さんへと向かった。
結局タイヤはパンクしていなかった。土田はすごい早口だったが、最後まで丁寧に接客してくれた。あと私の自転車のタイヤがものすごく硬いことを終始強調していた。タイヤが硬いと何が良くて、何がダメなのかは正直よく分からなかった。点検代は1000円だった。
本日の出費、1480円。
自転車屋からの帰り道、頭を丸刈りにした小太りの少年が
「Tシャツ おもしろい オランウータン サル 面白 キッズ 速乾 フルグラフィック 爆笑 シャツ 衣類 実写面白い 3D」
という商品名でネット販売されていそうな、背面に実写のサルの顔がでっかくプリントされたおもしろTシャツを着ながら、立ち漕ぎで私の横を颯爽と走り去っていった。
実写のサルの顔(アップ)は、不意に見かけるとかなり怖い。