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『星の王子さま』と歴史の授業の可能性を思う

最近、『星の王子さま』を読んで、とても可能性を感じています。というのは、これをテキストにして、歴史の授業をできないか、と思っているのです。

単発的に読むのではなく、継続的に。ストーリーに出てくるものにたいして、歴史的な背景をおいながら、ときには推測を働かせながら、このお話を読み通していく、というイメージです。

ひとつの文学作品を、歴史の教育者がとりあげて、こどもたちと継続的に読み続ける、という知の伝達のあり方には、ずっと魅力を感じていました。

たとえば、アメリカには教育困難校で『アンネの日記』を高校生と継続的に読んで、すばらしい成果を得た先生がいらっしゃる。


上記は実話をもとにした映画です。日本でそういった一つの継続的なテキストを用いて歴史を掘り下げていく、というのはあまり聞かないやりかたのように思います(実践があったら教えて欲しい)。

LAのスラム街(?)でつねに危険にさらされるこどもたちに、アンネの体験が響いていく、というお話しです。

ひとつのテキストから、すべてを学ぶ、といった授業で有名なのは、歴史ではなくて国語に有名な例があると思います。もうこれはとても著名な、『銀の匙』のエチ先生。かつて読んで大きな衝撃を受けました。灘高の伝説の先生だと認識しております。

選ぶテキストはとても大切。自分が好きかどうかではなくて、こどもにとって読みすすめるだけの価値が本当にあるのか、が重要だと思います。

アメリカの『フリーダムライターズ』みたいな事例は、探せば世界中にあるのかもしれません。アメリカのように、つめこむべき知識の総量が決まっていない場合とか、教師に任される裁量が大きい場合にそれは成立しやすいと思います。

でも日本のように、覚えるべき知識が定まっている場合には、このように教師が選んだテキストを用いて勝手に授業を構成していくことは難しいのだと思います。

だからといって、日本の詰め込み式が悪いわけではなく、あくまでこどもたちはその詰め込み式の枠の中で育っていけばよいのだと思います(これについては、知識サイドと思考サイドの問題で、自分なりの妥協点が見えています)。

『星の王子さま』で、どのくらいうまくいくだろう…すごく可能性を感じます。

1年や2年の、定められた時間、一定の労力を継続的にかけながら、『星の王子さま』を読む。

作品を読み解くために、自然に歴史の知識が身についていく。

そんな夢のような授業ってできんもんかね……

『銀の匙』は、まさしく「尋常ならざる」お力を有するエチ先生と、能力のとても高い灘高の生徒たちだから成り立っているのかもしれません。普通の人間である僕が、灘高じゃないこどもたちと『星の王子さま』を読んでも何にもならないかもしれない。

でも、いぜん紹介した鳥越先生は、対峙するこどもの能力が問題ではない、と意見を持っていました。鳥越先生は、麻布で教師をなさっていましたが、いつもあらゆる学力のこどもたちに対して必要な歴史教育を考えておられた(ドイツの各種学校の分析などとても興味深い研究実践があります)。

少し考えてみたいと思います。とくに、受け取り手である生徒の立場にたって考えなければ。

フリーダムライターズでいえば、LAのこどもたちにとってアンネは、響く部分があるんだよな。テキストに自分を投影できることは重要だ。現代のこどもに、『星の王子さま』って、どうなんだろうか…でも、とりあげかたによってはいけるのかな、だって80年間くらい世界中で読まれてるわけだからなあ。普遍性があるってことなんじゃないかな…

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