正気の沙汰でない
彼のタイピングは正気の沙汰でない。それはつまりファンキーなサウンドというか、工事現場のズダダダ音というか、あとはお察し頂きたい。タイピングというものは基本がタッチタイピングであって、指はホームポジションにそっと置いておくのが正しい(と思っている)。だから、振りかぶってグーパンチをお見舞いするよりも、相手の胸にそっと沿わせた拳を、ぐっと押し出して「ガンバレヨッ」とやる時のような気持ちが大切なのだ。もちろん気持ちだけではなく技術が伴っていなくてはいけない。たとえば「君を愛してる」と打つ時にはローマ字入力の場合「kimiwoaisiteru」となるわけだ。したがって愛してるなんて打つ時には「ダラダラララ」ってな感じで少量のタイプサウンドが小気味よく控えめに響くのが世の常なのである。ところが彼はどうだ。その手首のスナップは、例えばベランダの手すりに干した布団を叩くときのような力強さを伴って聞こえる。雨垂れ石を穿つというが、荒打ちキーをめがす(めがすというのは方言で壊すの意味)とでも言わんばかりの強打である。残念ながらスナップを聞かせて何かを叩いたりするような奇特な趣味は私にはないので、そのような神経プログラムは発動せず、彼自身の前腕屈筋群を含む周辺の筋肉および脳・運動神経への伝達回路またシナプス・ニューロンの働きが、どのような電気的回路および構造体になっているのかが不明である。また、タイピングとは神速極めんとするものなり、とばかりにスピード感を持って奏でるものだと錯覚している御仁が散見されるが、これには真っ向から異を唱えたい。タイピングとはそもそも何なのか?を考えてみれば自明だが、タイピングとは入力なのである。入力とは指令であり、上司から部下への長い指示や、昨今の情報通信網上の有り難い著名人の動画内における長尺の演説など逐一耳殻を通す暇もないように、同じ指令であるならば短い方が良いということには一定の説得力を感じる。(本稿を例外とする)先述した有り難い演説などには、前後関係など必要な脈絡をもっているものもあり、一概には言えないが。いずれにしても先ほどから私が「タイピング」という言葉を毎回のように「taipingu」と入力しているとお考えの御仁はしばし瞑想に入られたし。若者の酒・タバコ・読書離れに続いてキーボード離れに関する痛嘆の声も聞かれる昨今、稀代の打鍵士として我々が護持していくべきは日本にそびえるフジヤマの如くに打鍵士界の四天王よろしく厳然と君臨する「単語登録」機能であることにはご同意頂けることを信じてやまない。したがって私は「tai」と指令して「タイピング」を呼び出しEnterでもって確定するのであり、taipinguという8打鍵ではなくtaiという3打鍵のもとに5文字のカタカナを正確かつ迅速に画面上に表示させることは、これは打鍵士界隈においては、定食の小皿のたくあんのようなものなのだ。
枯渇することのない文才
ちなみに、先述の御仁は台風の如きズドドドを励行したのち、こつ然とそのサウンドを消滅させ、しばしの静寂に入る現象を度々見せる。これは、彼が瞑想状態に入っていたり、熟考している証には程遠く、ただ単純に頭脳の回転が止まっているだけの話である。黙していれば賢人に見えるという現象は世の中において不思議と散見されるものであるが、平素より喧々としてデシベル倍化の貴公子の如き行いを見せている御仁が静穏なる時、周辺の大半が珍妙な印象を受けることは多いだろう。そこに枯渇することのない文才を携える賢人であるならば、それは同時に熟慮推敲を実施しているものだと見られて然るべきである。また、驚くべきはその修正能力の欠如にある。我々稀代の打鍵士一族は日夜「効率的かつ身体的疲労減少の為の打鍵」について思慮し、自身の神経伝達プログラムを組み直すべく指先の感覚を研ぎ澄ませ、時には60文字にわたる情報通信網上の住所所在地(俗にいうURL)を単語登録帳へ入力して悦に入ることも少なくはないだろう。かような効率の向上と非効率の減少に向けた賢明な動きを取ることは、人間界においてはごくありふれた一般的な習慣的行動と考えていたのだが、どうもそうではないらしい。先述の御仁などは10年前とほぼ変わらぬ打鍵速度において、10年前とほぼ変わらぬバックスペースキーの使用頻度を用いて、相も変わらずマウスの底板をガンガンと鉄製のデスクの天板上へ打ちつけながら矢印を誘導していることがその奏でるサウンドからは読み取られる。これはつまり、彼が矢印の移動速度を変更可能であるということを知らない可能性が浮上する。よしんば知っていたとせ、それを変更しないだけの理由を自身の中に見出しており、そこには一定の硬直した思考が現れるであろう。いや、根本的に疑問を抱いていないという現状を見るにつけ、彼自身の辞書の中に「?」という文字はインストールされていないのではないかとさえ思ってしまう。このことをこれ以上追及すると、家系に関する非難ともなり兼ねないのだが、差当たりこれが人間にはある一定の標準搭載機能があり、そこには生来の違いがあると思った方が良いのだと考える根拠である。
運動神経が正気の沙汰ではない
これまでに述べてきた御仁の正気の沙汰でなさは、運動神経の正気の沙汰でなさに起因するものと考えている。それは、彼の挙動を観察している中で随所に見られる「動作の終点に至る際の神経の行き届かなさ」から分かる。彼が弁当箱の蓋か箸箱か何かを机上に置くときにその音は決まって事務所中に響いている。「カランカランカランカランカカカカカカカカカラララララララ」それは朱肉の蓋を机の上に投げ置くときに起こりがちな、フラフープを地面に投げた際に起こりがちな、上下運動と左右運動の組み合わさった回転運動が織りなす雑音である。そのソロパートは、この10年改良も改悪もされることなく、一定のサウンドを届け続けてきた。これはかの御仁の指先に関して、「最後まで保持する」という能力がないからに他ならない。「そっと置く意識がないから」ともとれるかもしれないが、そこには異を唱えたい。我々は「手を伸ばそう」と決めて伸ばし始める前には既に、手は伸び始めているらしいではないか。これは意識が後追いであるという実験の結果らしい。意識が後追いであるならば、意識して行動するというのは理屈としては通らないのではないか。常に体の動きを追いかけて生きているとするならば、元々備わっている動き以外は実行できないはずなのだ。ただし、動きを訓練することにより新しい動きを身に付けることは一定可能だと信じたい。つまりこの理屈で言えば先述の御仁は「単なる訓練不足」つまり「怠惰の化身」ということになる。いつだったか深海潜水艇「タイタン」が爆縮して海の藻屑となったと報じられていたが、さしずめ彼は「タイダー」として自身の深い海の中で生きているのだろうと察する。ちなみに、本稿を入力している現在、彼は寝息を立てながら休眠に入った。この光景も10年間変わらない。つまり、彼は10年間変化していないのだ。時を経ていないのだともいえる。であるならば時を経ていない彼は若いのではないか?という新たな問いがここに生まれる。ビルの老朽化や、公園の遊具の老朽化を考えれば分かるが、一般的に有象無象は時を経ると劣化する。であれば、変化のない彼は若いのではないか?これは愚問以外の何ものでもない。若さとは何か?若さとは環境の変化と合わせて自身が変化することによりその差異を限りなく少なく保持する働きによってもたらされる内面および外面の違和感の無さのことである。つまり、変化しない者はより一層環境との差異が明白となり、くっきりと劣化し、その存在は陳腐化していくのである。物が古くなるのは、物自体が古くなるからでもあるが、周囲の新しいものとの関係の中で「古い」と認識されるからである。老人ホームで老人を探すことが無益なように、古いものばかりの中に入ればその尺度は埋もれて消える。すなわち、先述した彼も絶対的に若いか老けているかということは決められない。ただ、変化がない分環境の変化からするとギャップがある存在であるというのが適切である。何にしても正気の沙汰でない。ここまで約3800文字をこの話題に費やす私自身も含めて。