
【エッセイ】ピアノバーの片隅で(前)
新宿歌舞伎町を見下ろす雑居ビルの4階にそのバーはあった。
「新宿、ピアノバー」で検索すると、数件出てきたうちの1件だ。正式にはジャズバーというカテゴリーらしい。ジャズの雰囲気は好きだけど、まるで知識がない。目的はピアノの音色だったので、一番小さそうな店を選んだ。
店の前には一週間分の演奏者の名前とタイムスケジュール。分厚い扉の向こう側から、もうすでに演奏が始まっているのが聴こえる。「ピアノの生演奏あり」の記述は確かだった。
細長い店内の入り口左側にグランドピアノが横たわっている。相対するカウンターの壁には洋酒のボトルがずらりと敷き詰められていた。室外の喧騒が嘘のように静かで、十分な暗さを保っている。店のチョイスに成功した、と心のなかでガッツポーズする。
待ち合わせ前の時間をつぶすために立ち寄った店。久しぶりの上京なので、都会らしい雰囲気を満喫したかった。自分へのご褒美、癒しの時間。

ボーイがメニューリストを渡しながら説明してくれた。
「ご希望の楽曲がございましたら、こちらにご記入ください。彼女にリクエストさせていただきます」
ピアノを奏でている演奏者の方を掌で示した。その夜の演奏者が女性であることに初めて気づく。ピアノの前の彼女が軽く会釈する。
「どんな曲がリクエストできるんですか?」
「どんな曲でもリクエストできます」
「どんな曲でも? 本当に?」
クラフトビールとピクルスをオーダーしてから、少し考える。
生演奏にリクエストができるなんて、滅多にない好機だ。
さて、どんな曲をリクエストするのが正解か?
ボーイに渡されたのは、その店の紙のコースターでもあった。
店にはカウンターの隅に50代くらいの男性がひとり。テーブル席にはカップルが一組あるだけだった。いや、まだカップルではないのか。サラリーマン風の男が女性を必死に口説いているように見えた。ピアノの前の彼女は、手持無沙汰にBGMがわりの演奏を続けている。
リクエスト用のコースターに「Moon River」と書いてボーイに渡す。映画『ティファニーで朝食を』の劇中でオードリー・ヘップバーンが歌った曲だ。我ながら手堅い選曲だといえる。ジャズバーの雰囲気を壊さず、誰もが知っている有名な曲。
リクエストを受け取った彼女が、百科事典くらい分厚い本の頁をめくっている。楽譜なのだろう。そうか、あのなかにある曲ならどれでも弾けるということなんだな。

「Moon River」のイントロが流れる。劇中ではギターだったが、ピアノもいい。そして驚いた。彼女が流暢な英語で歌いはじめた。演奏だけでなく、歌付きなのか!
記憶にあった「Moon River」のどれよりも力強い。低音で伸びやかな、少しハスキーな声。ヘップバーンのささやくような歌声とは真逆の力強さがある。まぎれもないプロの歌声だった。
女性を口説いていたサラリーマンは姿勢を戻し、カウンターでうなだれていた男も顔を上げていた。店の空気が一変したのがわかった。
スパークリングワインと一緒に、次の曲をリクエストする。彼女の声を聴いてひらめいた。「The Rose」。自信の選曲。彼女の声がはまる曲に違いない。
「The Rose」は歌姫ベット・ミドラーの楽曲。ピアノの曲調が変わる。彼女は楽譜を見ていないようだ。ピアノは静かな伴奏に徹し、力強いボーカルが前面に押し出される。
Some say love, it is a hunger,
ある人は言う 愛は飢えのようだと
an endless aching need
絶えず求め続ける
I say love, it is a flower,
私は思う 愛は花だと
and you, its only seed
そしてあなたは かけがえのない種
見事に歌い上げた彼女に拍手が自然と湧き上がる。弾き語りの最後に彼女が付け加えた。
「Thank you, good your request!」
私の選曲は彼女のハートを射止めたようだった。

(つづく)
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