ミニマリスト=普通の人であるという話

奇をてらうわけではないがミニマリスト=普通の人である。
これがこの話の結論だ。残りは駄文として消化して頂きたい。

必要十分なものと環境で暮らすこと。それはとても普通なことだ。ところが世の中にはその「普通な人」を自称したり、目指したりする人がおり、にわかに信じがたい現象だ。埋没希望者の続出は日本の床下に巣食うシロアリ同様であり日本の将来を憂えている、というのは冗談だ。
とはいえ、十数年前、僕もミニマリストを目指したことは事実だ。その時はマネークリップを使い、手ぶらで出かけることをカッコいいと思っていた。街ゆく荷物の多い人を見て「ミニマルじゃないねぇ…」と思っていた。今考えれば当時の自分の方がよほどミニマルでない存在だったのだ。ピチピチSサイズのビキニパンツをはいた2m超巨漢レスラーみたいな不格好さがあったに違いない。

ミニマリストがなんであるかを論じることにはあまり意味はない。それは「氷とは何か」を論じるようなものだからだ。でも、ものすごく美味しくて、見た目は普通なのに、なぜだか世間から引っ張りだこの氷があったら気にならないだろうか?あの氷はなぜ引っ張りだこか?を追及することにはある種の魅力を感じる。

とはいえ、仕方ないので論じてみることにしよう。悪意はないのでチロルチョコ感覚で気軽にお読みいただきたい。※雪の宿でも可

まず、ミニマリストは自称するものではない。本来自称する必要性もない。それは主に他称だからだ。世の中の多くの呼称は自称と他称の2つに分かれており、多くは他称である。自称するのはだいたい変人であり、自称する必要がある。多くの真っ当な人と、他称される変人たちの多くは自ら名乗ってそうなっているわけではないことを理解するのが賢明だ。他称から始まる二番煎じ的自称の構造は世の中によく見られ、世の中にその呼称をスタンダード化させた人物として第一人者は実際的に貴重な功績を残すが、それを見て何かを間違えた自称者などの残りは中国製ipedのように一部の妥協者によって消費され、朽ちていく。そうでないケースもあるかもしれないが。

ミニマリストに共通規範はない。ミニマリストとは「自分にとって必要最小限の物や環境」を自分自身で定義して暮らしている人を指すのであり、スマホ1個ならミニマリストで、フィギュア山積みならばそうではない、という理論は成り立たない。自称ミニマリストが自分自身にとってのミニマルを自分で定義できない、または定義の範囲が痛く限定的である場合にもそこに微塵の説得力もなく、影響も及ぼさない。ましてや自分を定義するためにミニマリストが他の自称ミニマリストを指して批判するなどレジの前で金払い合戦をしている暇な主婦の集団に等しい。

ミニマリストになるとミニマリストを論じがちである。しかし、その結果何を得られたかについては目新しく論じられているものが多くない。これはよくある現象で「メソッドのメソッド化」とでも言えばよいのであろうか。大体得られるのは時間と精神的なゆとり、今を集中して体験することとお金くらいだろう。それであなたはより具体的に何を愛しているのか。

言語能力までミニマルになる必要はないのであって、必要最小限の言葉で事柄を表そうなどと考えてはならないのである。むしろミニマルになった自身の中から、研ぎ澄まされた五感を通じて世界を具に描写してはどうか。混とんとして身重になった時代遅れのガラクタキーパーたちに物申したいのならば、その歴史ある重厚なハートの真芯をズキュンと打ち抜いてもらいたいものだ。当然、その穴は肉眼では見えないくらい最小限に。

枯れた感性のミニマリストなど文字通り枯れ木に等しい。枯れ木がシンプルで身軽なのは当然なのだが、その枯れ木にどんな花が咲いたのかを語って聞かせてくれるミニマリストは多くない。ミニマリストとは手段であるべきではないか。それなのに、その手段の結果何を得たかが不明なのである。手段は嬉々として羅列してある。あそこの塾はいいよ。ところで通ってみてどうだったの?という問いに対しては明確な返事が返ってこない時のようなものではないか。解せない。実に解せないのである。

カオスを許容できない人たちの駆け込み寺。とでも言えばよいのか。先日カオスになったクローゼットから20年前に恩師から届いた暑中見舞いのハガキを発見したので、思い立ったが吉日先生の家まで行ってきた。行ってきたのだが不在であって、連絡先も知らないのでノートを破いて手紙を投げ込んで来たら夕方電話がかかってきた。別に物が多かろうが散らかっていようが、自分の中にシンプルな規律を設けることが出来ればこのくらいの決断は容易である。

ミニマリストを魂のスーツとするなかれ。
あなたが生き方を追求した結果、気づけば何かがミニマルになっているということはあるだろう。しかし、ミニマリストという生き方自体を魂のスーツにすることはお勧めしない。なぜならばこの世はどこまでいっても物質だからだ。今座っている椅子も、この画面を見ているスマートフォンも、歩いている道路も、公園の入口で紅に染まった桜の葉も。物質的豊かさを手放そうと思う時、あなたは宇宙の底に落ちていくということを肝に銘じていなくてはならない。

この地球に生きる全ての愛しい存在へ。

もうお気づきだろうか。あなたにとって大切なものさえ知っていれば、何を捨てる必要も、何を手にする必要もないということに。

最後の一文は余計ですね。

ドロン。


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